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Ⅴ
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久しぶりに出社した。
本当はもう一日休もうかと思ってたけど、熱も引いたこともあり、午前から会議があったから無理をしてでも出社した。
朝、ドアを開けた瞬間に、周りの空気がいつもより重く感じた。
自意識過剰かもしれない。
ヒートを起こしたからか、職場の空気が少し重い。
同僚の視線がどことなく優しくて、それが逆に気まずい。
みんな、気を遣ってくれてるんだろう。
でも、誰かの目線を感じた気がした。
「体調、大丈夫?」
舟形先輩の声はいつも通りで、少しほっとした。
会議で俺が倒れたのはもう噂になってるのかもしれない。
オメガのヒートなんて、隠せるものじゃない。
……そう分かっていても、顔を上げるのが少し怖かった。
課長は――
何も言わなかった。
ただ、会議の資料に目を通しながら、
「この部分、修正頼む」って、いつもと同じ調子で言った。
その“いつも通り”が、逆に苦しかった。
きっと、怒ってるわけじゃない。
でも、気を遣われてる。
そう思うと、胸の奥がざらざらした。
さっきすれ違ったとき、ほんの少しだけ、あのハンカチの匂いがした。
一瞬で胸の奥がざわついて、呼吸を整えるのに少し時間がかかった。
まさか、またヒートの前兆……?
いや、違う。
そうじゃない。
ただ、少し、まだ心が落ち着かないだけ。
しばらくは、気をつけよう。
抑制剤も、感情も。
次は、絶対にあんなことにならないように。
職場でヒートなんて、あり得ないことなのに。
自己管理の問題だって、そう言われても仕方ない。
ちゃんと抑制剤も飲んでたのに……
あんなふうになるなんて思わなかった。
またいつもの日常が戻ってきた。
舟形先輩やチームのメンバーと一緒に資料を整え、新たな会議に臨む。
帰ってから、課長から借りたハンカチを洗濯しようと思って取り出したら、
まだ少し、匂いが残っていた。
柔軟剤の香りとは違う。
少し石鹸みたいな、ウッディの落ち着く匂い。
一瞬、胸が締めつけられて、手が止まった。
……何考えてるんだろう。
これは、課長の“匂い”じゃなくて、アルファの“フェロモン”なんだ。
そうに決まってる。
本能が反応しただけだ。
そう思い込んで、洗濯機に放り込んだ。
仕事で迷惑をかけたんだから、
余計なことは考えないようにしないと。
あの人は上司で、俺は部下。
何かを期待するなんて、ありえない。
……でも、今は、課長に会うのが少し怖い。
そして――
少し、嬉しい。
次の日も、無事に出社できた。
体調はもう問題ない。
……はずだ。
昨日、あれだけ考えて、もう吹っ切れたと思ってたのに、
デスクに座って資料を整理していると、
ふと、隣の席の気配に神経が引っ張られる。
課長の視線が、自分の方を向いた気がした。
ほんの一瞬、心臓が跳ねる。
「小国、昨日の件、助かった」
その低い声。
いつも通りの、落ち着いたトーン。
“課長モード”の声なのに、
聞いた瞬間に、胸の奥が温かくなる。
「い、いえ。大したことしてませんから」
慌てて言葉が出て、
自分でも、なんでこんなに焦ってるのか分からない。
「無理はするな。報告書は俺が出しておく」
そう言って、課長は少しだけ目を細めた。
あの表情、誰にでもするわけじゃない。
