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第二部 江戸闇聴聞 ~絡繰りの音~
第八話 新たな響き、影の胎動
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和泉屋と相模屋を巡る騒動は、町の噂の種としてはまだ残っていたが、人々の日常は確実に元の流れを取り戻しつつあった。
市もまた、按摩師としての穏やかな日々を送っていた。
庵には様々な客が訪れ、市の「闇を聴く鍼」は、彼らの心身の凝りを丁寧に解いていく。
しかし、市の心の中には、あの雨の夜、目の前で師・源七爺さんが命を奪われた光景と、あの刺激的な香りの記憶が深く焼き付いていた。
そして、無音組から得られた、影の組織が使うという「音」の連絡手段の情報が、常に市の耳の片隅に響いていた。
特定の鳥の鳴き声に似せた笛の音。特定の時刻に鳴らされる鐘の音の変調。市は、日々の町の音の中に、それらが紛れ込んでいないか、無意識のうちに耳を澄ませていた。師の遺志を継ぎ、仇を討つ。その決意は、市の日常の全てに静かな緊張感をもたらしていた。
ある日の午後、いつものように按摩を終えた市は、馴染みの小料理屋「ほっこり庵」を訪れた。お清さんの作る温かい料理と、店の賑やかな雰囲気は、市の心を少しだけ和ませてくれる。
「いらっしゃい、市さん! 今日は顔色が良さそうだね。何かいいことでもあったのかい?」
お清さんは、市の顔は見えないものの、その声の調子や気配で市の状態を察する。市は苦笑した。いいことなど、特にない。ただ、師の死以来、張り詰めていた心が、少しだけ緩んでいるのかもしれない。
「お清さんこそ、相変わらずお元気そうですね。最近、何か変わった噂話はありますか?」
市は、お清さんにお茶を勧められながら尋ねた。ほっこり庵は、様々な立場の人間が出入りするため、江戸の町の生きた情報が集まる場所だ。
お清さんは、湯呑みを市の前に置きながら、少し声のトーンを落とした。
「変わった噂、ねぇ… そう言えば、最近、深川の方で、妙な出来事が続いているって話を聞くねぇ」
「深川、ですか。どのような出来事でしょう?」
市の耳がピンと立った。深川。材木問屋が多く集まり、活気のある町だ。
「なんでも、夜になると、特定の場所で、まるで人が消えたみたいになるって話で。それに… 不自然な匂いがするって言う人もいるんだよ。何か薬草のような、鼻につく匂いだって…」
「不自然な匂い…」
市の胸に、あの時嗅いだ刺激的な香りの記憶が蘇った。無音組が使っていた香りに似ているのだろうか?
「それにね、市さん。これは本当に妙な話なんだが… 夜中に、聞いたことのない『音』を聞いたって言う人もいるんだ。何かの合図のような… でも、鐘や太鼓の音じゃない。もっと… 細い音だっていうんだ」
お清さんの言葉に、市の体が一瞬硬直した。聞いたことのない「細い音」。それは、無音組が使うという、特定の鳥の鳴き声に似せた笛の音ではないだろうか?
