無自覚オメガとオメガ嫌いの上司

蒼井梨音

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朝、オフィスに入ると、まだ空気は静かだった。
机に向かうと、白鷹課長がすでにデスクに座り、書類を淡々と整理している。
いつもより少し背筋が伸びて見える――そんな気がした。

(……昨日までと、どこか違う)

気のせいかもしれない。
でも、目を合わせた瞬間、胸の奥がチクリとした。
課長の視線は、いつも通りに冷静だが、どこか柔らかく、そして澄んでいる。
ぎこちない緊張や迷いの影が、まるで消えたかのようだった。

「おはようございます」
挨拶をすると、課長は軽く頷き、いつもより淡い笑みを返す。
その一瞬の表情が、胸を微かにざわつかせた。

(……何か、吹っ切れた?)

その後、朝のミーティングまでの間も、課長は普段通りに指示を出すだけだった。
でも、昨日までのような、どこか慎重すぎる空気はない。
無理に押さえつける感情も、微妙な緊張も感じない。

俺は書類に目を落としながら、心の中で小さくため息をついた。
――俺は、何も変わってないのに、どうして胸がざわつくんだろう。

机越しに見える課長の背中は、いつもより少し堂々として見えた。
思わず、何かが変わったのだと悟った。
昨日までの課長ではない――
静かに決意を秘めた、大人の男になった瞬間のような気がした。

「もう俺なんて、課長の視界にいないんだろうな」

吹っ切れた課長を見てると、なぜか俺のことが終わったことになってる気がする。
「オメガとして問題を起こした自分」も「課長を困らせた自分」も、一緒に過去になっていく気がして、
ほっとする半面、置き去りにされたような寂しさがあった。

それでも、軽く微笑んで指示を出す課長を見ると、
胸が詰まる。

「こんなふうに笑う人だったんだ」

その穏やかさに惹かれていると気づいてしまう。
アルファだからじゃない。
白鷹課長だから、心が動いている。

頭の中では「課長はオメガが嫌い」「これ以上関わってはいけない」とわかっているのに、
吹っ切れた課長の姿に、逆に自分の思いを確信してしまう、
もう隠せない、でも言えない。
そんな矛盾の中で、心だけが焦ってくる。

「あんな顔をする課長を、もう見られなくなるんだ…」

そう思うと、異動願を出してよかったのか、と考えてしまう。
逃げるしかないと思っていたけど、
本当は、もう少しそばにいたかったのかもしれない。

少しでも近くで課長の声を聞きたくて、
「これ、俺がまとめておきます」って、
いつもなら避けていた仕事を、自分から引き受けた。

ただ、それだけのことなのに、
課長が一瞬だけこちらを見て、
「助かる」と微笑んだ。

その声が、また、胸の奥に落ちた。

……やっぱり、もうどうしようもない。
好きなんだ、たぶん。
いや、きっと。



最近の課長は、妙に落ち着いて見える。
退職届でも出すつもりなんじゃないか――
そんな噂を耳にして、笑ってごまかしたけど、
胸の奥ではざわついてた。

吹っ切れた顔。
あのとき感じた距離が、日に日に本物になっていく気がする。

俺の異動の話がどうなってるのか聞いた時も
「せっかくここで頑張ってるのに」って、
少しだけ眉を寄せて、それから静かに笑った。

引き止めるでもなく、責めるでもなく。
その優しさが痛かった。
“行くな”って言ってくれたら、迷えたのに。
課長は、俺の選択を尊重してくれている。
それが正しいってわかってるのに――
心のどこかで、わがままを言ってほしかった。

退職を考えてるなんて、本当なら、
課長もここからいなくなる。
それなのに、俺は、課長がいないこの課に残る。
離れることが“正しい選択”でも、
どうしてこんなに苦しいんだろう。

会議室で見かける背中、
書類を受け取るときにふっと香るコーヒーの匂い、
その全部が、もう少しで届かなくなる。

――気づくのが遅いよな。
好きなんだ、俺。
ただ、それだけのことなのに、
こんなにも、世界の色が変わってしまうなんて。

これが最後の朝かもしれない、
そう思うたび、言葉が喉の奥で止まる。
“好きです”なんて言えたらどんなに楽だろう。
でも言えば、課長を困らせる。
課長の穏やかな日々を、壊してしまう。

だから俺は、黙って離れる。
それがいちばん、あの人らしい笑顔を守れる気がして。
――なのに、どうして涙が出そうになるんだろう。

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