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75 涙
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「名前を聞かせてもらえるかな」
「村瀬一太です」
「松島晃です」
この部屋は、大人の男が六人もいるにはあまりにも狭い。何せ今は、布団まで室内に干してあるのだ。人が密集して暑いので、開けていた窓を閉めてエアコンは付けたが、圧迫感は否めなかった。侵入者の取り調べの声が、大きく響いている。
一太たち三人は、せめて少しは侵入者たちから距離を取ろうと、ベッドの上に座って話を始めた。一太は、聞かれるままに名乗ってから、唐突に思い出す。
「あ」
洗い終わった後、シーツや枕カバーを干していない。濡れたままでは、夜寝る時に困ってしまう。
「どうかした?」
一太の一言に、晃がすかさず反応した。
「シーツ⋯⋯」
「シーツ?」
「まだ干してない⋯⋯」
晃は、少し驚いた後で、気の抜けたように笑った。
「洗ってくれたの? 布団も干してくれてありがとう。シーツは僕が干すよ。いい? いっちゃんは絶対に動かないで」
「いや、でも」
「ここで、先に話をしていて」
「できれば、そうして貰えると助かるな」
警察官が口を挟んだことで、一太はようやく現状を思い出した。一太たちを担当している警察官は、手にした用紙に二人の名前を書いた後、待ってくれていたらしい。
「あ。すみません」
「いやいや。事件に巻き込まれて大変だったね。何があったか、聞かせてくれるかな。ああ、私は近くの交番の笹井佳史と言います。よろしく」
「よろしく、お願いします。⋯⋯あの。急に。チャイムが何度も鳴らされて、玄関を開けたら急に、弟がいて⋯⋯。そのまま腹を殴られました⋯⋯」
晃が、立ち上がって洗濯機の方へと歩いていくのを横目に、一太は警察官、笹井の質問に答えていった。
「それは驚いただろう。傷は? 痛む?」
一太は、笹井のその言葉に、驚いて目を見開く。弟に殴られたと言ったのに、この警察官は、きちんと心配してくれて、一太に話を聞こうとしてくれている。そのことに、とてもとても驚いたのだ。
一太だって、一度や二度は交番に相談したことがある。本当に耐えかねた末だったのだが、弟に暴力を受けたと言っても、兄弟喧嘩で大袈裟な、と取り合って貰えず、母や弟の父に暴力を受けたと言っても、家族の問題は家族で解決してください、と言われるばかりだった。
にこにこと、気持ち悪い笑顔で自分たちの正当性を話す家族の嘘に頷いた警察官や児童相談員に家に帰されて更に酷い目にあう、と分かってからは、ただ口をつぐんで目をつぶって、暴力や暴言が通り過ぎるのを待つことを覚えた。
「痛い⋯⋯です」
「そうか。なら、手早く終わらせよう。松島くんは通報の後、私たちが到着するまで通話を繋いだままにしてくれていたから、通報後の大体の様子は分かっている。通報までのことも、隣の部屋の学生さんが教えてくれてね。お互いに窓が開いていたから、弟さんの大きな声が聞こえてきたらしいよ。腹を殴られた後のことは、覚えている?」
「あまり⋯⋯。望と、一緒にいた児童相談員が何か喋っていた、としか⋯⋯」
「ああ、そうか。大変だったね、うん」
正直に痛いと言っても、きちんと返事が返ってくる。大して話せていないのに、大変だったね、と言ってくれる。一太は、胸が詰まって言葉にならず、静かに涙を零した。
折角話せる機会なのに勿体ないと思いながら、洗濯物を取り込んで、二人分のシーツと枕カバーを干し終えた晃が戻るまで、声を殺して泣き続けてしまった。
「すみません⋯⋯」
晃が、取り込んだ洗濯物からタオルだけを持って、泣いている一太の元に戻ってくる。お日さまの匂いのするタオルに顔を埋めて、一太はようやく落ち着いた。
「いやいや。急に襲われて怖かっただろう。私たちは、今日はもう部屋を出るから、ゆっくり休んで。部屋の中にまで入り込んで、すまなかったね。村瀬くんには、できれば今日明日中には病院に行って、診断書を貰ってほしい」
「病院⋯⋯」
