『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔

文字の大きさ
9 / 36
第二部 江戸闇聴聞 ~絡繰りの音~

第九話 深川、木の香と異音

しおりを挟む
 師・源七爺さんの死の記憶と、影の組織への静かな憎しみを胸に、市は深川へと足を踏み入れた。

 木暮同心から、深川での不自然な出来事、そしてそれに伴う妙な匂いと音の噂を聞き、自身の感覚がそれを確かめるべきだと告げていたからだ。

 深川は、日本橋界隈とは異なる独特の雰囲気を持っていた。運河が縦横に走り、無数の材木問屋が軒を連ねる。町の空気は、湿気を含んだ潮の香りと、乾燥した木の香りが入り混じっていた。

 市の耳には、船が行き交う水音、材木を運ぶ人々の掛け声、鋸や槌の音が絶えず響いてくる。それは、活気に満ちた、力強い音の響きだった。

 市は、お清さんから聞いた噂の手がかりを頼りに、深川の町を歩いた。夜になると人が消えるという特定の場所、そして不自然な匂いと音がするところ。漠然とした情報だったが、市の研ぎ澄まされた感覚は、町の喧騒の中から、僅かな違和感を拾い上げ始めた。

 まず、匂い。

 材木の香りと潮の香りに混じって、市にはかすかに、しかし確実に存在する、別の匂いが感じられた。それは、無音組が使用していた薬草のような刺激臭とは少し違う。より甘く、しかしどこか淀んだ、鼻腔の奥に残るような、まとわりつく匂いだ。それは、特定の場所から漂ってきている。
深川でも特に大きな材木問屋がいくつか集まっている一角だ。

 次に、音。

市の耳は、町の様々な音の中から、不自然な響きを拾い上げようと集中した。

 人々の話し声、鳥の鳴き声、遠くの鐘の音。それらの中に、「特定の鳥の鳴き声に似た、細い音」が混じっていないか。

 しばらく注意深く耳を澄ませていると、市の耳が、微かな、しかし確かに存在する、人工的な音を捉えた。

「ピィー…」

 それは、鳥の鳴き声によく似ている。
しかし、どこか機械的で、不自然な響きだ。そして、その音は、一定の間隔で、同じ場所から繰り返し聞こえてくる。その場所は、先ほど不自然な匂いを感じた材木問屋が集まる一角だ。

 匂いと音の手がかりが示す場所へ、市はゆっくりと近づいていった。

 その一角は、日中でもどこかひっそりとしており、大きな材木がうず高く積まれ、薄暗い影を作っていた。匂いは、近づくにつれて濃くなっていく。
甘く淀んだ、奇妙な香りだ。それは、人を惹きつけるような香りではない。むしろ、不快感を催させるような、あるいは、五感を鈍らせるような、何かを隠すための匂いだ。

 そして、あの音。「ピィー…」という細い音は、まるで何かの合図のように、一定の間隔で繰り返されている。
それは、無音組が使っていた「音の連絡手段」と関係があるのではないだろうか?

 市がその一角の入口に差し掛かった時、数人の男たちが慌ただしく出てくる気配を感じた。彼らの足音は、庶民のそれとは違う。どこか訓練された、しかし焦りを含んだ足音だ。そして、彼らが纏う匂い。あの甘く淀んだ香りが、彼らから強く漂っている。

 市は咄嗟に道を譲った。男たちは市の存在に気づいたようだが、足を止めることなく、早足でその場を離れていった。彼らの足音は、すぐに闇の中に消えていった。

 男たちが去った後、市はゆっくりと彼らが出てきた場所、大きな材木問屋の敷地に足を踏み入れた。匂いは、そこで最も濃厚だった。そして、微かに、鉄の匂い、血の匂いが混じっていることに気づいた。

「血…」

 市の心臓がドクリと跳ねた。この場所で、何かが起こったのだ。第八話で聞いた「人が消える」という噂は、本当だったのかもしれない。そして、この匂いと音は、それを引き起こした者たちの痕跡なのだ。

