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第1章
第12話:命の重み
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腕の中に収まった鴉は、至近距離で見るといっそう痛々しく、その消耗ぶりは正視しがたいほどだった。
折れ曲がった右翼の付け根からは、どす黒い粘り気のある血がじわりと滲み出し、かつては誇り高く空を切り裂いていたであろう羽根は、泥と埃、そして自らの脂汗にまみれて無残に汚れきっている。
「大丈夫だよ……。今、なんとかするから。だから、死なないで……」
自分でも驚くほど喉の奥から絞り出した声は、祈りにも似ていた。僕は鴉を、月明かりが差し込む机の上へと、壊れやすい硝子細工を扱うようにそっと横たえた。
生き物の「生」の熱に触れた僕の指先は、制御できないほど小刻みに震えている。自分以外の「命」の行く末を預かるという行為が、これほどまでに重く、そして心臓を握りつぶされるように恐ろしいものだとは思わなかった。
僕は弾かれたように書架へ走り、先ほどまで縋るように読んでいた医学書を、頁が破れんばかりの勢いでひっくり返した。
魔力という名の奇跡を使わずに、ただの肉体としての傷を癒やす術。
幸いなことに、この塔の先住人は、生体魔力の研究の一環として「魔物」の構造についても深く切り込んでいたようだ。鳥型の魔物に対し、非魔導的な応急処置を施すための克明な記述が、黄ばんだ頁の隅に、まるでこの瞬間のために用意されていたかのように見つかった。
「……まずは翼を固定して、不純物を取り除き、傷口を清める。それから……」
僕は二階へと階段を転げ落ちるように駆け降りた。自分のために支給されていた、一滴さえ惜しいほど貴重な真水と、泥を拭うためにとっておいた清潔な布を掴む。さらには、本来なら僕の飢えを凌ぐための食事になるはずだった、僅かな薬草の類も迷わず手にとった。
冷たい水で布を濡らし、鴉の羽毛にこびりついた汚れを慎重に、一点ずつ拭い去っていく。
魔物は時折、激痛に耐えかねたようにクチバシを微かに震わせ、喉の奥で押し殺したような鳴き声を漏らした。だが、その濁った瞳は僕を拒絶することなく、ただ運命を委ねるようにじっと僕を見つめていた。
「ごめんね、痛いよね。でも、もう少しだけ頑張って」
何度も何度も声をかけながら、医学書の図解を脳に焼き付け、震える手で折れた翼に添え木を当てていく。
前世で医療の知識など何ひとつ持ち合わせていなかった僕が、脂汗を流し、薄暗いランプの光の下で必死に処置を施していく。
がむしゃらだった。もし、この鴉がここで冷たくなってしまったら、僕の心の中に残された最後の「人間としての何か」も、一緒に死に絶えてしまうような気がしたからだ。
数時間をかけ、ようやくすべての処置を終えた。
鴉はよほど疲れ果てたのか、僕が古い布を重ねて用意した急ごしらえの寝床の上で、静かに瞼を閉じている。 ぴくり、ぴくりと、弱々しいけれど規則正しい呼吸。
その胸の上下を見つめながら、僕はふと、暗い水底に沈んでいくような思考に囚われた。
「……僕は、本当にこの子を助けたかっただけなのかな」
それとも。
この、肺が潰れそうなほどの耐え難い孤独から、一刻でもいいから逃れたかっただけなのだろうか。
誰かに必要とされたい。誰かと体温を分かち合いたい。その自分勝手な欲求を満たすために、本来なら大空を舞うべきこの自由な生き物を、塔という名の檻に無理やり引き止めてしまったのではないか。
窓の外は、すでに深い夜の帳が下りていた。
青白い月光に照らされた鴉の寝顔を見つめながら、僕は自分の心に巣食う醜いエゴイズムに、鋭い針で刺されたような小さな罪悪感を覚えた。
けれど。
冷え切った石造りの部屋の中で、隣に自分ではない「別の呼吸」があることが。
