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六章
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「なぁ、これって嫌がらせ?」
腰かけているラタンのガーデンチェアーから身をのり出して、吉野はプールで泳いでいるロレンツォに大声で呼びかける。
「俺はまだ泳いじゃいけないのに、自分だけ気持ちよさそうに泳いでさぁ」
深夜の屋外プールには、ホテルに出入りするためのガラス扉の横のバーにバーテンダーが一人。あとはロレンツォが、息も継がずに泳ぎ続けているだけだ。
「おーい! これ以上待たすなら帰るぞ!」
やはり返事はない。吉野は諦めて椅子の背にだらしなくもたれかかり、目を瞑る。水面を叩く水音だけが強く響いている。
しばらくしてやっと水音が止んだ。
「なんだ、来ていたのか」
水からあがったロレンツォが、耳栓を外し、漆黒の髪をかき上げながら吉野の向かいに腰かけた。
「呼びだしておいて待たせるなよ」
吉野は薄目を開けて眉を寄せる。
「お前、ホント生意気だな。そのうち、背後から襲われるぞ」
ロレンツォは口をへの字に曲げ、右手で銃を作って、「バン!」と吉野の胸元に向ける。
「もうやられたよ。正面からだったけどね」
吉野は肘掛に立てた左腕で頬を支えたまま、反対側の唇の先をあげた。
「それでなんの用?」
「お前は誰だと思っている? お前を撃った奴」
「さぁ?」
真剣な問いかけに返ってきたのは、このいかにもどうでも良さそうな、気のぬけた返事だけだ。ロレンツォは露骨に渋面を向けた。
「ルベリーニの誰かの可能性は?」
「まぁ、ないとは言いきれないけどさ、メリットもないんじゃないの? だいたい、ルベリーニに俺を狙う理由なんかあるの?」
逆に吉野の方が意外そうに訊き返した。
「ヘンリーが疑っている」
「なんで?」
「グレンツ株」
「ああ、なるほどね。確かにテロ襲撃が漏れた時点で買い漁られてたね。でも俺を狙う理由にするには無理があるな。べつに俺が死のうが生きようが関係なく株価はあがるだろ?」
「恨みを買った覚えは?」
「ありすぎて」
唇を歪める吉野を見つめ、ロレンツォは小さく首を振ってクックッと笑った。
「困った坊ちゃんだな、お前も」
「お前も、って?」
「ヘンリーも面倒くさいが、お前はさらに輪をかけて面倒な奴だな」
「そりゃあんたたちが、そういう奴ばかり選んで近づこうとするからだよ!」
涼し気な声でカラカラと笑う吉野に、ロレンツォは大袈裟なため息を漏らした。
「ヘンリーがあんたたちを疑っている理由、本当は株じゃないんだろ? でも俺さぁ、べつに狙われたって思ってないから。だいたいさ、テロリスト三人とも即死で急所やられているんだぞ。俺だけ失敗する訳ないじゃん。あんなのただの脅しだよ。まぁせいぜい、テロ計画を邪魔した見せしめってとこだろ」
あっけらかんとした吉野の口調に、ロレンツォは呆れたように腕を広げる。
「お前、以前にも銃を向けられたことがあるのか?」
「ヘンリーほどじゃないけどね」
吉野の、笑っているような鳶色の瞳を、ロレンツォはまじまじと見つめた。
これが飛鳥の弟――。
やがて自嘲的な笑みを浮かべると、彼は見るともなしに鎮まり返ったプールの水面に視線を漂わせた。磨きあげられた水鏡に、周囲を囲む回廊に取りつけられたウォールライトが映り、星のように瞬いている。
「協力しろ」
「なにに?」
「お前を狙撃した奴を見つける」
「無駄だよ。もう死んでるじゃん」
「雇い主を見つける」
「どうでもいいよ」
吉野はつまらなそうに、ラタンと頭部との間に青いクッションを挟み直しもたれかかった。
「俺はよくない」
「ヘンリーにもっとなにか言われたんだ?」
「…………」
「俺が怪我したから、あんたに八つ当たりしたんだろ? あんたのせいじゃないのにね。まぁ、仕方がないよ。あいつにしてみたらさ、落とし前つけなきゃ飛鳥に合わす顔がないってことだろ?」
揶揄うように目を細める吉野に、ロレンツォは声をたてて笑いだす。
「本当に可愛げのないガキだな、お前は!」
