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六章
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「宗主――」
ふと目を開けて、初めて気づいた人の気配に、マルセルは熱でぼんやりとする頭を慌てて持ちあげようと力を入れた。その肩をすっと押さえて、ロレンツォは大きく首を振る。
「かまわない」
ロレンツォは枕に落ちた湿ったタオルをもちあげると、クリーム色の壁際に置かれたサイドボードの上の、氷入りの水を張ったボールに浸してぎゅっと絞り、マルセルの額にのせた。濃い青のベッドカバーが映るのか、その顔色は発熱にもかかわらず蒼く染まって頼りなく、儚げに見える。
「彼は、まだここに?」
「二、三日はいるそうだ」
「彼に会った? 彼は、なんて言っていた?」
潤んだ瞳を瞬かせて、じっと見つめてくるマルセルに、ロレンツォはクックと喉を鳴らして笑みを返した。
「あの小僧なぁ――」
不安げに表情を曇らせたその額のタオルを再度ボールに放り入れ、寝乱れた柔らかな黒髪をわしわしと撫でてやる。
「お前、あいつのどこが気にいったんだ? 俺だって英国人の二枚舌には毎回泣かされてきたのに、あの小僧、二枚どころか、何枚の舌を使い分けているのか判らないぞ。なぜ、あいつなんだ?」
「たぶん、宗主がソールスベリーを選んだのと同じ理由」
マルセルは、どこか力のない、ぼんやりとした黒曜石の瞳でロレンツォを見つめてにっこりと微笑んだ。
理由などない、直観だ。この直観で、ルベリーニは一族の繁栄を保ってきたのだ。仮に、その直観が間違っていたときには……。
ロレンツォは身体を返して氷水の中に手を浸し、その中のタオルを握りしめる。心地よい冷たさが、直に過度の肌を刺す刺激に変わっていく。ザッと乱暴に手を引き上げ、タオルを絞る。そして、なにかを思い返しているかのように、どこか懐かし気に目を細めた。
「日本人は、愚直なまでに正直で、誠実なのだと思っていた」
「愚かだという意味?」
マルセルの問いかけに、彼はふっと笑って首を横に振る。
「いい意味で。こいつは、絶対に裏切らないだろうな、てな」
「ヨシノは裏切らないよ」
「なぜ言い切れる? 昨日だって、知らない、と言った舌の根も乾かないうちに喋っていたぞ」
「対価を支払ったんだろ? 彼は自分の持つ情報の価値を知っている。無料では喋らないよ」
「そういうところ、アスカとはまるで違う! あいつはどこで覚えてきたんだ、そんな駆け引きの仕方を!」
クスクスと笑うマルセルとは逆に、ロレンツォは大袈裟にため息をつく。
「英国で。そう答えたんだろ、宗主?」
マルセルは、どこか深い闇を思わせる瞳を一瞬光らせ、疲れたように瞼を閉じて軽く息を継いだ。
「彼のお兄さん、どんな人なの?」
「アスカ? そうだな、まず優しい。情が深くて家族思いだ。それに馬鹿みたいに真面目で、働き者」
「彼に、似ている?」
「まったく違う!」
とんでもない! と大仰に首を振るロレンツォを見あげて、マルセルは弱弱しく笑った。
「彼と、仲はいいの?」
「仲がいいなんてもんじゃないぞ! アスカは弟のためなら、なんだってするぞ!」
「僕たちとは、大違いだね」
マルセルは皮肉気に唇を歪める。
「僕のせいで」
再び目を瞑り、深いため息をついたマルセルの髪を、ロレンツォはそっと撫でてやった。
「お前のせいじゃない」
「あいつがあそこまで大馬鹿者じゃなかったら、神も僕にこんな悪戯をなさらなかっただろうに!」
「やめろ。その口で神を呪う言葉を吐くな」
「僕がなにを言おうと運命は変わらない。神は僕の言葉でその意思を変えたりしない――」
寝返って、枕に顔を埋めるマルセルの肩をロレンツォはぐっと掴んで、その肩甲骨に額を当てた。
「どうすればいい? お前は、なにを望む?」
白い枕カバーを掴むマルセルの両手首が、枕を真っ赤に染めあげていく。鼻孔に届いた血の臭いに、ロレンツォは眉を寄せ息を詰めた。
「ヨシノを」
「無理だ」
「僕が望んでも?」
背に力が入り、枕に沈めた顔が持ちあがる。ロレンツォは身体を起こし、仰向けになり高く掲げられたマルセルの両腕に流れる鮮血を指先で拭いあげ、そのか細い手首を包みこむように握ると、そこに刻まれた十字の傷にキスを落とした。
「ヘンリーが許さない」
「なぜ?」
「アスカの弟だから」
「分からない!」
右腕の血を唇で拭い、それ以上の出血が止まっているのを確かめると、ロレンツォはほっとしたように吐息を漏らし、「それなら、ヨシノ本人に訊いてみろ」と、慈悲深い哀しみに満ちた視線をマルセルの燃えるような瞳に返した。自分を睨めつけるその瞳をじっと見つめたまま、逆の腕を取り、綺麗な紅い血を流す傷口に唇に強く押しあてる。
「神の血は、花のように香しく甘い」
「神のじゃない、僕の血だ」
ぎゅっと眉間に皺を寄せ、目を瞑って呟いたマルセルの頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
「泣くな。これは神の悪戯でも、呪いでもない。祝福だ」
囁くようなロレンツォの声に、奥歯を噛みしめ小さく首を振り続けるマルセルの瞼からは、いくつも、いくつもの涙が溢れでては零れ落ちていた。
