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第九話:動き出す歯車、王都への布石
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『瑠璃色の薬草師』として新たな道を歩み始めたアリアドネの毎日は、以前にも増して目まぐるしく、しかし充実感に満ちていた。
ゼノとの共同作業で始まった「エルムの薬草店」の大改装は、街の腕の良い大工たちの協力もあって順調に進んでいた。
店の奥にあった古びた倉庫は、陽光がたっぷりと差し込む明るく清潔な調合室兼研究室へと生まれ変わった。
そこには、アリアドネが辺境伯領で得た報酬で購入した最新の調合器具や、薬草を精密に分析するための道具類が整然と並べられている。
「素晴らしい……まるで王宮の薬局のようだ。」
完成した研究室を前に、ゼノは感嘆の声を漏らした。
アリアドネ自身も、この新たな拠点でこれから生み出されるであろう薬やハーブ製品を思うと、胸が高鳴るのを感じていた。
彼女が考案した新しいハーブティーのブレンドや、肌を美しく保つためのハーブオイル、そして特定の痛みを和らげる塗り薬などの試作品は、その効果の高さと使用感の良さから、ゼノはもちろんのこと、試供品を試した常連客たちからも絶賛の声が上がった。
「アリアドネさんの作るものは、本当にどれも魔法のようだね!」
そんな声が、彼女の何よりの励みとなっていた。
ある日、アリアドネは市場で薬草を仕入れている際、一人の若い女性が薬草売りの店主と口論になっているのを見かけた。
歳の頃は十六、七だろうか、着ているものは粗末だが、その瞳には薬草への強い興味と知識の片鱗が伺える。
「だから、この薬草はそうやって乱暴に扱ったら駄目なの!もっと丁寧に、葉が傷まないように……!」
「うるさいね!金も出さないくせに、ごちゃごちゃと!さっさとあっちへ行きな!」
店主に邪険に追い払われ、俯く少女に、アリアドネはそっと声をかけた。
「あなた、薬草に詳しいのね。」
少女――名をサラという――は、両親を幼い頃に亡くし、街の片隅で細々と暮らしていたが、独学で薬草の知識を身につけ、いつか薬師になることを夢見ていたという。
アリアドネはサラの知識の深さと、何よりも薬草に対する真摯な愛情を見抜き、彼女を自分の助手として雇い入れることを決めた。
「私のもとで、本格的に薬草の技術を学んでみませんか?」
サラは信じられないという表情でアリアドネを見つめ、やがて瞳に涙を浮かべて何度も頷いた。
こうして、アリアドネにとって初めての弟子であり、信頼できる助手を得ることになった。
そんな中、辺境伯領の執事エルネストから、再びアリアドネ宛の書状が届いた。
そこには、行方をくらましていた例の侍女――リーザという名だった――の潜伏先と思われる場所が、辺境伯家の密偵によって突き止められたものの、その場所が治外法権的な無法地帯の一角であり、下手に踏み込めば騒ぎが大きくなる可能性があること、そして、リーザ自身が何者かに脅され、口封じのために命を狙われている可能性が高いことが記されていた。
『……リーザを安全に保護し、真相を聞き出すためには、細心の注意と、あるいは何らかの特殊な手立てが必要やもしれませぬ。アリアドネ様のお知恵をお借りできればと……』
エルネストの文面からは、事態の緊迫感と、アリアドネへの切なる期待が伝わってきた。
(無法地帯……命を狙われている……)
アリアドネは眉をひそめた。
ただの毒物混入事件では終わらない、より深い闇がそこには潜んでいるのかもしれない。
「ゼノ様、サラ。少しの間、店を留守にするかもしれません。」
アリアドネは、二人に事情の概略を話し、辺境伯領へ赴く可能性を示唆した。
彼女は、自分が持つ薬草の知識――特に、人を眠らせたり、混乱させたりする特殊な薬草の知識――が、リーザを安全に保護する際に役立つのではないかと考えていた。
もちろん、危険が伴うことは承知の上だ。