「吐くほどの暴力だったんだ。内臓に傷が付いていては大変だし、被害届を受け付ける際に診断書があると、こちらも助かるから」
「被害届?!」
ふいに、思いもよらない所から声が飛んできた。驚いた声を上げたのは、望を連れてきた児童相談員だ。あちらの聞き取りは一旦終了して、一太たちの話が終わるのを待っていたらしい。
びくっと体を震わせた一太の肩を、晃がそっと抱き寄せた。
「被害届って⋯⋯。え? だって、兄弟で⋯⋯」
「兄弟間であっても、被害届は出せますよ? 暴行や傷害で証人がいて、医師の診断書があれば傷害罪での告訴は可能です。まあ加害者が未成年なので、後のことは少年法での話になりますが」
「そ、そんな馬鹿な。民事には警察は⋯⋯」
「あなたが、暴力行為の証人として証言してくれるなら成立しますね」
「え、あ、いや⋯⋯」
児童相談員は、気まずそうに視線をさ迷わせた。
「私は、話し合えば分かりあえると⋯⋯」
「俺は、会いたくないと言った。自分の気持ちを、あなたに言った」
一太は、先日の話し合いでの自分の言葉がこの人には何も伝わっていなかったのだな、と絶望しつつも、淡々と口に出した。ああ、この感じ。いつもの。
けれど、いつもと違うのは、肩を抱いてくれる晃の手があることだ。被害届を出してもいい、と言ってくれる警察官もいる。
「でも、望くんは⋯⋯」
「そうだよ、お兄ちゃん。俺は、お兄ちゃんと暮らしたいんだよ。とりあえず、腹が減ったから早く飯を作ってくれよ」
すっかり飽き飽きした様子を見せつつ、こういう場での振る舞いを知っている望が、適当に話に乗っかる。全て本音だから、皆、望の話をしっかり聞くのだ。それなら、一太も本音をはっきりと言えばいい。
もう、口を閉じて俯く必要はない。肩を抱く温かい手が、一太に力をくれる。
「望と一緒に暮らすなんて、もう二度と絶対に嫌です。殴られるから嫌です。お金を盗まれるから嫌です。全ての仕事を俺に押し付け、四六時中罵ってくるから嫌です」
一太は、息を大きく吸ってから声を張り上げた。望に殴られたお腹がとても痛かったが、必死で堪えた。今度こそ、児童相談員の耳に届いてくれるだろうか。未だに名前を思い出せないその人の目を見ながら、一太は力強く言い切った。
「村瀬一太です」
「松島晃です」
この部屋は、大人の男が六人もいるにはあまりにも狭い。何せ今は、布団まで室内に干してあるのだ。人が密集して暑いので、開けていた窓を閉めてエアコンは付けたが、圧迫感は否めなかった。侵入者の取り調べの声が、大きく響いている。
一太たち三人は、せめて少しは侵入者たちから距離を取ろうと、ベッドの上に座って話を始めた。一太は、聞かれるままに名乗ってから、唐突に思い出す。
「あ」
洗い終わった後、シーツや枕カバーを干していない。濡れたままでは、夜寝る時に困ってしまう。
「どうかした?」
一太の一言に、晃がすかさず反応した。
「シーツ⋯⋯」
「シーツ?」
「まだ干してない⋯⋯」
晃は、少し驚いた後で、気の抜けたように笑った。
「洗ってくれたの? 布団も干してくれてありがとう。シーツは僕が干すよ。いい? いっちゃんは絶対に動かないで」
「いや、でも」
「ここで、先に話をしていて」
「できれば、そうして貰えると助かるな」
警察官が口を挟んだことで、一太はようやく現状を思い出した。一太たちを担当している警察官は、手にした用紙に二人の名前を書いた後、待ってくれていたらしい。
「あ。すみません」
「いやいや。事件に巻き込まれて大変だったね。何があったか、聞かせてくれるかな。ああ、私は近くの交番の笹井佳史と言います。よろしく」
「よろしく、お願いします。⋯⋯あの。急に。チャイムが何度も鳴らされて、玄関を開けたら急に、弟がいて⋯⋯。そのまま腹を殴られました⋯⋯」
晃が、立ち上がって洗濯機の方へと歩いていくのを横目に、一太は警察官、笹井の質問に答えていった。
「それは驚いただろう。傷は? 痛む?」
一太は、笹井のその言葉に、驚いて目を見開く。弟に殴られたと言ったのに、この警察官は、きちんと心配してくれて、一太に話を聞こうとしてくれている。そのことに、とてもとても驚いたのだ。
