『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔

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第二部 江戸闇聴聞 ~絡繰りの音~

第十話 絡繰りの音、残された澱み

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 深川の材木問屋の倉庫に横たわる被害者の傍らで、市は静かに息を潜めていた。
甘く淀んだ香りが微かに漂い、被害者の荒い息遣いだけが闇に響く。恐怖と混乱が混じり合った匂いが、彼の体から立ち上っていた。第九話で遭遇したこの被害者は、影の組織による新たな事件の生きた証人だ。

 どれほど時間が経っただろうか。遠くから複数の足音が近づいてくるのを感じた。それは、慌ててその場を後にした犯人たちの足音とは違う。落ち着いた、しかし緊張感を含んだ足音だ。木暮同心とその部下たちだろう。

 提灯の明かりが倉庫の中を照らし出した時、木暮同心の厳しい表情が見えた。市の案内で被害者の傍らに来た木暮同心は、すぐにその状況を把握した。

「市! 被害者は?」

「意識はありますが、混乱しています。命に別状はないようですが、心身ともに大きな傷を負っています」

 市は、被害者に手当てと養生茶を施したことを伝えた。木暮同心は被害者に声をかけ、安堵させようとした。そして、市に向き直る。

「ここで何があった? お前さんが感じ取ったこと全てを話せ」

 市は、自身が深川で感じ取った不自然な匂いと音を追ってこの場所に来たこと、そして倉庫の中で被害者と遭遇した経緯を詳細に報告した。

 あの甘く淀んだ香りのこと、特定の場所から繰り返し聞こえてきた鳥の鳴き声に似た「ピィー」という音のこと。そして、被害者から聞き取った、あの香りで意識を奪われ、音もなく忍び寄ってきた者たちに襲われ、「絡繰り」の道具を盗まれたという証言。

 木暮同心は、市の報告に真剣に耳を傾けていた。奉行所にも、深川での不審な失踪や、倉庫から物が無くなっているという報告がいくつか上がっており、今回の事件がそれらと関連している可能性が高いことを確信した。

「人が消えるという噂は、やはり奴らの仕業だったか… 意識を奪い、物を盗んでいく… 以前の無音組の手口に似ているが、使われた香りが違う、そして盗まれたものが『絡繰り』の道具… 一体何を企んでいる?」

 木暮同心は唸った。単なる強盗事件ではない。影の組織による、何か新たな計画の始まりだ。

 被害者は、木暮同心たちの到着に、ようやく少し安堵したようだった。市は、改めて被害者の傍らに座り、その手に触れた。まだ震えが残っている。市は、按摩の技術で、その体の緊張をゆっくりと解いていった。

「怖かったでしょう。ですが、もう大丈夫です。何があったのか、無理のない範囲で、もう一度教えていただけますか?」

 市は優しく語りかけ、再び被害者の証言を聞き始めた。今回は、木暮同心もその証言に耳を傾ける。被害者は、市の手当てで幾分か落ち着きを取り戻したのか、前回よりも少し具体的に話すことができた。

 襲撃者の気配は複数だったこと。彼らが倉庫に入ってきた時、何の音もさせなかったこと。そして、盗まれた「絡繰り」の道具について。それは、この材木問屋で代々受け継がれてきた、特別な道具であること。材木の表面に、微細な細工を施すためのもので、非常に精巧な歯車やゼンマイが組み込まれていること。そして、持ち去られる際に聞こえた、あの「歯車が回るような音」のこと。

「その道具は、なぜそれほど大切なのですか? 金目のものなのですか?」

 木暮同心が尋ねると、被害者は首を横に振った。
「金… というよりは… これを使って施される細工は、この問屋の『印』のようなもので… これがなければ、特定の取引ができなくなる… そして… その道具には、ある『秘密』が隠されていて…」

 被害者はそこで口ごもった。秘密。和泉屋の取引台帳にも、相模屋にも、そしてこの「絡繰り」の道具にも、「秘密」が関わっている。影の組織は、これらの「秘密」を狙っているのだ。

 被害者の保護を木暮同心の部下に任せ、市と木暮同心は、改めて事件現場となった倉庫を調査した。雨は上がり、深川の夜空には星が瞬いている。しかし、この場所には、影の組織が残した澱みが、まだ色濃く漂っていた。

 市の五感がフル稼働する。

 匂い。あの甘く淀んだ香りは、倉庫の奥、被害者が倒れていた場所を中心に強く残っている。そして、壁や天井の特定の場所にも、微かに香りが染み付いている。そこが、奴らが侵入し、潜んでいた場所かもしれない。血の匂いは、被害者のものと、そして微かに、犯人のものらしきものが混じっている。

 音。静寂の中で耳を澄ませる。倉庫の外、特定の方向から、ごく微かに、しかし規則的な「音」が聞こえてくる。

 それは、あの「ピィー」という音と、そして、金属が擦れるような、遠くで歯車が回るような音だ。それは、あの「絡繰り」の道具が使われている音ではないだろうか?

 触覚。倉庫の床に残された足跡。第一部で確認した無音組と同じ、足音を立てにくい特殊な履物だ。数は複数。そして、被害者が引きずられた痕跡。さらに、「絡繰り」の道具が置かれていたであろう場所。そこには、微かな油の匂いと、金属が置かれていた時にできる、僅かな窪みがあった。

 市は、得られた情報と、被害者の証言、そして以前得られた無音組に関する情報を組み合わせ、木暮同心に伝えた。

「木暮さん。奴らは、あの甘い香りで被害者の意識を奪い、音もなく侵入し、特定の『音』を合図に、『絡繰り』の道具を盗んでいきました。そして、その道具には『秘密』が隠されており、それが、彼らの目的なのでしょう。あの『ピィー』という音と、『歯車が回るような音』は、彼らが互いに連絡を取り合い、あるいは何かの作業をする際に使っているのかもしれません。それは、彼らが仕掛ける『絡繰り』の一部です」

 市は、自身の推理を語った。影の組織は、単に物を盗むのではない。彼らは、特定の「絡繰り」に関わる技術や情報を集めている。そして、それが何か大きな企み、おそらく江戸全体に関わるような企みに繋がっているのだ。

 木暮同心は、市の言葉に深く頷いた。市の五感による情報と、奉行所の捜査情報が、一本の線で繋がっていく。

「『絡繰り』か… そして、あの音… 奴らの手口は、単なる暴力ではない。巧妙に仕組まれた『絡繰り』だ。
そして、その絡繰りの歯車が、深川で回り始めた…」

 木暮同心は、夜空を見上げた。深川の闇に潜む影の組織。彼らが次に何を仕掛けてくるのか。そして、盗まれた「絡繰り」の道具が、どのように使われるのか。

 市は、師・源七爺さんが命を懸けて追っていた影の組織が、目の前で、音を立てて動き始めていることを感じていた。あの「ピィー」という音。そして、「歯車が回るような音」。それは、闇の中で蠢く影の組織の、そして彼らが仕掛ける「絡繰り」の音だ。

 市は、自身の五感を信じ、木暮同心と共に、深川の闇に潜む謎に立ち向かう決意を固めた。新たな事件。新たな敵。そして、絡繰りの音。

  第二部「江戸闇聴聞 ~絡繰りの音~」は、今、深川の闇の中で、その複雑な歯車を回し始めたのだ。
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