「可愛げはなくても、まだガキだからね、俺は。――いいよ、協力してあげても。でもただじゃない。解ってるだろ? 教えて欲しいことがあるんだ」
そこで言葉を切って口を結んだ吉野に、ロレンツォは顎をしゃくって続きを促した。
「今、欧州を食い荒らしている移民を送りこんでいるのは、どこが黒幕?」
だが、口を噤んだまま答えないロレンツォに、吉野は静かな口調で続けた。
「死んだ祖父ちゃんが言ってたんだ。民族主義を誇っていた欧州社会は内側から崩れていくって。祖父ちゃんが欧州に来た頃には、もうそれは始まってたって。俺、自分の目で見るまで、国家も、文化も、文明って奴も、こんなに脆いものだなんて思ってもみなかったよ。その中であんた達は何百年も生き残ってきたんだ。自分たちが、けして国家の中枢には立たなかったからだろ。教えてくれよ、どこが生き残る?」
「お前はもう知っているだろ?」
にっと笑ったロレンツォに、吉野も唇の右端をくいっとあげて応えた。
「俺、間違ってない?」
「マルセルがお前を選んだ訳が分かった」
「なに、それ? 俺はあいつを選ばないよ」
吉野はスッキリした様子でふーと長く息を漏らした。
「俺を狙撃するように命令したのは、アレンの祖父ちゃんとルノーだよ。俺はあいつの祖父ちゃんに嫌われているからさ。でもな、なんかいろいろ誤解してるみたいだけどさ、俺はべつに足で情報を集めてる訳じゃないよ。ルノーの秘書を洗えば証拠が挙がるはずだよ」と、吉野は顔の横で人差し指をくいくいと折り曲げてみせる。
「でもこれくらいのことはヘンリーだって知ってるよ。あんたも大変だな」
唇の隙間から空気を漏らすようにして同情的に笑われ、ロレンツォはまたひとつ吐息を漏らした。
「なんて脅されたの?」
「マルウェア」
皮肉な笑みを浮かべて呟いたその言葉に、吉野は声を立てて笑った。
「傑作! ヘンリーとは思えないガキ臭いキレ方だね。それでまたグレンツ株のこと言われたらさ、浮動株の大半を買い占めたの俺だから、て言っておいて」
吉野は立ちあがって思いきり伸びをする。
「あーあ、せっかくエーゲ海まで来てるのに泳げないなんてな!」
「お前の分まで泳いできてやるよ」
「そんな暇ないだろ? あんたの王様がお冠だもの!」
吉野のジョークにロレンツォは、それがどうした、とばかりに掌をひらひらと振った。
腰かけているラタンのガーデンチェアーから身をのり出して、吉野はプールで泳いでいるロレンツォに大声で呼びかける。
「俺はまだ泳いじゃいけないのに、自分だけ気持ちよさそうに泳いでさぁ」
深夜の屋外プールには、ホテルに出入りするためのガラス扉の横のバーにバーテンダーが一人。あとはロレンツォが、息も継がずに泳ぎ続けているだけだ。
「おーい! これ以上待たすなら帰るぞ!」
やはり返事はない。吉野は諦めて椅子の背にだらしなくもたれかかり、目を瞑る。水面を叩く水音だけが強く響いている。
しばらくしてやっと水音が止んだ。
「なんだ、来ていたのか」
水からあがったロレンツォが、耳栓を外し、漆黒の髪をかき上げながら吉野の向かいに腰かけた。
「呼びだしておいて待たせるなよ」
吉野は薄目を開けて眉を寄せる。
「お前、ホント生意気だな。そのうち、背後から襲われるぞ」
ロレンツォは口をへの字に曲げ、右手で銃を作って、「バン!」と吉野の胸元に向ける。
「もうやられたよ。正面からだったけどね」
吉野は肘掛に立てた左腕で頬を支えたまま、反対側の唇の先をあげた。
「それでなんの用?」
「お前は誰だと思っている? お前を撃った奴」
「さぁ?」
真剣な問いかけに返ってきたのは、このいかにもどうでも良さそうな、気のぬけた返事だけだ。ロレンツォは露骨に渋面を向けた。
「ルベリーニの誰かの可能性は?」
「まぁ、ないとは言いきれないけどさ、メリットもないんじゃないの? だいたい、ルベリーニに俺を狙う理由なんかあるの?」
逆に吉野の方が意外そうに訊き返した。
「ヘンリーが疑っている」
「なんで?」
「グレンツ株」
「ああ、なるほどね。確かにテロ襲撃が漏れた時点で買い漁られてたね。でも俺を狙う理由にするには無理があるな。べつに俺が死のうが生きようが関係なく株価はあがるだろ?」
「恨みを買った覚えは?」
「ありすぎて」
