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第1章
第16話:境界を越えた共生
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戻ってきた鴉は、もはや窓の外へ去ろうとする素振りさえ見せなかった。
それどころか、僕が静まり返った書庫で医学書を広げていると、羽音も立てずに僕の肩へと舞い降りる。そして、まるで僕の理解を助けるかのように、賢しげな瞳で熱心に紙面を見つめ、時折僕の横顔を覗き込んでくるのだった。
僕は、鴉が命を懸けて運んできたであろうあの赤い実を、宝物のように丁寧に洗い、ナイフで半分に分けた。
この塔で支給される食事は、いつも凍てつくほどに冷たく、砂が混じったような土の味がする野菜や、石のように硬い黒パンばかりだ。けれど、この鳥が運んできた一粒の果実は、驚くほど瑞々しい芳香を放ち、僕の乾ききった心と体を芯から温めてくれた。
「美味しいね。……本当に、ありがとう」
僕が語りかけると、鴉は小さく首を傾げ、甘えるように僕の指先をそっと甘噛みした。
痛みなどない。ただ、そこに「自分以外の、自分を肯定してくれる命」があるという確かな熱量だけが、指先を通じて脳まで伝わってくる。
神が僕に与えたのは、逃れようのない絶望と、精神を削り取るような孤独だけだったはずだ。魔力を奪い、前世の名前というアイデンティティすら剥奪し、一生をこの石造りの檻で、無機質な資源として終えろと宣告した。けれど、この小さな命との魂の繋がりまでは、神でさえ奪いきれなかったのだ。
僕は、絹のように柔らかな羽の感触を指で確かめながら、ふと思った。
この鳥には、まだ名前がない。
安易に名前という「定義」を与えてしまえば、いよいよ執着が深まり、失うことが耐えられなくなる気がして、僕はその言葉を喉の奥に押し込んだ。今はただ、この静謐な時間を共有し、互いの鼓動を感じられるだけで十分だった。
「僕も、ただ終わりの時を待つだけじゃなくて……何か、できるかな」
この一羽の存在が、僕の奥底で凍りついていた「生きたい」という原始的な意志を、少しずつ、けれど地熱のように確実に呼び起こしていた。
魔力という力はない。結界のせいで一歩も外には出られない。けれど、この塔の中には先人たちが遺した膨大な「知」の深淵があり、そして今、僕のすぐ隣には、僕を求める温かい体温がある。
重い箒を振るう孤独な掃除。凍える水に手を浸す洗濯。そんな退屈で、指の節々を痛めるだけの過酷な日常も、この一羽が傍らにいるだけで、耐え難い拷問ではなくなった。
鴉は時折、僕が苦労して掃き集めた埃の山を悪戯に羽ばたきで散らし、干したばかりのシーツの端を突っついては、僕を困らせた。けれど、そんな些細で、他愛もないやり取りの一つひとつが、僕にとっては宝石のように輝く刺激だった。
夜が更け、鴉が僕の用意した寝床で安らかな眠りについた後、僕は再び医学書の頁を捲った。
以前ここにいた「誰か」が、その指を血に染めてまで書き記した、生への凄まじい執念。その意志のバトンを、今度は僕が受け継いでみようと思ったのだ。
僕は、掌に残る実の甘い香りと、隣で響く小さな寝息を抱きしめながら、もう少しだけ、この絶望の底で足掻いてみることに決めた。
いつか、この鳥にふさわしい、祝福に満ちた名前を贈れるくらい。僕がこの残酷な世界で、「レリル」としてではなく「僕」として生きていく自信を持てる、その日が来るまで。
それどころか、僕が静まり返った書庫で医学書を広げていると、羽音も立てずに僕の肩へと舞い降りる。そして、まるで僕の理解を助けるかのように、賢しげな瞳で熱心に紙面を見つめ、時折僕の横顔を覗き込んでくるのだった。
僕は、鴉が命を懸けて運んできたであろうあの赤い実を、宝物のように丁寧に洗い、ナイフで半分に分けた。
この塔で支給される食事は、いつも凍てつくほどに冷たく、砂が混じったような土の味がする野菜や、石のように硬い黒パンばかりだ。けれど、この鳥が運んできた一粒の果実は、驚くほど瑞々しい芳香を放ち、僕の乾ききった心と体を芯から温めてくれた。
「美味しいね。……本当に、ありがとう」
僕が語りかけると、鴉は小さく首を傾げ、甘えるように僕の指先をそっと甘噛みした。
痛みなどない。ただ、そこに「自分以外の、自分を肯定してくれる命」があるという確かな熱量だけが、指先を通じて脳まで伝わってくる。
神が僕に与えたのは、逃れようのない絶望と、精神を削り取るような孤独だけだったはずだ。魔力を奪い、前世の名前というアイデンティティすら剥奪し、一生をこの石造りの檻で、無機質な資源として終えろと宣告した。けれど、この小さな命との魂の繋がりまでは、神でさえ奪いきれなかったのだ。
僕は、絹のように柔らかな羽の感触を指で確かめながら、ふと思った。
この鳥には、まだ名前がない。
安易に名前という「定義」を与えてしまえば、いよいよ執着が深まり、失うことが耐えられなくなる気がして、僕はその言葉を喉の奥に押し込んだ。今はただ、この静謐な時間を共有し、互いの鼓動を感じられるだけで十分だった。
「僕も、ただ終わりの時を待つだけじゃなくて……何か、できるかな」
この一羽の存在が、僕の奥底で凍りついていた「生きたい」という原始的な意志を、少しずつ、けれど地熱のように確実に呼び起こしていた。
魔力という力はない。結界のせいで一歩も外には出られない。けれど、この塔の中には先人たちが遺した膨大な「知」の深淵があり、そして今、僕のすぐ隣には、僕を求める温かい体温がある。
重い箒を振るう孤独な掃除。凍える水に手を浸す洗濯。そんな退屈で、指の節々を痛めるだけの過酷な日常も、この一羽が傍らにいるだけで、耐え難い拷問ではなくなった。
鴉は時折、僕が苦労して掃き集めた埃の山を悪戯に羽ばたきで散らし、干したばかりのシーツの端を突っついては、僕を困らせた。けれど、そんな些細で、他愛もないやり取りの一つひとつが、僕にとっては宝石のように輝く刺激だった。
夜が更け、鴉が僕の用意した寝床で安らかな眠りについた後、僕は再び医学書の頁を捲った。
以前ここにいた「誰か」が、その指を血に染めてまで書き記した、生への凄まじい執念。その意志のバトンを、今度は僕が受け継いでみようと思ったのだ。
僕は、掌に残る実の甘い香りと、隣で響く小さな寝息を抱きしめながら、もう少しだけ、この絶望の底で足掻いてみることに決めた。
いつか、この鳥にふさわしい、祝福に満ちた名前を贈れるくらい。僕がこの残酷な世界で、「レリル」としてではなく「僕」として生きていく自信を持てる、その日が来るまで。
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