【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ

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134 そういうもの再び

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「はあ」

 車に乗ると、一太は思わずため息をついてしまった。

「お疲れ。服を選ぶのって疲れるよね。僕も去年、すごい疲れたもん」

 隣の席で晃が笑った。機嫌良く携帯電話を触っているので、一太は思わずその手元を覗く。
 そこには、一太のスーツ姿の写真が写っていた。試着室の前で、着替えては出てきた一太を撮ったものだ。

「何か、似合わないね」

 思わず言ってしまう。見ようによっては制服の高校生にも見えそうな、でも制服ではない事が分かる大人の服。年齢だけ重ねた小さな体にはそぐわない気がして。

「そんな事ないよ。格好良かったよ」

 それは無い。
 一番小さなサイズを着ても一太の体には少し余っていて、格好良いとは言いがたかった。

「格好良かったわよ。しゅっとしてたわ」

 けれど、陽子もご機嫌でそんなことを言うのだから、もしかしてそれなりの姿にはなっていたのだろうか。そういうものなのだろうか。

「うちの子は何着ても格好良いとか可愛いとか言うんだろ、母さんは」
「うちの人は、よ。お父さんも格好良いから」
「あー、はいはい」

 晃の言葉に陽子が少しふざけた調子で返して、晃が適当な返事をして。家族ってこんな感じなのか、と一太は眩しく思う。そして、一人だけ何も言われていない人のことが気になった。

「あの。陽子さんも綺麗です」

 一太は思わず口を挟んでしまう。晃くんはもちろん格好良い。晃くんとよく似ている誠さんも格好良いし、お姉さんたちは二人とも美人だ。そのお姉さんたちと似ていて、優しさが顔中から滲み出ているような陽子さんも、とても綺麗だと思う。
 顔中に様々な色を乗せていた母なんかよりずっと、ほとんど色のない陽子さんの顔が好きだった。

「や……やあだ、いっちゃんったら」

 陽子が、びっくりした顔をして助手席から振り返った。
 うん。可愛くて綺麗だ。
 一太は真面目な顔で頷く。

「綺麗です」
「あ、ありがと。嬉しい」
「本当のことだから」
「うちは美男美女揃いってことだな」

 車を運転しながら、誠が笑って口を挟んだ。

「自分で言うのはどうなの?」
「家の中でくらい、いいだろ。外で言うと、何言われるか分かったもんじゃない」

 黙ってしまった陽子の代わりに、晃と誠で会話が続く。

「父さんって、母さんのこと美人だと思ってたんだ」
「当たり前だ。見たら分かるだろう?」
「何にも言わないから、知らなかったよ」
「そうか。それは反省しないといけないな」

 助手席からはみ出して見える陽子の耳は真っ赤になっている。
 一太は思う。
 村瀬の家に俺がいなかった頃は、村瀬の父と母もこんな風に仲良く暮らしていたのだろうか。俺が存在しなかったなら、あの男は家を出ていかなかったのかな。のぞむが一人になることもなかったかな。
 ふと考えて。でも、と母の顔を思い出す。美人だと言われて赤くなる様子は、どうしても思い浮かばなかった。

「いっちゃん?」

 うつむいた一太に晃の声がかかる。

「ん?」

 笑顔を繕って顔を上げた。

「いっちゃんも美人だから」
「はは」

 母に似たこの顔から、父親の存在は欠片も感じない。あの、一太を生んだだけの母に似ていても嬉しくは……。

「僕の、好きな顔」

 一太は目を見開いてから、ふ、と笑った。今度は作ったものじゃない本当の顔で。
 それならいいか、と思う。
 晃くんが好きな顔なら、この顔でいい。

 *

 家に帰ったら、冷蔵庫から真っ黒なチョコレートケーキが出てきた。濃い黒が滑らかな、飾りのないシンプルなものだ。

「おお……」

 一太が思わず声を上げると、んふふ、と陽子が笑った。

「いっちゃんが晃に白い生クリームと苺のケーキを作ってくれたと聞いたので、私はチョコレートケーキにしましたー」
「すごい。すごいです。飾らなくても綺麗」
「ふふ。これは生クリームを温めてチョコレートを溶かしたチョコクリームを塗ったチョコレートケーキ。チョコレートケーキはねえ、生クリームにココアを入れて泡立てるふわふわチョコレートケーキもあるのよ」
「おお……」