しかし、セレスティーナ夫人を苦しめた事件の真相を曖昧なままにはしておけなかったし、何より、脅されて罪を犯させられたかもしれない一人の人間の命を見捨てることはできなかった。
ゼノもサラも、アリアドネの決意を察し、心配そうな顔をしながらも、彼女の意志を尊重することを伝えた。
王都への進出計画も、着実に進行していた。
アリアドネは、辺境伯から紹介された、王都に本店を構える信頼の厚い大商人を通じて、王都の薬草市場の最新情報や、有力な薬問屋、貴族街で評判の薬局などに関する詳細な報告書を定期的に受け取るようになっていた。
その報告書の中には、アシュフォード公爵家に関する記述も散見された。
エリオットが、最近、新たな鉱山開発事業で莫大な利益を上げていること。
しかし、その開発手法があまりにも強引で、多くの小規模な土地所有者たちが不当な扱いを受けているという黒い噂が絶えないこと。
そして、公爵夫人となったリディアは、その富を背景に、王都の社交界でこれみよがしな派手な夜会を繰り返し、古参の貴族たちからは顰蹙を買い始めていること……。
(相変わらず、自分たちの欲望のためなら、他人を踏みつけにすることも厭わないのね……)
アリアドネの胸に、冷たい怒りが込み上げる。
しかし、同時に彼女は冷静だった。
感情的に動いては、彼らの思う壺だ。
復讐は、より周到に、より確実に。
そのためには、まず自分が王都で確固たる地位と経済力を築き上げることが最優先事項だと、アリアドネは改めて肝に銘じた。
その第一歩として、王都に小さな店舗兼住居を確保するための資金計画と、物件探しのための具体的な指示書を、例の商人を通じて王都の代理人に送った。
場所は、貴族街に近すぎず、かといって庶民街の奥深くでもない、比較的新しい商業地区の一角を考えていた。
そこならば、幅広い客層にアプローチできるはずだ。
研究室の窓から、夕焼けに染まる空を見上げながら、アリアドネは静かに息を吐いた。
辺境伯領の事件、店の経営、弟子の育成、そして王都への進出準備と復讐計画。
いくつもの歯車が、彼女を中心にゆっくりと、しかし確実に動き始めている。
そのどれもが、容易な道ではないだろう。
しかし、アリアドネの瑠璃色の瞳には、迷いの色はなかった。
ゼノとの共同作業で始まった「エルムの薬草店」の大改装は、街の腕の良い大工たちの協力もあって順調に進んでいた。
店の奥にあった古びた倉庫は、陽光がたっぷりと差し込む明るく清潔な調合室兼研究室へと生まれ変わった。
そこには、アリアドネが辺境伯領で得た報酬で購入した最新の調合器具や、薬草を精密に分析するための道具類が整然と並べられている。
「素晴らしい……まるで王宮の薬局のようだ。」
完成した研究室を前に、ゼノは感嘆の声を漏らした。
アリアドネ自身も、この新たな拠点でこれから生み出されるであろう薬やハーブ製品を思うと、胸が高鳴るのを感じていた。
彼女が考案した新しいハーブティーのブレンドや、肌を美しく保つためのハーブオイル、そして特定の痛みを和らげる塗り薬などの試作品は、その効果の高さと使用感の良さから、ゼノはもちろんのこと、試供品を試した常連客たちからも絶賛の声が上がった。
「アリアドネさんの作るものは、本当にどれも魔法のようだね!」
そんな声が、彼女の何よりの励みとなっていた。
ある日、アリアドネは市場で薬草を仕入れている際、一人の若い女性が薬草売りの店主と口論になっているのを見かけた。
歳の頃は十六、七だろうか、着ているものは粗末だが、その瞳には薬草への強い興味と知識の片鱗が伺える。
「だから、この薬草はそうやって乱暴に扱ったら駄目なの!もっと丁寧に、葉が傷まないように……!」
「うるさいね!金も出さないくせに、ごちゃごちゃと!さっさとあっちへ行きな!」
店主に邪険に追い払われ、俯く少女に、アリアドネはそっと声をかけた。
「あなた、薬草に詳しいのね。」
少女――名をサラという――は、両親を幼い頃に亡くし、街の片隅で細々と暮らしていたが、独学で薬草の知識を身につけ、いつか薬師になることを夢見ていたという。