「それは… どのような場所で、どのような音だと聞きましたか?」
市は前のめりになり、尋ねた。お清さんは、客から聞いた話を思い出しながら答えた。
「さあね… 深川の、大きな材木問屋の近くだって話だったかな。音も、はっきりとは分からねぇんだ。ただ、『ピィー』って鳴ったかと思うと、すぐに消えるって… 鳥の鳴き声にしちゃあ、どこか不自然だって言うんだよ」
深川の材木問屋。不自然な匂い。そして、鳥の鳴き声に似た、細い音。これらは、無音組、あるいは影の組織の動きを示唆している。第一部で得られた情報が、新たな事件の予兆として現れ始めているのだ。
市は、お清さんに礼を言い、ほっこり庵を後にした。心臓が早鐘を打っている。師の死以来、待ち望んでいた、あるいは恐れていた、影の組織の動きの兆候が、今、目の前に現れたのだ。
市はすぐに木暮同心に連絡を取った。深川で起きているという妙な出来事、そして不自然な匂いと音の噂について伝えた。木暮同心も、深川での不可解な報告がいくつか上がっていることを認めた。
「人が消える… 不自然な匂い… そして、妙な音… 市、それは奴らの仕業かもしれん」
木暮同心は、市の情報に真剣に耳を傾けた。深川での出来事は、単なる偶然ではない。影の組織が、何か新たな行動を起こし始めているのだ。
市は、師の仇を討つという個人的な思いに加え、江戸の町に再び影が差し込もうとしている危機感を抱いた。深川で何が起きているのか、影の組織の狙いは何なのか。それを明らかにするには、自身の五感を頼りに、深川の闇に潜入するしかない。
「木暮さん。私に、深川の様子を探らせてください。あの不自然な匂い、そして音… 私の感覚なら、何かを掴めるかもしれません」
市は木暮同心に申し出た。木暮同心は、市の申し出に躊躇を見せた。深川は、材木問屋が密集し、人の出入りも多い複雑な場所だ。しかも、相手は影の組織かもしれない。盲目の市を危険に晒すわけにはいかない。
「だが、市… 深川は危険だ。お前さん一人では…」
「木暮さん。私は、爺さんの仇を討ちたい。そして、あの者たちがこの江戸で好き勝手にするのを黙って見てはいられません。私の感覚は、このためにあるのです」
市の目に見えない瞳に、強い光が宿っているのを感じ取ったのだろう。木暮同心は、しばらく沈黙した後、重い口を開いた。
「…分かった。だが、決して無理はするな。情報収集に徹し、危険を感じたらすぐに引き返せ。そして、私と常に連絡を取り合うように」
こうして、市は深川へと向かうことになった。夜が近づくにつれて、町の空気は昼間とは違う顔を見せ始める。深川。材木問屋が立ち並ぶ一角には、独特の木の香りが漂っているはずだ。その香りと混じり合う、不自然な匂い。そして、闇に紛れる、特定の「音」。
市は、師から受け継いだ五感を研ぎ澄ませながら、深川の闇へと足を踏み入れた。新たな事件の始まり。そして、影の組織との、更なる深い戦いが、今、始まろうとしていた。
市もまた、按摩師としての穏やかな日々を送っていた。
庵には様々な客が訪れ、市の「闇を聴く鍼」は、彼らの心身の凝りを丁寧に解いていく。
しかし、市の心の中には、あの雨の夜、目の前で師・源七爺さんが命を奪われた光景と、あの刺激的な香りの記憶が深く焼き付いていた。
そして、無音組から得られた、影の組織が使うという「音」の連絡手段の情報が、常に市の耳の片隅に響いていた。
特定の鳥の鳴き声に似せた笛の音。特定の時刻に鳴らされる鐘の音の変調。市は、日々の町の音の中に、それらが紛れ込んでいないか、無意識のうちに耳を澄ませていた。師の遺志を継ぎ、仇を討つ。その決意は、市の日常の全てに静かな緊張感をもたらしていた。
ある日の午後、いつものように按摩を終えた市は、馴染みの小料理屋「ほっこり庵」を訪れた。お清さんの作る温かい料理と、店の賑やかな雰囲気は、市の心を少しだけ和ませてくれる。
「いらっしゃい、市さん! 今日は顔色が良さそうだね。何かいいことでもあったのかい?」
お清さんは、市の顔は見えないものの、その声の調子や気配で市の状態を察する。市は苦笑した。いいことなど、特にない。ただ、師の死以来、張り詰めていた心が、少しだけ緩んでいるのかもしれない。
「お清さんこそ、相変わらずお元気そうですね。最近、何か変わった噂話はありますか?」
市は、お清さんにお茶を勧められながら尋ねた。ほっこり庵は、様々な立場の人間が出入りするため、江戸の町の生きた情報が集まる場所だ。
お清さんは、湯呑みを市の前に置きながら、少し声のトーンを落とした。
「変わった噂、ねぇ… そう言えば、最近、深川の方で、妙な出来事が続いているって話を聞くねぇ」
「深川、ですか。どのような出来事でしょう?」
市の耳がピンと立った。深川。材木問屋が多く集まり、活気のある町だ。
「なんでも、夜になると、特定の場所で、まるで人が消えたみたいになるって話で。それに… 不自然な匂いがするって言う人もいるんだよ。何か薬草のような、鼻につく匂いだって…」
「不自然な匂い…」
市の胸に、あの時嗅いだ刺激的な香りの記憶が蘇った。無音組が使っていた香りに似ているのだろうか?
