胡桃の中の蜃気楼

萩尾雅縁

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六章

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 そこはアテネの中心部にあるとは思えないほど薄暗く、薄汚れている公園だった。舗装された小径をつき進んだ先にある樹々の間に隠れるようにペンキの剥げ落ちたベンチが見え隠れする。その上で横になっていた吉野の前に、仕立ての良いスーツを一分の隙もなく着こなした男が歩みよった。

「迎えにきました」
 顔をしかめて不服気に薄目を開けた吉野の視界に、苦笑するウィリアムの静かな面が映る。

「心配されていますよ」
「この顔で飛鳥に会えって?」
「一生逃げ続けるのですか?」
 ウィリアムの憐れむような口調に、吉野も右頬を捩じあげるようにして笑った。
「俺にも心の準備ってやつがいるんだよ」

 吉野はウィリアムの背後にチラリと目を遣ると、急に飛び起きてその背中に腕を廻し大声をあげた。当然、ウィリアムは怪訝そうに振り返る。数人の若者が、さっさと行け、とばかりにひらひらと手を振っている。

「来いよ」
「彼らになんて言ったんです?」
「こいつは俺の客だって」

 吉野は囁くように言い、そのままパンッとウィリアムの背中を叩いて木々の繁みの中へ分け入った。蒸せかえる草いきれと独特の異臭が混じる空気に息が詰まるようだった。彼の半歩前を、吉野は物憂げに下を向いたまま進んでいく。地面に散乱するティッシュやゴミの山を、カサコソと踏みつけて。

「先ほどのは、どこの国の言葉ですか?」
「アフガニスタン、パシュトー語だよ」

 鬱蒼とした繁みを抜けて舗装された歩道に戻ったとたん、きつい日差しが降り注いだ。南国の太陽は、すべてをさらけ出すかのように容赦ない。黒々とした影から仕方がなさそうに足を踏みだしたとき、黒い鉄柵で囲われた公園の外側から言い争う声が聞こえてきた。吉野はその声の主に驚いて目を剥き、駆けだしていた。


「お前、こんなところで何やってんだよ!」
 肩を掴んで怒鳴りつけた吉野に、満面の笑みが振り返る。
「迎えにきたんだ。アスカさんがスイスで待っているから」

 アレンは嬉しそうに弾んだ声で告げた。けれどすぐにその口許を引きしめて、自分を睨めつけている吉野のテーピングされた頬にそっと手を伸ばした。

「痛む?」
「今みたいに派手に動かすとな」
 吉野はクックッと含み笑った。
「じゃあ、もっと小声で喋って。口を動かさなくていいように」
 大真面目に言うアレンに頷き返すと、吉野はため息交じりに彼の傍らのボディーガードに同情をこめた視線を送った。

「ご苦労さん。こいつのわがままに付き合わされて、こんなところまで来たんだろ? 命がいくつあっても足りないだろ? ヘンリーに臨時ボーナス請求しろよ!」
「私もそうするべきですね」
 背後でウィリアムが吉野の肩を叩いた。

「危険手当つけてもらえよ。なんなら俺が試算してやろうか?」
「結構です。手当よりもあなたに頼む手数料の方が高くつきそうだ」

 ウィリアムの返事に、違いない! と、ボディーガード二人は顔を見合わせてにやにや笑いあっている。詳しい話を直接聞いた訳ではなかったが、ルベリーニ一族の護衛連中の間で、吉野に交渉事を頼むと法外な見返りを要求されるという噂話が出廻っていたのだ。


「それでお前、どこに行きたいんだ? わざわざアテネまで来たんだ。観光していくんだろ?」
 吉野はアレンに向き直ると頭に手を置き、くしゃっと撫でて顔を覗きこむ。
「でも、」
「きちんと連絡さえ入れて下されば、数日間滞在されてかまいませんよ。彼も、仕事優先で早々時間が取れないでしょうし」
 遠慮がちに小首を傾げていたアレンに、ウィリアムが微笑んで応える。

「飛鳥、なんて言っていた?」
「あなたが無事ならそれでいい、旅行を楽しんできてくれ、と」
「やっぱ、怒っているんだな――。親父には言った?」
「ご心配されていました」
「誤魔化しておいてくれた?」
「もちろん、そのまま正直に」
「冗談だろ!」

 深くため息をつく吉野を見て、ウィリアムはクスクスと笑った。
「トヅキ社長もスイスに来られますよ。叱られてらっしゃい」
「あ~あ、まだ会いたくないよ~」
 ふくれっ面をする吉野を、アレンが不思議そうに見つめている。
「どうして? みんな、きみのことを心配しているのに――」
「だからだよ。俺、まだ飛鳥の気を逸らせるほどのサプライズを見つけてないんだ。飛鳥は俺のこと、死んだ祖父ちゃんの次に大好きなんだぞ。この傷を見たら、絶対ショック受けるに決まってるじゃんか。俺のせいで飛鳥を泣かせたくない」
「傷よりも、きみに会えないことの方がずっと辛いと思うけれどな……」
 アレンは承服しかねる様子で唇を尖らせる。

「笑って、ヨシノ」
 真剣な表情で見つめるセレストブルーの瞳に、吉野は眉根を寄せて不快げに呟いた。
「こっち半分、動かない」
「アスカさんは気にしないよ。だって、前に言われたんだ。人の表情はまとう空気の色で判るって。僕も判るよ。きみが嬉しそうにしていると、とても明るくて暖かい空気に周りのみんなも包まれるもの。だから、アスカさんにきみの笑顔を見せて安心させてあげて。アスカさんは、傷そのものよりも、きみがショックを受けていることを心配されているんだよ」
「俺、べつにショックなんか……。――ありがとな」

 くしゃっと撫でてくれる吉野の大きな掌の下で、アレンは目を細めてにっこりと微笑んだ。


 吉野は自分がショックを受けているとか、傷ついているとか、思ったことはなかったのだ。自分がドジを踏んで、飛鳥を悲しませることだけが、嫌だったのに。

 自分でもよく判らないモヤモヤとした気分で、吉野は、横を歩くアレンを見つめた。

 アテネ国立考古学博物館が目の前に迫っていた。ネオ・クラッシック様式の博物館を目にして、アレンは予想通り嬉しそうに歓声をあげている。強い日差しを受けて、柔らかな金の髪が透き通る光の筋の様に輝きを放つ。
 ふと歩みを止めた吉野に、アレンが振り返って首を傾げる。吉野は右頬だけをくいっと上げ、なんでもないと小さく首を振る。

「お前、考古学なんかも好きなの?」
「古代ギリシャ文明に憧れずにはいられないよ!」
「そう言えば、マルセルもルーブルにあるニケ像が好きだって言ってたぞ。お前ら、けっこう気が合うんじゃないのか?」

 一瞬で変わったアレンの発する凍てついた空気に、ああ、こういうことか、と吉野は自分の失言を悟り、かすかに吐息を漏らしつつ、果てなく蒼い空を見あげた。





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