ふと目を開けて、初めて気づいた人の気配に、マルセルは熱でぼんやりとする頭を慌てて持ちあげようと力を入れた。その肩をすっと押さえて、ロレンツォは大きく首を振る。
「かまわない」
ロレンツォは枕に落ちた湿ったタオルをもちあげると、クリーム色の壁際に置かれたサイドボードの上の、氷入りの水を張ったボールに浸してぎゅっと絞り、マルセルの額にのせた。濃い青のベッドカバーが映るのか、その顔色は発熱にもかかわらず蒼く染まって頼りなく、儚げに見える。
「彼は、まだここに?」
「二、三日はいるそうだ」
「彼に会った? 彼は、なんて言っていた?」
潤んだ瞳を瞬かせて、じっと見つめてくるマルセルに、ロレンツォはクックと喉を鳴らして笑みを返した。
「あの小僧なぁ――」
不安げに表情を曇らせたその額のタオルを再度ボールに放り入れ、寝乱れた柔らかな黒髪をわしわしと撫でてやる。
「お前、あいつのどこが気にいったんだ? 俺だって英国人の二枚舌には毎回泣かされてきたのに、あの小僧、二枚どころか、何枚の舌を使い分けているのか判らないぞ。なぜ、あいつなんだ?」
「たぶん、宗主がソールスベリーを選んだのと同じ理由」
マルセルは、どこか力のない、ぼんやりとした黒曜石の瞳でロレンツォを見つめてにっこりと微笑んだ。
理由などない、直観だ。この直観で、ルベリーニは一族の繁栄を保ってきたのだ。仮に、その直観が間違っていたときには……。
ロレンツォは身体を返して氷水の中に手を浸し、その中のタオルを握りしめる。心地よい冷たさが、直に過度の肌を刺す刺激に変わっていく。ザッと乱暴に手を引き上げ、タオルを絞る。そして、なにかを思い返しているかのように、どこか懐かし気に目を細めた。
「日本人は、愚直なまでに正直で、誠実なのだと思っていた」
「愚かだという意味?」
マルセルの問いかけに、彼はふっと笑って首を横に振る。
「いい意味で。こいつは、絶対に裏切らないだろうな、てな」
「ヨシノは裏切らないよ」
「なぜ言い切れる? 昨日だって、知らない、と言った舌の根も乾かないうちに喋っていたぞ」
「対価を支払ったんだろ? 彼は自分の持つ情報の価値を知っている。無料では喋らないよ」
「そういうところ、アスカとはまるで違う! あいつはどこで覚えてきたんだ、そんな駆け引きの仕方を!」
クスクスと笑うマルセルとは逆に、ロレンツォは大袈裟にため息をつく。
「英国で。そう答えたんだろ、宗主?」
マルセルは、どこか深い闇を思わせる瞳を一瞬光らせ、疲れたように瞼を閉じて軽く息を継いだ。
「彼のお兄さん、どんな人なの?」
「アスカ? そうだな、まず優しい。情が深くて家族思いだ。それに馬鹿みたいに真面目で、働き者」
「彼に、似ている?」
「まったく違う!」
とんでもない! と大仰に首を振るロレンツォを見あげて、マルセルは弱弱しく笑った。
「彼と、仲はいいの?」
「仲がいいなんてもんじゃないぞ! アスカは弟のためなら、なんだってするぞ!」
「僕たちとは、大違いだね」
マルセルは皮肉気に唇を歪める。
「僕のせいで」
再び目を瞑り、深いため息をついたマルセルの髪を、ロレンツォはそっと撫でてやった。
「お前のせいじゃない」
「あいつがあそこまで大馬鹿者じゃなかったら、神も僕にこんな悪戯をなさらなかっただろうに!」
「やめろ。その口で神を呪う言葉を吐くな」
「僕がなにを言おうと運命は変わらない。神は僕の言葉でその意思を変えたりしない――」
寝返って、枕に顔を埋めるマルセルの肩をロレンツォはぐっと掴んで、その肩甲骨に額を当てた。
「どうすればいい? お前は、なにを望む?」
白い枕カバーを掴むマルセルの両手首が、枕を真っ赤に染めあげていく。鼻孔に届いた血の臭いに、ロレンツォは眉を寄せ息を詰めた。
「ヨシノを」
「無理だ」
「僕が望んでも?」
背に力が入り、枕に沈めた顔が持ちあがる。ロレンツォは身体を起こし、仰向けになり高く掲げられたマルセルの両腕に流れる鮮血を指先で拭いあげ、そのか細い手首を包みこむように握ると、そこに刻まれた十字の傷にキスを落とした。
「ヘンリーが許さない」
「なぜ?」
「アスカの弟だから」
「分からない!」
右腕の血を唇で拭い、それ以上の出血が止まっているのを確かめると、ロレンツォはほっとしたように吐息を漏らし、「それなら、ヨシノ本人に訊いてみろ」と、慈悲深い哀しみに満ちた視線をマルセルの燃えるような瞳に返した。自分を睨めつけるその瞳をじっと見つめたまま、逆の腕を取り、綺麗な紅い血を流す傷口に唇に強く押しあてる。
「神の血は、花のように香しく甘い」
「神のじゃない、僕の血だ」
ぎゅっと眉間に皺を寄せ、目を瞑って呟いたマルセルの頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
「泣くな。これは神の悪戯でも、呪いでもない。祝福だ」
囁くようなロレンツォの声に、奥歯を噛みしめ小さく首を振り続けるマルセルの瞼からは、いくつも、いくつもの涙が溢れでては零れ落ちていた。
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