 一太は、コンビニやスーパーで仕事をしてきたので色々なケーキを見たことはある。けれど食べたことはない。味の想像がつかないから、仕事で陳列する時にじっくり見ることもなかった。チョコレートケーキひとつとってもそんなに種類があるのか。

「晃くん、どれが好き?」
「うーん。どれも好きだけど、このチョコレートケーキは一番好きかな」

 それなら、作り方を聞いて帰らねば!

「あ、もちろん、いっちゃんの作ってくれる料理は何でも好きだよ」
「あ、ありがと……」

 晃が笑顔で言ってくれるのは嬉しい。嬉しいが、何でも好き、では困る、と一太は思った。
 一太は、陽子のように、ずっと、晃や家族を笑顔にしたくて料理を作ってきたわけではない。ただ、生きるための仕事として料理をしていたから、誰かに喜んでもらいたいと思う料理を作り始めたばかりの初心者だ。喜んでもらうためには、何が好きか、一番好きなものはどれなのかをちゃんと教えてくれると助かるのだけれど。

「おかえり。いいの、買えた?」

 家で留守番をしていた光里ひかりが、自分の部屋から出てきた。
 誰もいなくて少し冷えていた居間は、すぐにエアコンがごうごうと作動して暖まっていく。誰かがスイッチを入れたのだろう。

「ただいま。買ってきたよー。聞いて。安売りのセットに広告の割引券は使えなかったんだけどさ。いっちゃんの学生証見せたら学割で十パーセント引きしてもらえて、更に私のスマホのペイ払いのクーポンが発動して五パーセント分のポイント還元、そしてこのポイントカードにもポイントがたまったの。しかも、ポイント五倍デーだった!」
「やるじゃん!」
「でしょー。という訳で、いっちゃん。ものすごく安くなったからね。ポイント分とかも引くから」
「え? あ、はい」
「ふふ。いい日だわー」
「あの……」
「二十五回くらい払ってくれたら充分よ。就職してからね」
「え?」

 確かに元の値より割引きになったのは見たが、一番小さいサイズの靴でも一太には少し大きくて中敷きを足したり、ジャケットの袖とズボンの丈のお直し代が追加されたり、シャツをノーアイロンでも大丈夫な品に変えたりと、少しづつ値段が増えている部分もあったはずだ。結局元のセットの価格と変わらなかったのでは?

「あの、でも」
「いっちゃん、そういうものらしいよ」

 何が……?
 首を傾げる一太に、晃はうーん、と少し考えてから言った。

「ポイント。そう、ポイントがさ、母さんくらいになると倍率がすごいからたくさん付くんだって」
「そう、なの?」
「つくわよー。ランク高いからね!」

 それなら、お言葉に甘えていいのだろうか。一太が考えている間にも、ケーキを食べる準備は整えられていく。

「飲み物、何にするー?」
「温かいコーヒー。ミルクだけ」
「僕は温かいストレートティ」
「私も紅茶」

 机には、ケーキとお皿とフォークが並ぶ。
 当たり前のように、一太の分も並んでいく。
 そして、当たり前のようにその言葉は一太に届くのだ。

「いっちゃんは、何飲む?」
「あの……。ミルクティ、がいいです」
「はーい」

 そういうもの、という言葉がぐるぐる回る。そういうものだ。色々とそういうもの。
 借りたお金の返済は余裕がある時で良くて、ポイント分は払わなくて良くて、ここに一太の席は当たり前にあって、陽子さんは聞いたらすぐにケーキの作り方を教えてくれる。ケーキだけじゃない、何でも。何でも答えてくれる。暖かい部屋で誰かと笑って話をしている。
 夢に見たこともなかった景色。
 いっそ一人なら楽なのに、と思っていたのが嘘みたいに楽しい。嬉しい。
 こんなこと、あるんだなあ。こんな世界があったんだなあ。
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