唇を歪める吉野を見つめ、ロレンツォは小さく首を振ってクックッと笑った。
「困った坊ちゃんだな、お前も」
「お前も、って?」
「ヘンリーも面倒くさいが、お前はさらに輪をかけて面倒な奴だな」
「そりゃあんたたちが、そういう奴ばかり選んで近づこうとするからだよ!」
涼し気な声でカラカラと笑う吉野に、ロレンツォは大袈裟なため息を漏らした。
「ヘンリーがあんたたちを疑っている理由、本当は株じゃないんだろ? でも俺さぁ、べつに狙われたって思ってないから。だいたいさ、テロリスト三人とも即死で急所やられているんだぞ。俺だけ失敗する訳ないじゃん。あんなのただの脅しだよ。まぁせいぜい、テロ計画を邪魔した見せしめってとこだろ」
あっけらかんとした吉野の口調に、ロレンツォは呆れたように腕を広げる。
「お前、以前にも銃を向けられたことがあるのか?」
「ヘンリーほどじゃないけどね」
吉野の、笑っているような鳶色の瞳を、ロレンツォはまじまじと見つめた。
これが飛鳥の弟――。
やがて自嘲的な笑みを浮かべると、彼は見るともなしに鎮まり返ったプールの水面に視線を漂わせた。磨きあげられた水鏡に、周囲を囲む回廊に取りつけられたウォールライトが映り、星のように瞬いている。
「協力しろ」
「なにに?」
「お前を狙撃した奴を見つける」
「無駄だよ。もう死んでるじゃん」
「雇い主を見つける」
「どうでもいいよ」
吉野はつまらなそうに、ラタンと頭部との間に青いクッションを挟み直しもたれかかった。
「俺はよくない」
「ヘンリーにもっとなにか言われたんだ?」
「…………」
「俺が怪我したから、あんたに八つ当たりしたんだろ? あんたのせいじゃないのにね。まぁ、仕方がないよ。あいつにしてみたらさ、落とし前つけなきゃ飛鳥に合わす顔がないってことだろ?」
揶揄うように目を細める吉野に、ロレンツォは声をたてて笑いだす。
「本当に可愛げのないガキだな、お前は!」
「可愛げはなくても、まだガキだからね、俺は。――いいよ、協力してあげても。でもただじゃない。解ってるだろ? 教えて欲しいことがあるんだ」
そこで言葉を切って口を結んだ吉野に、ロレンツォは顎をしゃくって続きを促した。
「今、欧州を食い荒らしている移民を送りこんでいるのは、どこが黒幕?」
だが、口を噤んだまま答えないロレンツォに、吉野は静かな口調で続けた。
「死んだ祖父ちゃんが言ってたんだ。民族主義を誇っていた欧州社会は内側から崩れていくって。祖父ちゃんが欧州に来た頃には、もうそれは始まってたって。俺、自分の目で見るまで、国家も、文化も、文明って奴も、こんなに脆いものだなんて思ってもみなかったよ。その中であんた達は何百年も生き残ってきたんだ。自分たちが、けして国家の中枢には立たなかったからだろ。教えてくれよ、どこが生き残る?」
「お前はもう知っているだろ?」
にっと笑ったロレンツォに、吉野も唇の右端をくいっとあげて応えた。
「俺、間違ってない?」
「マルセルがお前を選んだ訳が分かった」
「なに、それ? 俺はあいつを選ばないよ」
吉野はスッキリした様子でふーと長く息を漏らした。
「俺を狙撃するように命令したのは、アレンの祖父ちゃんとルノーだよ。俺はあいつの祖父ちゃんに嫌われているからさ。でもな、なんかいろいろ誤解してるみたいだけどさ、俺はべつに足で情報を集めてる訳じゃないよ。ルノーの秘書を洗えば証拠が挙がるはずだよ」と、吉野は顔の横で人差し指をくいくいと折り曲げてみせる。
「でもこれくらいのことはヘンリーだって知ってるよ。あんたも大変だな」
唇の隙間から空気を漏らすようにして同情的に笑われ、ロレンツォはまたひとつ吐息を漏らした。
「なんて脅されたの?」
「マルウェア」
皮肉な笑みを浮かべて呟いたその言葉に、吉野は声を立てて笑った。
「傑作! ヘンリーとは思えないガキ臭いキレ方だね。それでまたグレンツ株のこと言われたらさ、浮動株の大半を買い占めたの俺だから、て言っておいて」
吉野は立ちあがって思いきり伸びをする。
「あーあ、せっかくエーゲ海まで来てるのに泳げないなんてな!」
「お前の分まで泳いできてやるよ」
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