無自覚オメガとオメガ嫌いの上司

蒼井梨音

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昼休みの時間になり、持ってきた昼食を広げようとしてると
「小国、それ食べたらちょっといいか」
白鷹課長が目の前にいた。
顔を上げないまま返事をして、そそくさと食事を済ませ課長と歩き出す。

「なぜ、こんなものを?」
使ってない会議室に通された途端に、朝渡した異動願を目の前の机を置く。
重い扉が閉まって、部屋に静けさが戻る。
課長は窓際で腕を組んだまま動かない。
背中越しに見える横顔は、いつもの冷静さとは少し違って見えた。

「……みなさんに迷惑かけたので」
「抑制剤は飲んでるんだよな。突発的だったって聞いたけど」
「……はい」
今まで、抑制剤はちゃんと飲んでる。
発情期が今までこんなにズレることなかった。
でも今までとは全然違う……。
仕事も忙しいし、ストレスもある。
でも、でも……。
白鷹課長と一緒に過ごすようになって、
感じるようになったこの気持ち。
そういう思いが発情期を引き起こしたんだ、と思い当たる。

「それは想定内だろう。新しい部署でストレスもあったろう」
「……課長」

声をかけようとして、俺は言葉を飲み込む。
課長の肩が、わずかに強張る。
何かをこらえるように、息を吐いていた。

夕菜さんの言葉が、まだ空気の中に残っている気がした。
“オメガだからって、許されると思わないで”
正しい言葉だ。
だから書いたんだ。

「……すみません」
小さくそう言って、直樹は頭を下げた。
ただ謝らなきゃいけない気がした。

白鷹課長はしばらく黙っていた。
そして、低く短く答えた。
「……お前が謝ることじゃない」

その声には、疲れと、どこかに滲む自嘲が混じっていた。
俺はそれを聞きながら、胸の奥で小さく疼くものを感じた。
 この人は、何かを抱えている。
 まだ知らない何かを——。

白鷹課長はどこか辛そうな顔をして、俺の頬に手を持っていく。
「……夕菜に何か言われたか?」
俺は驚いて、課長を見上げた。
「な、なんで……」
課長はわかったような顔をして、
「これは預かっておく」
そう言い残して、部屋を出て行った。
 

午後三時を過ぎた頃。
俺はなんとか進めていた資料の確認を終え、気分転換に廊下の自販機まで歩いた。
缶コーヒーを取り出すと、奥の角の方から小さな声が聞こえた。
同じ課の女性二人、経理と営業補佐の若い社員だった。

「ねえ、夕菜さんって、課長とは一緒の大学でそれ以来の仲なんだよね?」
「うん、そうそう。ほら、課長がこの会社に入ったのも夕菜さんが関係してるとか。よく一緒にいるのよく見るもん」

直樹の手が、缶のプルタブを引いたまま止まった。
炭酸の小さな音が、やけに響く。

「なんか、噂あったよね。付き合ってるんじゃないかって」
「うん。でも誰も聞けなかったみたい。白鷹課長ってそういうの、絶対表に出さないし」
「でもさ、夕菜さん、あの人に対してだけ態度がちょっと違うよね」
「わかる。敬意っていうか…昔、特別だった感じする」

カタン、と缶を落とした音がして、二人が一瞬黙った。
直樹は慌てて拾い上げ、何でもないふりで通り過ぎる。
背後で「やば、聞かれたかも」と小声がした。

席に戻っても、手元の書類がぼやけて見えた。
“夕菜さんと課長”──
その並びが、頭の中で何度も繰り返された。

思い返せば、課長が夕菜さんの名前を呼ぶとき、ほんの一瞬だけ声が柔らかくなる。
夕菜が視線を逸らすときの、あの微妙な間。

(……そうだったのか)

胸の奥が、ゆっくりと沈んでいく。
知らなくてもよかったことのような気がして、けれどもう、耳から離れなかった。

 
帰ってからも、白鷹課長のこととか、これからも仕事をやれるかとかいろいろ考えた。
でも結局、俺は白鷹課長とは向き合うのが怖い。

ヒートを起こしたから?
みんなに迷惑をかけたから?
夕菜さんがいるから?

でも本当は、課長の期待にこたえられなくて、逃げてしまうように異動を申し出たから。
課長の残念そうな顔が浮かんで、消えた。 

今までの俺はこんなウジウジ考えるキャラじゃなかったんだけどなぁ。
家に帰って、また白鷹課長のこととか、これからも仕事をやれるかとかいろいろ考えた。
でも結局、俺は白鷹課長とは向き合うのが怖いんだ。

ヒートを起こしたから?
みんなに迷惑をかけたから?

でも本当は、課長の期待にこたえられなくて、逃げてしまうように異動を申し出たから。

夕菜さんの言ってることは正しい。
彼女はきっとしっかり自己管理をしてるんだ。
だから、こんな俺が近くにいるのが許せないんだ。

課長の残念そうな顔が浮かんで、消えた。
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