一太だって、一度や二度は交番に相談したことがある。本当に耐えかねた末だったのだが、弟に暴力を受けたと言っても、兄弟喧嘩で大袈裟な、と取り合って貰えず、母や弟の父に暴力を受けたと言っても、家族の問題は家族で解決してください、と言われるばかりだった。
にこにこと、気持ち悪い笑顔で自分たちの正当性を話す家族の嘘に頷いた警察官や児童相談員に家に帰されて更に酷い目にあう、と分かってからは、ただ口をつぐんで目をつぶって、暴力や暴言が通り過ぎるのを待つことを覚えた。
「痛い⋯⋯です」
「そうか。なら、手早く終わらせよう。松島くんは通報の後、私たちが到着するまで通話を繋いだままにしてくれていたから、通報後の大体の様子は分かっている。通報までのことも、隣の部屋の学生さんが教えてくれてね。お互いに窓が開いていたから、弟さんの大きな声が聞こえてきたらしいよ。腹を殴られた後のことは、覚えている?」
「あまり⋯⋯。望と、一緒にいた児童相談員が何か喋っていた、としか⋯⋯」
「ああ、そうか。大変だったね、うん」
正直に痛いと言っても、きちんと返事が返ってくる。大して話せていないのに、大変だったね、と言ってくれる。一太は、胸が詰まって言葉にならず、静かに涙を零した。
折角話せる機会なのに勿体ないと思いながら、洗濯物を取り込んで、二人分のシーツと枕カバーを干し終えた晃が戻るまで、声を殺して泣き続けてしまった。
「すみません⋯⋯」
晃が、取り込んだ洗濯物からタオルだけを持って、泣いている一太の元に戻ってくる。お日さまの匂いのするタオルに顔を埋めて、一太はようやく落ち着いた。
「いやいや。急に襲われて怖かっただろう。私たちは、今日はもう部屋を出るから、ゆっくり休んで。部屋の中にまで入り込んで、すまなかったね。村瀬くんには、できれば今日明日中には病院に行って、診断書を貰ってほしい」
「病院⋯⋯」
「吐くほどの暴力だったんだ。内臓に傷が付いていては大変だし、被害届を受け付ける際に診断書があると、こちらも助かるから」
「被害届?!」
ふいに、思いもよらない所から声が飛んできた。驚いた声を上げたのは、望を連れてきた児童相談員だ。あちらの聞き取りは一旦終了して、一太たちの話が終わるのを待っていたらしい。
びくっと体を震わせた一太の肩を、晃がそっと抱き寄せた。
「被害届って⋯⋯。え? だって、兄弟で⋯⋯」
「兄弟間であっても、被害届は出せますよ? 暴行や傷害で証人がいて、医師の診断書があれば傷害罪での告訴は可能です。まあ加害者が未成年なので、後のことは少年法での話になりますが」
「そ、そんな馬鹿な。民事には警察は⋯⋯」
「あなたが、暴力行為の証人として証言してくれるなら成立しますね」
「え、あ、いや⋯⋯」
児童相談員は、気まずそうに視線をさ迷わせた。
「私は、話し合えば分かりあえると⋯⋯」
「俺は、会いたくないと言った。自分の気持ちを、あなたに言った」
一太は、先日の話し合いでの自分の言葉がこの人には何も伝わっていなかったのだな、と絶望しつつも、淡々と口に出した。ああ、この感じ。いつもの。
けれど、いつもと違うのは、肩を抱いてくれる晃の手があることだ。被害届を出してもいい、と言ってくれる警察官もいる。
「でも、望くんは⋯⋯」
「そうだよ、お兄ちゃん。俺は、お兄ちゃんと暮らしたいんだよ。とりあえず、腹が減ったから早く飯を作ってくれよ」
すっかり飽き飽きした様子を見せつつ、こういう場での振る舞いを知っている望が、適当に話に乗っかる。全て本音だから、皆、望の話をしっかり聞くのだ。それなら、一太も本音をはっきりと言えばいい。
もう、口を閉じて俯く必要はない。肩を抱く温かい手が、一太に力をくれる。
「望と一緒に暮らすなんて、もう二度と絶対に嫌です。殴られるから嫌です。お金を盗まれるから嫌です。全ての仕事を俺に押し付け、四六時中罵ってくるから嫌です」
一太は、息を大きく吸ってから声を張り上げた。望に殴られたお腹がとても痛かったが、必死で堪えた。今度こそ、児童相談員の耳に届いてくれるだろうか。未だに名前を思い出せないその人の目を見ながら、一太は力強く言い切った。
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