アリアドネはサラの知識の深さと、何よりも薬草に対する真摯な愛情を見抜き、彼女を自分の助手として雇い入れることを決めた。
「私のもとで、本格的に薬草の技術を学んでみませんか?」
サラは信じられないという表情でアリアドネを見つめ、やがて瞳に涙を浮かべて何度も頷いた。
こうして、アリアドネにとって初めての弟子であり、信頼できる助手を得ることになった。
そんな中、辺境伯領の執事エルネストから、再びアリアドネ宛の書状が届いた。
そこには、行方をくらましていた例の侍女――リーザという名だった――の潜伏先と思われる場所が、辺境伯家の密偵によって突き止められたものの、その場所が治外法権的な無法地帯の一角であり、下手に踏み込めば騒ぎが大きくなる可能性があること、そして、リーザ自身が何者かに脅され、口封じのために命を狙われている可能性が高いことが記されていた。
『……リーザを安全に保護し、真相を聞き出すためには、細心の注意と、あるいは何らかの特殊な手立てが必要やもしれませぬ。アリアドネ様のお知恵をお借りできればと……』
エルネストの文面からは、事態の緊迫感と、アリアドネへの切なる期待が伝わってきた。
(無法地帯……命を狙われている……)
アリアドネは眉をひそめた。
ただの毒物混入事件では終わらない、より深い闇がそこには潜んでいるのかもしれない。
「ゼノ様、サラ。少しの間、店を留守にするかもしれません。」
アリアドネは、二人に事情の概略を話し、辺境伯領へ赴く可能性を示唆した。
彼女は、自分が持つ薬草の知識――特に、人を眠らせたり、混乱させたりする特殊な薬草の知識――が、リーザを安全に保護する際に役立つのではないかと考えていた。
もちろん、危険が伴うことは承知の上だ。
しかし、セレスティーナ夫人を苦しめた事件の真相を曖昧なままにはしておけなかったし、何より、脅されて罪を犯させられたかもしれない一人の人間の命を見捨てることはできなかった。
ゼノもサラも、アリアドネの決意を察し、心配そうな顔をしながらも、彼女の意志を尊重することを伝えた。
王都への進出計画も、着実に進行していた。
アリアドネは、辺境伯から紹介された、王都に本店を構える信頼の厚い大商人を通じて、王都の薬草市場の最新情報や、有力な薬問屋、貴族街で評判の薬局などに関する詳細な報告書を定期的に受け取るようになっていた。
その報告書の中には、アシュフォード公爵家に関する記述も散見された。
エリオットが、最近、新たな鉱山開発事業で莫大な利益を上げていること。
しかし、その開発手法があまりにも強引で、多くの小規模な土地所有者たちが不当な扱いを受けているという黒い噂が絶えないこと。
そして、公爵夫人となったリディアは、その富を背景に、王都の社交界でこれみよがしな派手な夜会を繰り返し、古参の貴族たちからは顰蹙を買い始めていること……。
(相変わらず、自分たちの欲望のためなら、他人を踏みつけにすることも厭わないのね……)
アリアドネの胸に、冷たい怒りが込み上げる。
しかし、同時に彼女は冷静だった。
感情的に動いては、彼らの思う壺だ。
復讐は、より周到に、より確実に。
そのためには、まず自分が王都で確固たる地位と経済力を築き上げることが最優先事項だと、アリアドネは改めて肝に銘じた。
その第一歩として、王都に小さな店舗兼住居を確保するための資金計画と、物件探しのための具体的な指示書を、例の商人を通じて王都の代理人に送った。
場所は、貴族街に近すぎず、かといって庶民街の奥深くでもない、比較的新しい商業地区の一角を考えていた。
そこならば、幅広い客層にアプローチできるはずだ。
研究室の窓から、夕焼けに染まる空を見上げながら、アリアドネは静かに息を吐いた。
辺境伯領の事件、店の経営、弟子の育成、そして王都への進出準備と復讐計画。
いくつもの歯車が、彼女を中心にゆっくりと、しかし確実に動き始めている。
そのどれもが、容易な道ではないだろう。
しかし、アリアドネの瑠璃色の瞳には、迷いの色はなかった。
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