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74 以前のようにはできない
「いっちゃん。いっちゃん」
優しい声に、一太はふと児童養護施設の先生を思い出した。抱きしめてくれた手が、あった。むかしむかしのお話だ。
弟の話す声をもう聞きたくないと強く思っていたら、どんどん意識を薄れさせることができた。殴られた腹や、強く引っ張られた髪の毛の痛みも薄れて、ほっとした。このまま。もう、このままでいい。そうしたら、苦しくも痛くもない。
けれど、未練がましく、自分は、優しい声と手を求めているらしい。
幻聴が聞こえた。
それは、もう遠い昔の先生の声じゃなく、最近の一太の心の支え。一太に、すっかり甘える癖をつけてしまった罪深い声。今、ここにはいないのに。なのに、こんなにその声と手だけを求めている。
晃くんが優しいから、俺はこんなにも弱くなってしまっ⋯⋯。
「いっちゃん!」
強く呼ばれて、ぼんやりしていた意識が覚醒した。
「え⋯⋯?」
「いっちゃん。聞こえる? 見えてる? 僕のこと、分かる?」
「あ、きら、くん⋯⋯」
「ああー」
ぎゅう、と抱きしめられて一太は戸惑った。唐突に、腹に強い痛みが甦る。
「う、あ⋯⋯。い、痛⋯⋯」
「あ、ああ。ごめん」
「ち、違⋯⋯。お腹⋯⋯」
慌てて手を離した晃に、抱きしめられて痛かったのではない、と伝えたかったが上手く言葉にならず、一太は自分から、晃の体にしがみついた。
「いっちゃん。いっちゃん。無事で良かった。良かったよお⋯⋯」
涙声の晃なんて初めてで驚き、しがみついた手を緩めた一太に、今度は晃が、ぎゅうと抱きしめ返す。一太は、ほう⋯⋯、と長い長い息を吐いた。
良かった。晃くんはちゃんと居た⋯⋯。弟に殴られた後からは、晃のことは、自分が作り出した都合のいい夢なのではないかとさえ思っていたから。こうして一太を抱きしめてくれている手が現実であることが幸せ過ぎて、結局、夢のようだ、と思った。
「あー、どうかな? 大丈夫そうかい? やっぱり救急車を呼ぼうか?」
「救急車」
聞いた事のない声が言った単語に、一太は激しく反応した。
「いら、いらな⋯⋯。救急車、いや」
「あの。今はとりあえず様子を見ます。ありがとうございます。お待たせしてすみません」
一太が必死に首を横に振ると、なだめるように背中を撫でた晃が返事をしてくれた。
一太は、ほっとすると同時に状況を思い出す。
そうだ、望。望は?
「だーかーらー。お兄ちゃんと一緒に暮らしたくて、わざわざ遠くから訪ねて来たのに追い出されそうになったからあ、かっとなったんですよお。俺⋯⋯、母にも兄にも捨てられて⋯⋯、金も持ち逃げされて、悲しくて悲しくて、ちょっとおかしくなってたんです⋯⋯。反省してます、すんません」
気にした途端に望の声が聞こえて、一太は、びくっと身を震わせた。
「いっちゃん。大丈夫。僕がいる。ずっと一緒にいるからね。お巡りさんも来てくれたんだ。もう大丈夫。大丈夫だよ」
晃は、一太を抱きしめてくれている。安心できる言葉をたくさんくれる。
それでも、と一太は思う。
長い経験が、大丈夫ではない、と一太に告げている。
本当に? 本当に、望と離れられる? 兄を慕う弟の皮を被った望の話を、親身に聞く人たち。
本当に、その人たちは、俺の話を聞いてくれますか?
