『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔

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第二部 江戸闇聴聞 ~絡繰りの音~

第十一話 音の囁き、からくり長屋への道

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 深川の夜が明け、材木問屋の倉庫には奉行所の調べが入っていた。被害者は手当てを受け、安全な場所に移された。市は木暮同心と共に、夜明け前の深川を歩いていた。

 空気は相変わらず材木の香りと潮の香りが混じり合い、そして、あの甘く淀んだ香りの澱みが微かに残っている。影の組織は、この町に何かを仕掛けたのだ。

「昨夜の香りと音… そして、盗まれた絡繰りの道具… 奴らは、これらを使って何を企んでいるのか…」

 木暮同心が呟いた。市も同じ思いだった。あの甘く淀んだ香りは、単に意識を奪うだけでなく、人の心を惑わすような効果があるのかもしれない。
そして、「ピィー」という不自然な音は、影の組織の合図であり、同時に何かの「絡繰り」を動かす音でもある。

 市は、香りの手がかりを追うため、再び薬草問屋や香司のもとを訪ねた。しかし、あの甘く淀んだ香りの調合については、明確な情報は得られなかった。特定の薬草や香料を組み合わせたものだろうが、その配合は極秘であり、表向きの職人には分からないものらしい。影の組織が独自に編み出した「術」の一つなのだ。
それは、単に意識を奪うだけでなく、人の心を特定の状態に誘導するための、巧妙な調合である可能性が高い。

 次に、あの「ピィー」という音と、「歯車が回るような音」、そして盗まれた「絡繰り」の道具について、さらに詳しく知るため、市は木暮同心と共に、江戸でも指折りの時計師や、複雑な仕掛けを作る絡繰り職人のもとを訪ねた。
彼らは皆、盗まれた道具の特徴(材木に微細な細工を施す、複雑な歯車、秘密の仕掛け)を聞くと、感嘆の声を漏らした。

「材木に微細な細工を施す絡繰り… それも、歯車が回る音が聞こえるほど精巧なものとなると、並大抵の職人では作れねぇな。それは、おそらく『自動彫刻機』のようなものかもしれねぇ」

「『秘密の仕掛け』… 特定の条件下でしか作動しないという… まるで、生きた意志を持った道具のようだ」

 彼らは、その道具が持つ技術的な価値と、隠された「秘密」の仕掛けの奇妙さについて語った。
しかし、それが影の組織の企みにどう関わるのか、具体的な見解は得られなかった。そして、「ピィー」という音についても、特定の音を出す仕組みについては説明できたが、それが何の合図なのか、どのように使われるのかは分からなかった。

 その時、時計師の一人が、ふと思い出したように言った。
「そういえば… この辺りの長屋に、変わった絡繰りを作る男がいると聞いたことがあるな。元武士らしいんだが、堅苦しいのが嫌いで、町の発明家として奇妙なものばかり作っていると。腕は確かだが、少々風変わりな男でな… 彼の作った絡繰りは、常人の想像を超えているらしい」

「変わった絡繰りを作る男…」

 市の脳裏に、お清さんから聞いた噂が蘇った。
「からくり甚兵衛」。そう呼ばれている男だ。

 通常の職人とは違う視点を持つ彼なら、影の組織が狙う「絡繰り」の道具や、あの奇妙な「音」について、何か洞察を与えてくれるかもしれない。今は、あらゆる情報を集めるべきだ。

 市と木暮同心は、その「からくり長屋」と噂される長屋へと向かった。深川の材木問屋が集まる一角から、そう遠くない場所にある長屋だった。他の長屋と比べて、どこか独特の雰囲気が漂っている。金属や木材、油の匂い。それは、働く職人の匂いとは違う。何かを探求し、作り出す者の匂いだ。

「ここが、からくり甚兵衛の長屋か…」

 木暮同心が呟いた。市は鼻腔をくすぐる、油と金属、そして微かに薬品のような匂いの中に、知的な探求心のようなものを感じ取った。

「ごめんください。平賀甚兵衛様にお話を伺いたく参りました」

 木暮同心が声をかけると、長屋の一番奥の戸が、ギィと音を立てて開いた。そこに立っていたのは、歳の頃なら四十過ぎだろうか。武士のような面影を残しながらも、無精髭を生やし、着物は埃まみれだ。目は鋭いが、どこか子供のような好奇心も宿している。彼こそが、噂の平賀甚兵衛だった。