「それにね、市さん。これは本当に妙な話なんだが… 夜中に、聞いたことのない『音』を聞いたって言う人もいるんだ。何かの合図のような… でも、鐘や太鼓の音じゃない。もっと… 細い音だっていうんだ」
お清さんの言葉に、市の体が一瞬硬直した。聞いたことのない「細い音」。それは、無音組が使うという、特定の鳥の鳴き声に似せた笛の音ではないだろうか?
「それは… どのような場所で、どのような音だと聞きましたか?」
市は前のめりになり、尋ねた。お清さんは、客から聞いた話を思い出しながら答えた。
「さあね… 深川の、大きな材木問屋の近くだって話だったかな。音も、はっきりとは分からねぇんだ。ただ、『ピィー』って鳴ったかと思うと、すぐに消えるって… 鳥の鳴き声にしちゃあ、どこか不自然だって言うんだよ」
深川の材木問屋。不自然な匂い。そして、鳥の鳴き声に似た、細い音。これらは、無音組、あるいは影の組織の動きを示唆している。第一部で得られた情報が、新たな事件の予兆として現れ始めているのだ。
市は、お清さんに礼を言い、ほっこり庵を後にした。心臓が早鐘を打っている。師の死以来、待ち望んでいた、あるいは恐れていた、影の組織の動きの兆候が、今、目の前に現れたのだ。
市はすぐに木暮同心に連絡を取った。深川で起きているという妙な出来事、そして不自然な匂いと音の噂について伝えた。木暮同心も、深川での不可解な報告がいくつか上がっていることを認めた。
「人が消える… 不自然な匂い… そして、妙な音… 市、それは奴らの仕業かもしれん」
木暮同心は、市の情報に真剣に耳を傾けた。深川での出来事は、単なる偶然ではない。影の組織が、何か新たな行動を起こし始めているのだ。
市は、師の仇を討つという個人的な思いに加え、江戸の町に再び影が差し込もうとしている危機感を抱いた。深川で何が起きているのか、影の組織の狙いは何なのか。それを明らかにするには、自身の五感を頼りに、深川の闇に潜入するしかない。
「木暮さん。私に、深川の様子を探らせてください。あの不自然な匂い、そして音… 私の感覚なら、何かを掴めるかもしれません」
市は木暮同心に申し出た。木暮同心は、市の申し出に躊躇を見せた。深川は、材木問屋が密集し、人の出入りも多い複雑な場所だ。しかも、相手は影の組織かもしれない。盲目の市を危険に晒すわけにはいかない。
「だが、市… 深川は危険だ。お前さん一人では…」
「木暮さん。私は、爺さんの仇を討ちたい。そして、あの者たちがこの江戸で好き勝手にするのを黙って見てはいられません。私の感覚は、このためにあるのです」
市の目に見えない瞳に、強い光が宿っているのを感じ取ったのだろう。木暮同心は、しばらく沈黙した後、重い口を開いた。
「…分かった。だが、決して無理はするな。情報収集に徹し、危険を感じたらすぐに引き返せ。そして、私と常に連絡を取り合うように」
こうして、市は深川へと向かうことになった。夜が近づくにつれて、町の空気は昼間とは違う顔を見せ始める。深川。材木問屋が立ち並ぶ一角には、独特の木の香りが漂っているはずだ。その香りと混じり合う、不自然な匂い。そして、闇に紛れる、特定の「音」。
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