『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔

文字の大きさ
8 / 36
第二部 江戸闇聴聞 ~絡繰りの音~

第八話 新たな響き、影の胎動

しおりを挟む
 和泉屋と相模屋を巡る騒動は、町の噂の種としてはまだ残っていたが、人々の日常は確実に元の流れを取り戻しつつあった。
市もまた、按摩師としての穏やかな日々を送っていた。

 庵には様々な客が訪れ、市の「闇を聴く鍼」は、彼らの心身の凝りを丁寧に解いていく。
しかし、市の心の中には、あの雨の夜、目の前で師・源七爺さんが命を奪われた光景と、あの刺激的な香りの記憶が深く焼き付いていた。

 そして、無音組から得られた、影の組織が使うという「音」の連絡手段の情報が、常に市の耳の片隅に響いていた。

 特定の鳥の鳴き声に似せた笛の音。特定の時刻に鳴らされる鐘の音の変調。市は、日々の町の音の中に、それらが紛れ込んでいないか、無意識のうちに耳を澄ませていた。師の遺志を継ぎ、仇を討つ。その決意は、市の日常の全てに静かな緊張感をもたらしていた。

 ある日の午後、いつものように按摩を終えた市は、馴染みの小料理屋「ほっこり庵」を訪れた。お清さんの作る温かい料理と、店の賑やかな雰囲気は、市の心を少しだけ和ませてくれる。

「いらっしゃい、市さん! 今日は顔色が良さそうだね。何かいいことでもあったのかい?」

 お清さんは、市の顔は見えないものの、その声の調子や気配で市の状態を察する。市は苦笑した。いいことなど、特にない。ただ、師の死以来、張り詰めていた心が、少しだけ緩んでいるのかもしれない。

「お清さんこそ、相変わらずお元気そうですね。最近、何か変わった噂話はありますか?」

 市は、お清さんにお茶を勧められながら尋ねた。ほっこり庵は、様々な立場の人間が出入りするため、江戸の町の生きた情報が集まる場所だ。

 お清さんは、湯呑みを市の前に置きながら、少し声のトーンを落とした。

「変わった噂、ねぇ… そう言えば、最近、深川の方で、妙な出来事が続いているって話を聞くねぇ」

「深川、ですか。どのような出来事でしょう?」

 市の耳がピンと立った。深川。材木問屋が多く集まり、活気のある町だ。

「なんでも、夜になると、特定の場所で、まるで人が消えたみたいになるって話で。それに… 不自然な匂いがするって言う人もいるんだよ。何か薬草のような、鼻につく匂いだって…」

「不自然な匂い…」

 市の胸に、あの時嗅いだ刺激的な香りの記憶が蘇った。無音組が使っていた香りに似ているのだろうか?

「それにね、市さん。これは本当に妙な話なんだが… 夜中に、聞いたことのない『音』を聞いたって言う人もいるんだ。何かの合図のような… でも、鐘や太鼓の音じゃない。もっと… 細い音だっていうんだ」

 お清さんの言葉に、市の体が一瞬硬直した。聞いたことのない「細い音」。それは、無音組が使うという、特定の鳥の鳴き声に似せた笛の音ではないだろうか?

「それは… どのような場所で、どのような音だと聞きましたか?」

 市は前のめりになり、尋ねた。お清さんは、客から聞いた話を思い出しながら答えた。

「さあね… 深川の、大きな材木問屋の近くだって話だったかな。音も、はっきりとは分からねぇんだ。ただ、『ピィー』って鳴ったかと思うと、すぐに消えるって… 鳥の鳴き声にしちゃあ、どこか不自然だって言うんだよ」

 深川の材木問屋。不自然な匂い。そして、鳥の鳴き声に似た、細い音。これらは、無音組、あるいは影の組織の動きを示唆している。第一部で得られた情報が、新たな事件の予兆として現れ始めているのだ。

 市は、お清さんに礼を言い、ほっこり庵を後にした。心臓が早鐘を打っている。師の死以来、待ち望んでいた、あるいは恐れていた、影の組織の動きの兆候が、今、目の前に現れたのだ。

 市はすぐに木暮同心に連絡を取った。深川で起きているという妙な出来事、そして不自然な匂いと音の噂について伝えた。木暮同心も、深川での不可解な報告がいくつか上がっていることを認めた。