「部屋の中まで移動できるかな?」
救急車を呼ぼうかと言った警察官が、優しく声を掛けてきた。一太が座り込んでいる玄関口で扉を開けたまま、立って待ってくれていたらしい。動くのも辛いが、狭い玄関で寄り添ってくれている晃と警察官に申し訳なく、一太は必死で立ち上がった。晃が支えてくれることで、何とか立っていられる状態だ。殴られた腹が痛いだけでなく、膝ががくがくして、ちっとも力が入らなかった。本当に、のんびりと暮らしすぎて、暴力に対する防御力が落ちている。一太は、すうっと気持ちが冷えていくのを感じていた。これじゃ駄目だ。このままでは死んでしまう。死にたくもないし、望を人殺しにもしたくなかった。一太がちゃんとしないと。以前のように、ちゃんと頭と体を四六時中動かして生きていかなければ⋯⋯。
立ち上がる際にすえた臭いが鼻をついて、一太は咄嗟に入り口付近に目を向けた。自分の汚した地面が見えた。
「あ、掃除⋯⋯」
一太が思わず呟いた言葉に、晃と警察官がぎょっとする。
一太はそれに気付くことなく、ほとんど無意識にそちらに足を踏み出そうとした。
「わ、いっちゃん?」
早く部屋の中で休ませてやりたい晃と、玄関先へ向かおうとする一太がバランスを崩して、警察官が慌てて二人を支える。
「あー、ええと、村瀬一太さん? 今はまず、部屋で体を休めようか」
「でも、置いておくと落としにくくなるし、臭いし⋯⋯」
「無理だろう?」
「何とかします」
「何とか?」
「這ってでも、しないと⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
「後で困るのは俺だから」
「⋯⋯うん、そうか。でも今は、先に部屋に入って話を聞かせて欲しいんだ。いいかな」
「あ⋯⋯ごめんなさい」
一太は、自分の仕事を優先してしまったことに気付いて謝った。吐瀉物を置いておくと掃除が大変になる、というのは自分の事情だ。これは、良くない。
「⋯⋯うん。よし。じゃあ、話を聞こう。あちらとは別の方がいいのかな」
「別でお願いします。狭いですけど」
警察官の言葉に、晃が力強く頷いてくれた。一太の耳にずっと聞こえているのは、もう一人の警察官に話している望の声。兄に会いたくて、遠くから会いに来た弟の話。そして、それに協力した児童相談員の美談。そこで一緒に話を聞かれることになったら、またいつものように、弟くんと仲良くね、と笑顔を向けられて終わるのだろう。それぞれの話が聞こえているとしても、別で話を聞いてもらえるのはありがたかった。
もしかして、話を聞いてもらえるのかもしれない、と思ったり、どうせいつも通りだ、期待してはいけない、と思ったり、一太の頭の中はぐるぐると混乱して、まとまらなかった。
優しい声に、一太はふと児童養護施設の先生を思い出した。抱きしめてくれた手が、あった。むかしむかしのお話だ。
弟の話す声をもう聞きたくないと強く思っていたら、どんどん意識を薄れさせることができた。殴られた腹や、強く引っ張られた髪の毛の痛みも薄れて、ほっとした。このまま。もう、このままでいい。そうしたら、苦しくも痛くもない。
けれど、未練がましく、自分は、優しい声と手を求めているらしい。
幻聴が聞こえた。
それは、もう遠い昔の先生の声じゃなく、最近の一太の心の支え。一太に、すっかり甘える癖をつけてしまった罪深い声。今、ここにはいないのに。なのに、こんなにその声と手だけを求めている。
晃くんが優しいから、俺はこんなにも弱くなってしまっ⋯⋯。
「いっちゃん!」
強く呼ばれて、ぼんやりしていた意識が覚醒した。
「え⋯⋯?」
「いっちゃん。聞こえる? 見えてる? 僕のこと、分かる?」
「あ、きら、くん⋯⋯」
「ああー」
ぎゅう、と抱きしめられて一太は戸惑った。唐突に、腹に強い痛みが甦る。
「う、あ⋯⋯。い、痛⋯⋯」
「あ、ああ。ごめん」
「ち、違⋯⋯。お腹⋯⋯」
慌てて手を離した晃に、抱きしめられて痛かったのではない、と伝えたかったが上手く言葉にならず、一太は自分から、晃の体にしがみついた。
「いっちゃん。いっちゃん。無事で良かった。良かったよお⋯⋯」
涙声の晃なんて初めてで驚き、しがみついた手を緩めた一太に、今度は晃が、ぎゅうと抱きしめ返す。一太は、ほう⋯⋯、と長い長い息を吐いた。
良かった。晃くんはちゃんと居た⋯⋯。弟に殴られた後からは、晃のことは、自分が作り出した都合のいい夢なのではないかとさえ思っていたから。こうして一太を抱きしめてくれている手が現実であることが幸せ過ぎて、結局、夢のようだ、と思った。
「あー、どうかな? 大丈夫そうかい? やっぱり救急車を呼ぼうか?」
「救急車」
聞いた事のない声が言った単語に、一太は激しく反応した。
「いら、いらな⋯⋯。救急車、いや」
「あの。今はとりあえず様子を見ます。ありがとうございます。お待たせしてすみません」
一太が必死に首を横に振ると、なだめるように背中を撫でた晃が返事をしてくれた。
一太は、ほっとすると同時に状況を思い出す。
そうだ、望。望は?