仕事の話をしているだけなのに、
心がじわりとほどけていく。
……だめだ。
そういうのを期待しちゃいけない。
昨日の夜、何度も言い聞かせたはずなのに。
俺もどこかで気づいてるんだ。
課長に会うのが嬉しいのは、
“本能”じゃなくて、“気持ち”なんだと思う。
でも、それを言葉にしたら、
きっと、全部が壊れてしまう気がする。
だから、今日も何も言わない。
ただ、隣の席で、いつも通りに仕事をする。
それだけで十分だと思ってる。
……少なくとも、今は。
次の日。
午後から課長と資料の確認。
来週のプレゼンに向けて、細かい仕様のすり合わせをした。
いつも通りの、淡々とした会議室。
白い蛍光灯の下で、課長は真剣に資料を見ていた。
指先が紙をめくる音だけが響いて、
その静けさが、逆に心臓の音をうるさくする。
「……このグラフ、もう少し整理できるか?」
隣から聞こえた声が、
すぐ耳のすぐそばで落ちてきた。
顔を上げた瞬間、距離が近すぎて、息が止まった。
シャツの襟元から、爽やかな香りがふっと広がった。
ウッディな匂い。
なのに、それが自分の肌の奥まで染みてくる感じがして、
思わず呼吸を浅くした。
課長はそんなこと気づいてないみたいに、
真面目な顔で画面を指差して説明を続けてる。
でもその指が、ほんの一瞬、自分の手の甲に触れた。
びくり、と手を引いたら、
課長も一瞬だけ息を呑んだように見えた。
けどすぐ、いつもの冷静な表情に戻って
「……悪い」と短く言って、
視線を落とした。
その「悪い」が、あんなに優しい響きを持つなんて、
知らなかった。
その瞬間、心の奥で何かがほどけた。
たぶん、ずっと前から気づいてた。
でも、認めたくなくて、見ないふりしてた。
——俺は課長が好きなんだ。
気づいた途端、怖くなった。
この気持ちを知ってしまったら、
もう以前みたいには戻れない。
職場で、何もなかった顔をしていられる自信がない。
でも、
それでも、
課長の横顔を見ているだけで幸せだと思ってしまった。
苦しいのに、どうしようもなく嬉しい。
これを“恋”と呼ばずに何と言えばいいんだろう。
明日からどうすればいいのか、分からない。
でも今夜くらいは、
この気持ちをそっと胸の中で抱えて眠りたいと思った。
本当はもう一日休もうかと思ってたけど、熱も引いたこともあり、午前から会議があったから無理をしてでも出社した。
朝、ドアを開けた瞬間に、周りの空気がいつもより重く感じた。
自意識過剰かもしれない。
ヒートを起こしたからか、職場の空気が少し重い。
同僚の視線がどことなく優しくて、それが逆に気まずい。
みんな、気を遣ってくれてるんだろう。
でも、誰かの目線を感じた気がした。
「体調、大丈夫?」
舟形先輩の声はいつも通りで、少しほっとした。
会議で俺が倒れたのはもう噂になってるのかもしれない。
オメガのヒートなんて、隠せるものじゃない。
……そう分かっていても、顔を上げるのが少し怖かった。
課長は――
何も言わなかった。
ただ、会議の資料に目を通しながら、
「この部分、修正頼む」って、いつもと同じ調子で言った。
その“いつも通り”が、逆に苦しかった。
きっと、怒ってるわけじゃない。
でも、気を遣われてる。
そう思うと、胸の奥がざらざらした。
さっきすれ違ったとき、ほんの少しだけ、あのハンカチの匂いがした。
一瞬で胸の奥がざわついて、呼吸を整えるのに少し時間がかかった。
まさか、またヒートの前兆……?