 市は、自身の感覚を研ぎ澄ませ、慎重に敷地内へと進んだ。積まれた材木の隙間、倉庫の中。匂いを頼りに、血の匂いが強い場所を探す。

 やがて、市は一つの倉庫の入り口にたどり着いた。中から、かすかにうめき声が聞こえる。

「誰か… いますか…?」

 市が声をかけると、うめき声が止まった。しばらくの沈黙の後、かすれた声が聞こえてきた。
「だ… 誰だ… 行っちまえ…!」

 その声は、恐怖と、そして弱弱しい抵抗を含んでいた。市は、中に人がいることを確信した。

「私は按摩師の市と申します。怪我をなさったのではありませんか? 手当てをさせてください」

 市は、自身の身分を明かし、優しく語りかけた。しばらくの沈黙の後、うめき声の主が、ゆっくりと体を起こす気配がした。そして、市の嗅覚が、その人物から漂ってくる匂いを捉えた。あの甘く淀んだ香り。そして、鉄の匂い。彼は、この事件の被害者なのだ。

 市は倉庫の中に入った。中は薄暗く、材木の匂いが充満している。被害者は、倉庫の片隅でうずくまっていた。市の感覚は、彼の体の震え、浅い息遣い、そして脈の乱れを捉えた。彼は、ただの怪我ではない。何か、尋常ではないことに巻き込まれたのだ。

「大丈夫ですか? どこか痛むところは?」

 市は被害者の傍らに跪き、その体にそっと触れた。肌は冷たく、異常なほどに緊張している。腕や足に、何かに引きずられたような擦過痕があることに気づいた。そして、後頭部に、鈍器で殴られたような感触があった。

「お前… 目が見えねぇのか…?」
 被害者が弱弱しい声で尋ねた。

市は頷いた。
「はい。ですが、その代わりに、あなたの体の声が聴こえます。何があったのか、話していただけませんか? 私は、あなたの力になりたいのです」

 被害者は、市の言葉に、安堵と、そしてまだ消えない恐怖の入り混じった息をついた。そして、震える声で、断片的に語り始めた。

 夜中、倉庫で仕事をしていた時のこと。突然、あの甘い香りが漂ってきた。意識が朦朧とし、体が動かなくなった。そして、音もなく忍び寄ってきた者たちに襲われたこと。何をされたのかは、はっきり覚えていない。ただ、何か大切なものを奪われた気がする…

 被害者の話と、市の感覚で得られた情報が繋がった。不自然な匂いと音を使って標的の意識を奪い、目的を果たす。これは、まさに影の組織、無音組の手口に似ている。しかし、使われた香りは、無音組のものとは少し違う。そして、彼らの目的は何だったのか? 人を消すことだけではない。何か大切なものを奪ったと、被害者は言った。

 市は、被害者に簡単な手当てをし、体を温めるための薬膳茶を勧めた。そして、すぐに木暮同心に連絡を取った。深川での出来事は、新たな影の組織の活動であり、それは第一部で市が関わった事件と深く繋がっている。そして、無音組から得られた「音」の情報が、この事件の鍵となる可能性がある。

 深川の闇に響く、不自然な音。それは、影の組織が仕掛ける「絡繰り」の始まりを告げる音なのかもしれない。
市は、師の遺志を継ぎ、この新たな闇の音を聴き、その裏に隠された真実を暴く決意を新たにした。

 第二部の物語は、今、深川の木の香りと共に、静かに幕を開けたのだ。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】『紅蓮の算盤〜天明飢饉、米問屋女房の戦い〜』

月影 朔
歴史・時代
江戸、天明三年。未曽有の大飢饉が、大坂を地獄に変えた――。 飢え死にする民を嘲笑うかのように、権力と結託した悪徳商人は、米を買い占め私腹を肥やす。 大坂の米問屋「稲穂屋」の女房、お凛は、天才的な算術の才と、決して諦めない胆力を持つ女だった。 愛する夫と店を守るため、算盤を武器に立ち向かうが、悪徳商人の罠と権力の横暴により、稲穂屋は全てを失う。米蔵は空、夫は獄へ、裏切りにも遭い、お凛は絶望の淵へ。 だが、彼女は、立ち上がる! 人々の絆と夫からの希望を胸に、お凛は紅蓮の炎を宿した算盤を手に、たった一人で巨大な悪へ挑むことを決意する。 奪われた命綱を、踏みにじられた正義を、算盤で奪い返せ! これは、絶望から奇跡を起こした、一人の女房の壮絶な歴史活劇!知略と勇気で巨悪を討つ、圧巻の大逆転ドラマ!  ――今、紅蓮の算盤が、不正を断罪する鉄槌となる!

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

無用庵隠居清左衛門

蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。 第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。 松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。 幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。 この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。 そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。 清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。 俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。 清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。 ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。 清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、 無視したのであった。 そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。 「おぬし、本当にそれで良いのだな」 「拙者、一向に構いません」 「分かった。好きにするがよい」 こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。

処理中です...