ただそれだけで、今夜の僕は、昨日までの自分よりもほんの少しだけ、強く地面を支えて立っていられるような気がしていた。
折れ曲がった右翼の付け根からは、どす黒い粘り気のある血がじわりと滲み出し、かつては誇り高く空を切り裂いていたであろう羽根は、泥と埃、そして自らの脂汗にまみれて無残に汚れきっている。
「大丈夫だよ……。今、なんとかするから。だから、死なないで……」
自分でも驚くほど喉の奥から絞り出した声は、祈りにも似ていた。僕は鴉を、月明かりが差し込む机の上へと、壊れやすい硝子細工を扱うようにそっと横たえた。
生き物の「生」の熱に触れた僕の指先は、制御できないほど小刻みに震えている。自分以外の「命」の行く末を預かるという行為が、これほどまでに重く、そして心臓を握りつぶされるように恐ろしいものだとは思わなかった。
僕は弾かれたように書架へ走り、先ほどまで縋るように読んでいた医学書を、頁が破れんばかりの勢いでひっくり返した。
魔力という名の奇跡を使わずに、ただの肉体としての傷を癒やす術。
幸いなことに、この塔の先住人は、生体魔力の研究の一環として「魔物」の構造についても深く切り込んでいたようだ。鳥型の魔物に対し、非魔導的な応急処置を施すための克明な記述が、黄ばんだ頁の隅に、まるでこの瞬間のために用意されていたかのように見つかった。
「……まずは翼を固定して、不純物を取り除き、傷口を清める。それから……」
僕は二階へと階段を転げ落ちるように駆け降りた。自分のために支給されていた、一滴さえ惜しいほど貴重な真水と、泥を拭うためにとっておいた清潔な布を掴む。さらには、本来なら僕の飢えを凌ぐための食事になるはずだった、僅かな薬草の類も迷わず手にとった。
冷たい水で布を濡らし、鴉の羽毛にこびりついた汚れを慎重に、一点ずつ拭い去っていく。
魔物は時折、激痛に耐えかねたようにクチバシを微かに震わせ、喉の奥で押し殺したような鳴き声を漏らした。だが、その濁った瞳は僕を拒絶することなく、ただ運命を委ねるようにじっと僕を見つめていた。
「ごめんね、痛いよね。でも、もう少しだけ頑張って」
何度も何度も声をかけながら、医学書の図解を脳に焼き付け、震える手で折れた翼に添え木を当てていく。
前世で医療の知識など何ひとつ持ち合わせていなかった僕が、脂汗を流し、薄暗いランプの光の下で必死に処置を施していく。
がむしゃらだった。もし、この鴉がここで冷たくなってしまったら、僕の心の中に残された最後の「人間としての何か」も、一緒に死に絶えてしまうような気がしたからだ。
数時間をかけ、ようやくすべての処置を終えた。
鴉はよほど疲れ果てたのか、僕が古い布を重ねて用意した急ごしらえの寝床の上で、静かに瞼を閉じている。 ぴくり、ぴくりと、弱々しいけれど規則正しい呼吸。
その胸の上下を見つめながら、僕はふと、暗い水底に沈んでいくような思考に囚われた。
「……僕は、本当にこの子を助けたかっただけなのかな」
それとも。
この、肺が潰れそうなほどの耐え難い孤独から、一刻でもいいから逃れたかっただけなのだろうか。
誰かに必要とされたい。誰かと体温を分かち合いたい。その自分勝手な欲求を満たすために、本来なら大空を舞うべきこの自由な生き物を、塔という名の檻に無理やり引き止めてしまったのではないか。
窓の外は、すでに深い夜の帳が下りていた。
青白い月光に照らされた鴉の寝顔を見つめながら、僕は自分の心に巣食う醜いエゴイズムに、鋭い針で刺されたような小さな罪悪感を覚えた。
けれど。
冷え切った石造りの部屋の中で、隣に自分ではない「別の呼吸」があることが。
ただそれだけで、今夜の僕は、昨日までの自分よりもほんの少しだけ、強く地面を支えて立っていられるような気がしていた。
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