いや、違う。
そうじゃない。
ただ、少し、まだ心が落ち着かないだけ。
しばらくは、気をつけよう。
抑制剤も、感情も。
次は、絶対にあんなことにならないように。
職場でヒートなんて、あり得ないことなのに。
自己管理の問題だって、そう言われても仕方ない。
ちゃんと抑制剤も飲んでたのに……
あんなふうになるなんて思わなかった。
またいつもの日常が戻ってきた。
舟形先輩やチームのメンバーと一緒に資料を整え、新たな会議に臨む。
帰ってから、課長から借りたハンカチを洗濯しようと思って取り出したら、
まだ少し、匂いが残っていた。
柔軟剤の香りとは違う。
少し石鹸みたいな、ウッディの落ち着く匂い。
一瞬、胸が締めつけられて、手が止まった。
……何考えてるんだろう。
これは、課長の“匂い”じゃなくて、アルファの“フェロモン”なんだ。
そうに決まってる。
本能が反応しただけだ。
そう思い込んで、洗濯機に放り込んだ。
仕事で迷惑をかけたんだから、
余計なことは考えないようにしないと。
あの人は上司で、俺は部下。
何かを期待するなんて、ありえない。
……でも、今は、課長に会うのが少し怖い。
そして――
少し、嬉しい。
次の日も、無事に出社できた。
体調はもう問題ない。
……はずだ。
昨日、あれだけ考えて、もう吹っ切れたと思ってたのに、
デスクに座って資料を整理していると、
ふと、隣の席の気配に神経が引っ張られる。
課長の視線が、自分の方を向いた気がした。
ほんの一瞬、心臓が跳ねる。
「小国、昨日の件、助かった」
その低い声。
いつも通りの、落ち着いたトーン。
“課長モード”の声なのに、
聞いた瞬間に、胸の奥が温かくなる。
「い、いえ。大したことしてませんから」
慌てて言葉が出て、
自分でも、なんでこんなに焦ってるのか分からない。
「無理はするな。報告書は俺が出しておく」
そう言って、課長は少しだけ目を細めた。
あの表情、誰にでもするわけじゃない。
仕事の話をしているだけなのに、
心がじわりとほどけていく。
……だめだ。
そういうのを期待しちゃいけない。
昨日の夜、何度も言い聞かせたはずなのに。
俺もどこかで気づいてるんだ。
課長に会うのが嬉しいのは、
“本能”じゃなくて、“気持ち”なんだと思う。
でも、それを言葉にしたら、
きっと、全部が壊れてしまう気がする。
だから、今日も何も言わない。
ただ、隣の席で、いつも通りに仕事をする。
それだけで十分だと思ってる。
……少なくとも、今は。
次の日。
午後から課長と資料の確認。
来週のプレゼンに向けて、細かい仕様のすり合わせをした。
いつも通りの、淡々とした会議室。
白い蛍光灯の下で、課長は真剣に資料を見ていた。
指先が紙をめくる音だけが響いて、
その静けさが、逆に心臓の音をうるさくする。
「……このグラフ、もう少し整理できるか?」
隣から聞こえた声が、
すぐ耳のすぐそばで落ちてきた。
顔を上げた瞬間、距離が近すぎて、息が止まった。
シャツの襟元から、爽やかな香りがふっと広がった。
ウッディな匂い。
なのに、それが自分の肌の奥まで染みてくる感じがして、
思わず呼吸を浅くした。
課長はそんなこと気づいてないみたいに、
真面目な顔で画面を指差して説明を続けてる。
でもその指が、ほんの一瞬、自分の手の甲に触れた。
びくり、と手を引いたら、
課長も一瞬だけ息を呑んだように見えた。
けどすぐ、いつもの冷静な表情に戻って
「……悪い」と短く言って、
視線を落とした。
その「悪い」が、あんなに優しい響きを持つなんて、
知らなかった。
その瞬間、心の奥で何かがほどけた。
たぶん、ずっと前から気づいてた。
でも、認めたくなくて、見ないふりしてた。
——俺は課長が好きなんだ。
気づいた途端、怖くなった。
この気持ちを知ってしまったら、
もう以前みたいには戻れない。
職場で、何もなかった顔をしていられる自信がない。
でも、
それでも、
課長の横顔を見ているだけで幸せだと思ってしまった。
苦しいのに、どうしようもなく嬉しい。
これを“恋”と呼ばずに何と言えばいいんだろう。
明日からどうすればいいのか、分からない。
でも今夜くらいは、
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