『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』

月影 朔

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第一部 江戸闇聴聞 ~師の血痕~

第七話 闇を聴く鍼

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 無音組の襲撃から数日が経ち、相模屋の屋敷にも、江戸の町にも、表向きの平穏が戻ってきた。しかし、市の中には、あの闇夜の緊迫感と、目の前で師・源七爺さんが命を奪われた記憶が生々しく残っていた。

 今回の事件は、市の生い立ちと、爺さんが命を懸けて追っていた闇が、自身の現実と繋がっていることを知らしめた。

 市は、庵で日々の按摩を続けていた。訪れる人々は、体の凝りや痛みを訴え、江戸の様々な噂話をしていく。市の耳は、彼らの声色、息遣い、体の微かな緊張から、表面的な言葉の裏に隠された真実を聴き取っていた。病への不安、家族への心配、あるいは誰にも言えない秘密。市は「闇を聴く鍼」で、彼らの心身の闇に静かに寄り添う。

 事件後、同心である木暮が市の庵を訪ねてきた。捕縛した無音組からの情報は、限られたものだったという。彼らは末端の実行部隊であり、雇い主の名前は知らない。ただ、特定の指示に従って動いていただけらしい。盗まれた相模屋の取引台帳も、その行方はまだ掴めていない。

「無音組は、あくまで手足に過ぎなかったようです。彼らを操る黒幕が必ずいる」

 木暮同心は悔しげに言った。市も同感だった。和泉屋や相模屋のような大店を操り、無音組のような恐るべき忍びを使う。その背後には、相当な権力か、あるいは財力を持つ者がいるはずだ。

「あの者たちが使っていた『香』について、何か分かりましたか?

 市が尋ねると、木暮同心は頷いた。

「ああ。お前さんの言う通り、特殊な薬草が使われていた。曼陀羅華や附子といった毒性の強いものに、他の薬草を混ぜていたようだ。専門家に見せたところ、あれは単に眠らせるだけでなく、感覚を狂わせる、あるいは幻覚を見せる効果もあるらしい。そして…」

 木暮同心の言葉が止まった。市は続きを促す。

「そして… その香りの調合が、十年ほど前、ある事件で使われた香りと、非常によく似ているらしい。当時の事件は迷宮入りとなったが、影の組織が関わっていると噂されていた… その組織が使用していた香りと、無音組のものが、だ」

 十年ほど前。それは、源七爺さんが亡くなった時期と重なる。市の心臓がドクリと鳴った。爺さんの死の時、あの体から感じた微かな外傷と、嗅ぎ慣れない刺激臭。それは、無音組が使う香りと、同じ成分だったのだ。爺さんは、無音組、あるいは無音組と繋がる影の組織を追っていた。そして、その過程で、奴らに殺されたのだ。

「爺さんが追っていたのは… 無音組、あるいはその親玉だったのかもしれませんね」

 市の声に、木暮同心は何も答えなかった。しかし、その沈黙が、市の推測を肯定していた。

 さらに、捕らえられた無音組が、仲間内で特定の「音」を連絡手段としていたことも分かった。それは、特定の鳥の鳴き声に似せた笛の音や、夜更けに特定の場所で鳴らされる鐘の音の変調などだ。市は、その音のパターンを木暮同心から聞き、脳裏に焼き付けた。

「この音のパターンが、今後の奴らの動きを察知する手がかりとなるかもしれん。お前さんの耳なら、きっと聞き分けられるだろう」

 木暮同心は、市の耳に期待を寄せている。師・源七爺さんも、音や匂いを手掛かりに影の組織を追っていた。今度は自分が、その感覚を受け継ぎ、爺さんの遺志を継ぐ番なのだ。

 今回の事件を通じて、市は自身の能力が、どれほど有効であるかを実感した。目が見えないというハンディキャップは、市にとっては、他の感覚を極限まで研ぎ澄ますための代償だった。闇の中だからこそ感じ取れる気配、聴き取れる音、嗅ぎ分けられる匂い、肌で捉える微細な変化。それらは全て、光の世界に生きる者が見落としてしまう、真実の断片だった。

 市は、自身の按摩院に戻り、湯を沸かした。今日は、先日世話になった相模屋と、木暮同心を庵に招いている。簡単な薬膳料理でもてなそうと思ったのだ。

 米を研ぎ、干し椎茸を水に戻す。根菜を丁寧に切り揃える。それぞれの食材の感触、匂いを確かめながら、市は黙々と調理を進める。これは、源七爺さんから教わった、心を落ち着かせ、体の中から活力を得るための薬膳粥だ。

 やがて、相模屋甚兵衛と木暮同心が庵に到着した。相模屋は、以前の冷たい表情から幾分か柔和になり、市の顔色を、いや、市の気配を気にしているようだった。事件の恐怖は、彼の心に確かな変化をもたらしたのだろう。

 市は、薬膳粥を二人に振る舞った。湯気と共に立ち上る優しい香りが、庵の中に満ちる。

「これは… 美味い。体の芯から温まるようだ」

 相模屋は粥を口にし、心からといった様子で呟いた。木暮同心も、無言で粥を啜り、ホッと息をついた。市の作る薬膳料理は、単に美味しいだけでなく、人々の心と体を癒す力があった。

「相模屋さん。お体の緊張は、まだ少し残っていますね。心の傷は、すぐに癒えるものではありません。しかし、時間をかけて、丁寧に労わってやれば、必ず回復します」

 市は相模屋に語りかけた。相模屋は、市の言葉に静かに頷いた。

 穏やかな時間が流れる。無音組は捕縛され、相模屋も無事だった。事件は一応の解決を見た。しかし、市には分かっていた。これは、真の戦いの始まりに過ぎないのだと。

 爺さんを殺した影の組織。無音組を操る黒幕。彼らはまだ、江戸の闇に潜んでいる。
そして、手に入れた取引台帳を元に、次なる手を打ってくるだろう。

 市は、自身の使命を改めて心に刻んだ。按摩師として、人々の心身の闇に寄り添い、癒すこと。そして、源七爺さんの遺志を継ぎ、自身の研ぎ澄まされた感覚を武器に、闇に潜む影の組織を追い、真実を暴くこと。
それは、危険な道だが、市にとってはもう、引き返すことのできない道だった。

 江戸の闇は深い。しかし、市には、その闇の中に潜む音、匂い、そして微かな気配を聴き分ける力がある。「闇を聴く鍼」は、これからも、人々の心と体の闇、そして江戸の町に巣食う更なる大きな闇へと向けられていく。
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