無自覚オメガとオメガ嫌いの上司

蒼井梨音

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その日は、午後から少しバタバタしていた。
プロジェクトの資料をまとめていたら、
外から少し大きなヒールの音がして、
誰かが課長の席のほうに向かってきた。

見るまでもなく、課長と懇意にしている専務の娘さん——高畠夕菜さんだと分かった。
派手な香水の匂いが先に届く。

課長は席を外していて、
いないと分かると、まっすぐこっちを見た。
目が合った瞬間、なぜか心臓が冷たくなった。

「あなたが、白鷹課長の部下の……小国さん、でしょ?」
名前を呼ばれた。
その声音には、笑っているようで笑っていない響きがあった。

彼女はまっすぐ立ったまま、
柔らかい声で——でも鋭い言葉を落とした。

「職場でヒートを起こすなんて、自己管理ができてないわ。
みんな迷惑してるんじゃないの」

“みんな”。
その言葉の中に、課長の顔が浮かんだ。
一番、迷惑をかけた人の顔。

「元いたオメガ専用部署に戻るべきじゃない?
ここは、そういうトラブルを許せる場所じゃないと思うの」

何も言い返せなかった。
たしかに、迷惑をかけたのは事実だ。
誰も何も言わないけど、
もしかしたら本当にそう思われているのかもしれない。

課長が戻ってきたときには、
夕菜さんはすでに何事もなかったように笑って話しかけていた。
いつもの、あの作り笑いの課長の顔を見た瞬間、
胸が痛くなった。

課長の前で、あんな言葉を投げつけられた自分を見られたくなかった。
逃げるように、「少し体調が悪いので」と言って退勤した。


家に着いても、心臓の鼓動が落ち着かない。
息を吐くたびに、課長の名前が浮かんでくる。
——課長は、どう思ってるんだろう。

怒ってる?
呆れてる?
それとも……心配してくれてる?

どんな答えであっても、今の自分は受け止められそうにない。
せっかく仕事に戻れたのに、
やっぱり、自分は“普通”にはなれないんだ。

課長のハンカチを、机の引き出しの奥にしまった。
見るのも、触るのも、今日はもう無理だ。

——でも、明日の朝になったら、また会いたくなるんだろうな。

その夜は眠れなかった。
一晩中、課長の顔が頭から離れなかった。
夢の中で、課長もこちらを見ていた。
少し困ったように、少し寂しそうに。
 

ベッドに入る前に、異動願を書いた。
何度も、破っては書き直した。
“申し訳ありません”という言葉だけが、何度もペン先からこぼれた。

書きながら、手が震えた。
自分がいなくなっても職場は回る。
課長も、すぐに新しい部下を迎えて、
またいつもの静かなオフィスになるだろう。
それが一番いい。
それでいいはずだ。

でも本当は——
もう一度だけ、あの声で名前を呼んでほしいと思っている。
馬鹿みたいだ。

きっと、課長は何も悪くない。
俺が勝手に意識して、
勝手に乱れて、
勝手にヒートになって、
迷惑をかけた。
夕菜さんの言葉は、痛いほど正しかった。
「自己管理ができていない」
「職場に迷惑をかけている」
それを覆すだけの実力も、自信も、俺にはまだない。

だから、ここにいる資格がない。

——だけど。
ハンカチを洗って畳みながら、
指先に残る微かな香りに、心が揺れた。
優しくて、落ち着く匂い。
あれはアルファのフェロモンのせい?
それとも、あの人の匂いそのもの?

どちらにしても、
私はもうこの香りを仕事に持ち込んではいけない。
想いを抱いたまま、同じ空間にいれば、
きっとまた迷惑をかける。

だから、終わらせる。
今日はこれを課長に渡して、
ちゃんと、けじめをつける。

こんな気持ちになるなんて思わなかった。
恋なんて、自分には関係ないと思ってた。
でも今は——
どうしようもなく、あの人の優しい声が恋しい。

……これでいい。
これでいいんだ。

朝の空気は、やけに冷たく澄んでいた。
季節が少し進んだのか、それとも自分の体温が下がっているのか、よく分からない。

——これでいい。
何度もそう言い聞かせる。


朝のミーティングが終わって、皆が席に戻って仕事を始めた頃。
鞄に入った異動願の封筒を持って、白鷹課長のデスクの前に立った。
背筋を伸ばしたつもりだったのに、
指先が小刻みに震えているのが自分でも分かった。

「……課長、あの、少しお時間よろしいですか」

課長が顔を上げる。
目が合った瞬間、心臓が跳ねた。
あの落ち着いた瞳を直視できずに、
ほんの一瞬で視線を落とした。

「なんだ?」
低く、いつも通りの声。
それだけなのに、
安心と痛みが同時に胸に広がった。

封筒を差し出す。
封の表には、自分の字で“人事部宛”と書かれている。
課長の眉が、かすかに動いた。

「……これは?」

答えようとして、言葉が喉で止まった。
いくつかの言い訳が浮かんでは消える。
“体調のことを考えて”とか、“ご迷惑をおかけしたので”とか。
でも、どれも本当の理由ではない。

ただひとつ、口にできない本音だけが心の中で響いていた。
——課長が、好きだから。

「……お世話になりました。今まで、本当にありがとうございました」

深く頭を下げる。
それ以上何かを言えば、声が震えてしまう気がした。

課長の沈黙が怖かった。
何も言わずに受け取られても、
問い詰められても、
どちらでも泣きそうだった。

数秒の沈黙。
それが、永遠みたいに長く感じられた。

やがて、課長の指先が封筒に触れた。
その瞬間、指と指がかすかに触れ合う。
一瞬で息が詰まった。

「……そうか」

低く、押し殺した声。
それだけを残して、封筒が課長の手に渡った。

目を上げられなかった。
視界が滲む前に、
「失礼します」とだけ言って、足早にその場を離れた。

背中に、課長の視線が突き刺さるように感じた。
けれど、振り向けなかった。
もし振り返ってしまったら、もう決意が崩れてしまうから。

ドアの前で立ち止まり、小さく深呼吸をした。
そして、心の中で呟いた。


——どうか、幸せになってください。
——俺のいない場所でも。


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