「人が消える… 不自然な匂い… そして、妙な音… 市、それは奴らの仕業かもしれん」

 木暮同心は、市の情報に真剣に耳を傾けた。深川での出来事は、単なる偶然ではない。影の組織が、何か新たな行動を起こし始めているのだ。

 市は、師の仇を討つという個人的な思いに加え、江戸の町に再び影が差し込もうとしている危機感を抱いた。深川で何が起きているのか、影の組織の狙いは何なのか。それを明らかにするには、自身の五感を頼りに、深川の闇に潜入するしかない。

「木暮さん。私に、深川の様子を探らせてください。あの不自然な匂い、そして音… 私の感覚なら、何かを掴めるかもしれません」

 市は木暮同心に申し出た。木暮同心は、市の申し出に躊躇を見せた。深川は、材木問屋が密集し、人の出入りも多い複雑な場所だ。しかも、相手は影の組織かもしれない。盲目の市を危険に晒すわけにはいかない。

「だが、市… 深川は危険だ。お前さん一人では…」

「木暮さん。私は、爺さんの仇を討ちたい。そして、あの者たちがこの江戸で好き勝手にするのを黙って見てはいられません。私の感覚は、このためにあるのです」

 市の目に見えない瞳に、強い光が宿っているのを感じ取ったのだろう。木暮同心は、しばらく沈黙した後、重い口を開いた。

「…分かった。だが、決して無理はするな。情報収集に徹し、危険を感じたらすぐに引き返せ。そして、私と常に連絡を取り合うように」

 こうして、市は深川へと向かうことになった。夜が近づくにつれて、町の空気は昼間とは違う顔を見せ始める。深川。材木問屋が立ち並ぶ一角には、独特の木の香りが漂っているはずだ。その香りと混じり合う、不自然な匂い。そして、闇に紛れる、特定の「音」。

 市は、師から受け継いだ五感を研ぎ澄ませながら、深川の闇へと足を踏み入れた。新たな事件の始まり。そして、影の組織との、更なる深い戦いが、今、始まろうとしていた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

【完結】『紅蓮の算盤〜天明飢饉、米問屋女房の戦い〜』

月影 朔
歴史・時代
江戸、天明三年。未曽有の大飢饉が、大坂を地獄に変えた――。 飢え死にする民を嘲笑うかのように、権力と結託した悪徳商人は、米を買い占め私腹を肥やす。 大坂の米問屋「稲穂屋」の女房、お凛は、天才的な算術の才と、決して諦めない胆力を持つ女だった。 愛する夫と店を守るため、算盤を武器に立ち向かうが、悪徳商人の罠と権力の横暴により、稲穂屋は全てを失う。米蔵は空、夫は獄へ、裏切りにも遭い、お凛は絶望の淵へ。 だが、彼女は、立ち上がる! 人々の絆と夫からの希望を胸に、お凛は紅蓮の炎を宿した算盤を手に、たった一人で巨大な悪へ挑むことを決意する。 奪われた命綱を、踏みにじられた正義を、算盤で奪い返せ! これは、絶望から奇跡を起こした、一人の女房の壮絶な歴史活劇!知略と勇気で巨悪を討つ、圧巻の大逆転ドラマ!  ――今、紅蓮の算盤が、不正を断罪する鉄槌となる!

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末

松風勇水(松 勇)
歴史・時代
旧題:剣客居酒屋 草間の陰 第9回歴史・時代小説大賞「読めばお腹がすく江戸グルメ賞」受賞作。 本作は『剣客居酒屋 草間の陰』から『剣客居酒屋草間 江戸本所料理人始末』と改題いたしました。 2025年11月28書籍刊行。 なお、レンタル部分は修正した書籍と同様のものとなっておりますが、一部の描写が割愛されたため、後続の話とは繋がりが悪くなっております。ご了承ください。 酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

屈辱と愛情

守 秀斗
恋愛
最近、夫の態度がおかしいと思っている妻の名和志穂。25才。仕事で疲れているのかとそっとしておいたのだが、一か月もベッドで抱いてくれない。思い切って、夫に聞いてみると意外な事を言われてしまうのだが……。

花嫁

一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

処理中です...