「…何だ?」

 甚兵衛の声はぶっきらぼうで、人付き合いが苦手という噂通りだ。しかし、市の感覚は、彼の声に含まれる僅かな知性と、全身から漂ってくる、絡繰りへの情熱のようなものを捉えた。

 市は一歩前に出て、丁寧に挨拶した。

「失礼いたします。わたくし、按摩師の市と申します。この度、ある事件で、非常に珍しい『絡繰り』の道具が関わっておりまして… その絡繰りについて、あなた様にお話を伺いたく、参りました」

 甚兵衛は市の声を聞き、市の盲目であることに気づいたらしい。しかし、そのことについて何も言わず、市の言葉に興味を示した。

「事件? 珍しい絡繰り? 面白い。入りなさい」

 甚兵衛は市たちを長屋の中に招き入れた。中は、所狭しと様々な部品や道具が積み上げられ、奇妙な機械や仕掛けが並んでいる。そこから漂ってくる匂いは、まさに「絡繰り」の工房の匂いだ。

 市は、被害者から聞いた「歯車が回るような音」のこと、盗まれた道具が材木に微細な細工を施すための精巧なものであること、そして「秘密の仕掛け」が隠されていることを甚兵衛に伝えた。木暮同心も、事件の概要について補足した。

 甚兵衛は、市の話を注意深く聞いていた。市の言葉に、時折、唸り声を上げたり、指先を動かしたりしている。まるで、市の言葉を、頭の中で具体的な「絡繰り」の構造として組み立てているかのようだ。

「ふむ… 材木に細工を施す絡繰り… 歯車が回る音… 秘密の仕掛け… それは、単なる彫刻機ではないな。その秘密の仕掛けによって、特定の条件下でしか作動しない、あるいは、特定の情報を読み取ったり、書き込んだりする機構が組み込まれている可能性が高い。それは、情報や命令を運ぶための『絡繰り』かもしれん」

 甚兵衛の見解は、市の推理をさらに深めた。影の組織は、盗んだ道具を使って、単に偽造品を作るだけでなく、そこに何らかの情報を仕込んだり、あるいは、その道具自体が何かの起動装置として機能したりするのかもしれない。

 そして、「ピィー」という音。甚兵衛は、その音についても興味深い示唆を与えた。

「『ピィー』という音… それは、非常に特殊な合図として使われる音かもしれん。特定の周波数の音で、離れた場所にいる仲間に情報を伝えたり、あるいは… 特定の『絡繰り』を遠隔で操作したり… 音を、情報の伝達や制御に使う『音絡繰り』のようなものだ」

 甚兵衛の言葉に、市は確信を得た。あの「ピィー」という音は、単なる合図ではない。
それは、影の組織が仕掛ける、音を使った高度な「絡繰り」の一部なのだ。そして、それが深川の材木問屋周辺で繰り返し鳴らされているということは、影の組織が深川を拠点に、音と絡繰りを使った何かを企んでいることを示唆している。

 甚兵衛との話し合いは、市と木暮同心の捜査に新たな視点をもたらした。
影の組織は、物理的な力だけでなく、技術的な「絡繰り」と、音を使った巧妙な「術」を駆使している。それは、師・源七爺さんが追っていた影の組織の、新たな側面に違いない。

 長屋を出る時、市は、甚兵衛から漂ってくる油と金属の匂いの中に、僅かながら、探求心と、そして不器用な優しさのようなものを感じ取った。彼は、困っている人の話には真剣に耳を傾け、自身の知識を惜しみなく与えてくれる。彼の存在は市の心に確かに刻まれた。

 深川の闇に潜む影の組織。彼らが仕掛ける「絡繰り」は、ますます複雑になっていく。
しかし、市には、師から受け継いだ五感、そして木暮同心、そして、この風変わりな発明家・平賀甚兵衛から得た新たな知識がある。

 音と香りの痕跡を追い、影の組織が仕掛ける「絡繰り」の音の謎を解き明かすために、市は決意を新たにした。

 彼らが次に何を仕掛けてくるのか、そして盗まれた「絡繰り」がどのように使われるのか。影の組織の次の行動が迫っていることを、市の感覚が告げていた。
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