大好きな君と離れる日まで

矢田川いつき

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第二章 きみに好きだと言えなくなった日

第十話

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 ――リョウくん。

 懐かしい、鈴の鳴るような声が響いた。
 一陣の爽風が吹き抜けていく。葉擦れの音が駆け、桃色の花弁が青空へと舞い上がる。
 そんな春色の気配が満ちた歩道の上に俺は、俺たちは立っていた。
 
「彩月……?」

 やや離れたところに、白いワンピースに身を包んだ少女が後ろ向きで歩いている。春に似つかわしい快活な笑顔を浮かべて、こちらを見ている。

 ――リョウくん。ありがとう!

 春風と手を取り合い、踊るように彼女はステップを刻む。よっぽど嬉しいらしく、その足取りは軽やかでリズミカルに舞っている。
 間違いない。あれは幼い頃の彩月だ。
 彩月、と彼女の名前を呼ぼうとする。
 けれど、なぜか声が出ない。ただ呆然と、はしゃぎ喜ぶ彼女を、周囲に吹き流れている桜吹雪を、眺めている。
 これは、夢だろうか。となると、夢の中で夢と自覚する、いわゆる明晰夢というものか。

 ――わたしもね、リョウくん。

 また、少女が笑う。

 ――わたしも、リョウくんのこと……――

「――遼くん!」

 呼ばれて、俺はハッと目を覚ました。
 目の前いっぱいに広がっていた桜吹雪は跡形もなくなり、薄れぼやけていた視界がクリアになっていく。

「さ、つき……?」

 代わりにあったのは、夢の中で出会った少女がそのまま大人びた顔。心配そうに眉をひそめ、瞳は潤んでいる。

「俺、は……」

 ゆっくりと身体を起こし、周囲をうかがう。
 場所は、高校の廊下だ。おそらく、体育館横の通路だろう。窓の外に覗いている木々の高さから察するにここは二階だし、少し離れたところには体育館の舞台袖の裏に続くスロープが見えるから。
 そして確か、俺はここに来て、それで……

「俺は……何を……?」

 思い、出せない。
 教室を出たところまでは覚えている。何か用事……目的があって、昼食も食べずに廊下に出たのだ。
 でも、不思議とその後の記憶が全くない。頭の中はモヤがかかったようにぼんやりとしている。

「遼くん、大丈夫? まだ、顔色悪いよ?」
「あ、ああ。えと、悪い……なんか、混乱してて」

 もしや、と思う。
 数年ぶりの症状だった。途中までは覚えているのに、その後の記憶がすっぽりと抜け落ちていて、気がつくと別の場所にいる。以前の時は廊下ではなく自室にいた。そして後日、友達に事情を訊くと俺はどうやら当時仲良くしていた女子から呼び出しを受けたらしかった。
 となると、今回も同じ……?

「遼くん、ここでうずくまってたんだよ。調子悪いなら早退したほうがいいよ。その……さっきのあの子も戻っちゃったし」
「…………そっ、か」

 彩月の言葉で、さらに確信が深まる。
 思わず、ため息がこぼれた。
 また、だ。
 どうやら俺は誰かから好意を伝えられ、そしてその人に関する記憶を忘れてしまったらしい。
 気分が沈む。
 俺はいったい、誰のことを忘れたんだろうか。
 俺が患っている記憶障害は、日常的に起こるものではない。これまでの経過から医者は、「好意を伝えられること」をトリガーとして発症するものだろうと言っていた。そして忘れるのは、俺に好意を持ってくれるほど仲良くしてきた人に関する記憶だ。記憶障害を患ってから恋愛に発展しそうなことは悉く避けてきたが、今回は上手くいかなかったのか。

「遼くん、保健室行く?」

 俺の背中をさすってくれていた彩月が訊いてきた。
 不覚にも、彩月の心配そうな表情を見ていると少しだけ安心できた。
 俺はまだ、彩月のことを覚えている。一番大切な記憶はまだ、俺の中にある。
 やがて、頭上で五限目開始の予鈴が鳴り響いた。

「そ、そうだな。ひとりで行けるから…………菅浦は、教室戻ってなよ」

 けれど、これ以上はいけない。
 彩月と、一緒にいるわけにはいかない。
 彩月との距離を、縮めるわけにはいかない。
 そう思ってどうにか口にした言葉だったが、続く彩月の返事は俺の予想を遥かに超えていた。

「えーやだ。体調悪い人、しかも遼くんならなおさら放ってはおけないよ。保健室まで付いて行く」
「え、いや、だからいらないって。余計なお世話」
「余計なお世話でもなんでもいいの。ほら、立てる?」

 彩月はその小さな両手で俺の右手と左腕を持ち、支えてくれた。俺は呆然としたまま、ほとんど無意識に立ち上がる。柔らかく、それでいてどこか懐かしくて愛おしい感触に、心臓が大きく跳ねる。

「……どうして」

 不思議だった。
 俺は彩月の気持ちを踏みにじった。事情も話さず、一方的に突き放した。それでいて明確に、確かな意思を持って、傷つけた。
 それなのに、彩月はまだ、俺のことを気にしてくれているのだ。
 無理やり飲み込もうと思ったけれど、気がつけば俺は、口にしていた。

「どうして……あんなに冷たくしたのに、彩月はまだ、俺を…………」
「決まってるじゃない」

 先を続けられない俺に代わって、彩月が口を開く。
 すぐにしまったと思ったけれど、彩月はを言葉にしなかった。

「私が、そうしたいからだよ」

 手と腕に感じていた温もりが離れ、続けて身体全体を覆う。
 泣きそうになった。
 いや、俺は多分泣いていた。
 目頭が熱くて、頬が熱くて、胸が熱くて、唇がしょっぱかった。
 誰もいない廊下で、俺たちは人知れず抱き締め合っていた。
 もう、限界だった。

「……彩月。落ち着いて、聞いてほしいことがあるんだ」

 昂った心が静まるのを待ってから、俺はゆっくりと身体を離して、彩月を正面から見据えた。

「う、うん。どうしたの?」

 緊張した様子の彩月。申し訳ないとは思うけれど、これ以上隠し通す自信が俺にはなかった。
 颯斗の言った通りだった。俺は意を決して、言葉を続ける。

「俺、病気でさ。ちょっと特殊な、解離性健忘ってのを患ってるんだ。誰かから告白されると、忘れちまうんだよ……その人のことを」

 授業の音が、どこか遠くで響いていた。
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