無自覚オメガとオメガ嫌いの上司

蒼井梨音

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課長の声は、いつもより少しだけ穏やかだった。
「今月いっぱいで、会社を辞めることにした」
その言葉を聞いた瞬間、心臓が一拍遅れて動いた気がした。

やっぱり、そうなんだ。
薄々気づいてたのに、いざ聞くと現実になる。
笑って「お疲れさまでした」って言わなきゃいけないのに、
喉が動かない。

課長はまっすぐ俺を見ていた。
迷いがなくて、どこか静かで――でも優しかった。
「お前の異動の話はもう少し待っていてくれるか」
「……すみません」
「いや。こっちの都合ですまない」

その言葉に、なぜか胸が痛んだ。
でも、今だけは違う言葉を欲しかった。
“行くな”って。
“俺のそばにいろ”って。

これから去っていく課長が、そんなこと言うはずないのに。


ふっと沈黙が落ちた。
俺と課長しかいないオフィス。
書類の山の間で、蛍光灯の音だけが響いてる。

「小国……」
呼ばれた名前が、少し震えて聞こえた。
「お前のことが、好きだ」

一瞬、時間が止まった。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
課長の顔を見た。
真剣で、どこまでも静かだった。

「返事は、今すぐじゃなくていい」
「……」
「ただ、伝えておきたかった。
俺がここを去る前に、ちゃんと、お前に」

言葉が出なかった。
頭の中がぐちゃぐちゃで、何を言えばいいかわからない。
ただ、心の奥が熱くなって、視界が滲んだ。

「すみません……今は、まだ……」
それだけ言うのがやっとだった。

課長は微笑んだ。
「それでいい。無理に答えなくていい」
いつもと同じ、優しい笑顔だった。
でもその笑顔が、もうすぐ見られなくなるんだと思うと、
胸が裂けそうだった。


課長の思いを告げられて、
どうしたらいいのかわからなくて、
それでも課長のことが好きなのに。
結論が出ない宙ぶらりんな俺は、ただ仕事に集中していた。
課長と働ける、残りわずかな時間を。


夕方のオフィスは、ほとんど人がいなかった。
引き継ぎも終わって、課長のデスクの上には
私物を詰めた箱がひとつだけ。

蛍光灯の白い光の下、課長が最後の書類に印を押していた。
その姿を見ているだけで、胸の奥が痛くなる。
もう――本当に、終わるんだ。

「これで全部、片付いたな」
課長がふっと笑う。
疲れたようでも、どこか晴れやかな笑顔。

俺は言葉を探しながら、一歩だけ近づいた。
「……本当に、辞めちゃうんですね」
「ああ。思ったより、あっさりだな」
「……そうですね」

笑って言えなかった。
喉が詰まって、うまく声が出ない。

課長がデスクの引き出しを閉め、ゆっくり立ち上がった。

「お前に会えてよかった」 

その言葉が、静かに響いた。

「え……?」
「俺、会社にいる間に、誰かを好きになるなんて思ってなかった」

課長の声は落ち着いていた。
もう迷いのない、澄んだ声。

「最初は、ただ面倒を見てるつもりだったんだ。
でも、いつの間にか、お前の頑張りに惹かれてた。
オメガとか、立場とか関係なく、ひとりの人間として……好きだった」

心臓が鳴る。
耳の奥で、血の音が響いて、息が詰まる。
課長の言葉がまっすぐ胸に届いて、痛いほど温かい。

「でも、もう行かなきゃな」
課長は小さく笑って、少し目を伏せた。
「俺がいたら、お前が進めない気がするから」

「……そんなこと、ないです」
声が震えた。
否定しなきゃ、と思うのに、言葉が出てこない。
ただ、この瞬間を逃したら一生後悔する気がした。

「課長……俺も、好きです」

気づいたら、そう言っていた。
涙が込み上げて、視界がにじむ。
課長が驚いたように目を見開き、それから静かに笑った。

「……ありがとう」
その一言に、すべてが込められていた。

沈黙のあと、課長が小さく息をついて言った。
「お前のこれからが、ちゃんと明るいものであるように祈ってる」

「俺……課長のいない職場なんて、考えられないです」

「大丈夫。人は変わっていくものだよ」
そう言って、課長は軽く俺の肩を叩いた。

その手の温もりが、消えないように願った。
けれど、課長はそのまま歩き出す。
もう振り返らないと思っていたのに、
ドアの前で、ほんの少しだけ振り返って笑った。

「元気でな、小国」

その笑顔を見た瞬間、
“ああ、本当に好きだったんだ”と、心の底から思った。
涙がこぼれたのは、課長が見えなくなってからだった。
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