「だーかーらー。お兄ちゃんと一緒に暮らしたくて、わざわざ遠くから訪ねて来たのに追い出されそうになったからあ、かっとなったんですよお。俺⋯⋯、母にも兄にも捨てられて⋯⋯、金も持ち逃げされて、悲しくて悲しくて、ちょっとおかしくなってたんです⋯⋯。反省してます、すんません」
気にした途端に望の声が聞こえて、一太は、びくっと身を震わせた。
「いっちゃん。大丈夫。僕がいる。ずっと一緒にいるからね。お巡りさんも来てくれたんだ。もう大丈夫。大丈夫だよ」
晃は、一太を抱きしめてくれている。安心できる言葉をたくさんくれる。
それでも、と一太は思う。
長い経験が、大丈夫ではない、と一太に告げている。
本当に? 本当に、望と離れられる? 兄を慕う弟の皮を被った望の話を、親身に聞く人たち。
本当に、その人たちは、俺の話を聞いてくれますか?
「部屋の中まで移動できるかな?」
救急車を呼ぼうかと言った警察官が、優しく声を掛けてきた。一太が座り込んでいる玄関口で扉を開けたまま、立って待ってくれていたらしい。動くのも辛いが、狭い玄関で寄り添ってくれている晃と警察官に申し訳なく、一太は必死で立ち上がった。晃が支えてくれることで、何とか立っていられる状態だ。殴られた腹が痛いだけでなく、膝ががくがくして、ちっとも力が入らなかった。本当に、のんびりと暮らしすぎて、暴力に対する防御力が落ちている。一太は、すうっと気持ちが冷えていくのを感じていた。これじゃ駄目だ。このままでは死んでしまう。死にたくもないし、望を人殺しにもしたくなかった。一太がちゃんとしないと。以前のように、ちゃんと頭と体を四六時中動かして生きていかなければ⋯⋯。
立ち上がる際にすえた臭いが鼻をついて、一太は咄嗟に入り口付近に目を向けた。自分の汚した地面が見えた。
「あ、掃除⋯⋯」
一太が思わず呟いた言葉に、晃と警察官がぎょっとする。
一太はそれに気付くことなく、ほとんど無意識にそちらに足を踏み出そうとした。
「わ、いっちゃん?」
早く部屋の中で休ませてやりたい晃と、玄関先へ向かおうとする一太がバランスを崩して、警察官が慌てて二人を支える。
「あー、ええと、村瀬一太さん? 今はまず、部屋で体を休めようか」
「でも、置いておくと落としにくくなるし、臭いし⋯⋯」
「無理だろう?」
「何とかします」
「何とか?」
「這ってでも、しないと⋯⋯」
「⋯⋯⋯⋯」
「後で困るのは俺だから」
「⋯⋯うん、そうか。でも今は、先に部屋に入って話を聞かせて欲しいんだ。いいかな」
「あ⋯⋯ごめんなさい」
一太は、自分の仕事を優先してしまったことに気付いて謝った。吐瀉物を置いておくと掃除が大変になる、というのは自分の事情だ。これは、良くない。
「⋯⋯うん。よし。じゃあ、話を聞こう。あちらとは別の方がいいのかな」
「別でお願いします。狭いですけど」
警察官の言葉に、晃が力強く頷いてくれた。一太の耳にずっと聞こえているのは、もう一人の警察官に話している望の声。兄に会いたくて、遠くから会いに来た弟の話。そして、それに協力した児童相談員の美談。そこで一緒に話を聞かれることになったら、またいつものように、弟くんと仲良くね、と笑顔を向けられて終わるのだろう。それぞれの話が聞こえているとしても、別で話を聞いてもらえるのはありがたかった。
もしかして、話を聞いてもらえるのかもしれない、と思ったり、どうせいつも通りだ、期待してはいけない、と思ったり、一太の頭の中はぐるぐると混乱して、まとまらなかった。
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