33 / 74
第1章
第32話:辺境伯の自問自答
しおりを挟む
塔での出来事が、己の想定を遥かに超えて胸の奥底を掻き乱している。執務室で書類を検分していても、演習場で部下を相手に大剣を振るっていても、ふとした瞬間にあの「レリル」の、全てを失ったような絶望の泣き顔が網膜の裏に鮮明に浮かび上がるのだ。
「……チッ、目障りな。実に目障りだ」
苛立ちと共に吐き捨てた言葉は、誰に届くこともなく虚空に消える。 あの大罪人レリルが、魔物に慈悲を乞うなどあり得ない。魔物はこの極北の安寧を脅かす「悪」であり、それを排除することに一点の曇りも迷いもないはずだった。だというのに、あの泥にまみれ、血を流しながらカラスを抱きしめていた男の姿を思い出すたび、俺の胸には名状しがたい、泥のように重く不快な感情が沈殿していく。
気づけば、翌日の昼下がり、俺は誰にも行き先を告げぬまま再び馬を走らせ、あの忌まわしい塔へと向かっていた。 あんな奴の様子など、徴収の日まで放置しておけばいい。だが、あの極限状態のまま死なれて、貴重な魔石の供給源を失っては困る――そんな、自分自身でも薄ら寒い嘘だと確信している理由を盾にして、俺は重い鉄扉を開けた。
一階へと降りてきたレリルの姿を視界に入れた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。 陽の光さえ透かしそうなほどに青白い顔、今にも崩れ落ちそうなほどに弱々しく、頼りない足取り。
あの日、あのカラスの看病に没頭するあまり、一睡もせず、喉を通る食事すらまともに取っていないことは、そのやつれきった容貌から容易に察しがついた。
「……昨日、首輪に魔力封じの術をちゃんとかけないまま、出てきてしまったことに気づいた。再調整が必要だ。こっちへ来い」
喉の奥まで出かかった「身体は大丈夫なのか」という、柄にもない案じの言葉を強引に飲み込み、代わりに出たのは、我ながら呆れるほど支離滅裂な言い訳だった。 魔力封じの首輪は、一度嵌めれば永続的に機能する術式だ。元・王宮筆頭魔導師であるレリルほどの男が、これほどまでに稚拙で初歩的な嘘を見抜けないはずがない。
だが、彼は力なく、消え入るような声で「よろしくお願いします」とだけ答え、驚くほど素直に俺に背を向けた。 一切の抵抗の意志を見せず、死を待つ生贄のように細い首筋を無防備に晒す。その、驚くほど白く、儚い「うなじ」が目前に現れた瞬間、俺の心臓は自分でも制御できないほど大きく跳ねた。
ドクン、という不愉快なほどに力強い鼓動に激しい困惑を覚えながら、俺は何も不具合など起きていない首輪に、震えそうになる手を伸ばした。
冷たい鉄の感触。
そして、そのすぐ下にある、熱に浮かされたように熱い、奴の肌。 魔法をかけるふりをして、俺はただ、その細い首元で指先を迷わせるしかなかった。
「……チッ、目障りな。実に目障りだ」
苛立ちと共に吐き捨てた言葉は、誰に届くこともなく虚空に消える。 あの大罪人レリルが、魔物に慈悲を乞うなどあり得ない。魔物はこの極北の安寧を脅かす「悪」であり、それを排除することに一点の曇りも迷いもないはずだった。だというのに、あの泥にまみれ、血を流しながらカラスを抱きしめていた男の姿を思い出すたび、俺の胸には名状しがたい、泥のように重く不快な感情が沈殿していく。
気づけば、翌日の昼下がり、俺は誰にも行き先を告げぬまま再び馬を走らせ、あの忌まわしい塔へと向かっていた。 あんな奴の様子など、徴収の日まで放置しておけばいい。だが、あの極限状態のまま死なれて、貴重な魔石の供給源を失っては困る――そんな、自分自身でも薄ら寒い嘘だと確信している理由を盾にして、俺は重い鉄扉を開けた。
一階へと降りてきたレリルの姿を視界に入れた瞬間、俺は思わず息を呑んだ。 陽の光さえ透かしそうなほどに青白い顔、今にも崩れ落ちそうなほどに弱々しく、頼りない足取り。
あの日、あのカラスの看病に没頭するあまり、一睡もせず、喉を通る食事すらまともに取っていないことは、そのやつれきった容貌から容易に察しがついた。
「……昨日、首輪に魔力封じの術をちゃんとかけないまま、出てきてしまったことに気づいた。再調整が必要だ。こっちへ来い」
喉の奥まで出かかった「身体は大丈夫なのか」という、柄にもない案じの言葉を強引に飲み込み、代わりに出たのは、我ながら呆れるほど支離滅裂な言い訳だった。 魔力封じの首輪は、一度嵌めれば永続的に機能する術式だ。元・王宮筆頭魔導師であるレリルほどの男が、これほどまでに稚拙で初歩的な嘘を見抜けないはずがない。
だが、彼は力なく、消え入るような声で「よろしくお願いします」とだけ答え、驚くほど素直に俺に背を向けた。 一切の抵抗の意志を見せず、死を待つ生贄のように細い首筋を無防備に晒す。その、驚くほど白く、儚い「うなじ」が目前に現れた瞬間、俺の心臓は自分でも制御できないほど大きく跳ねた。
ドクン、という不愉快なほどに力強い鼓動に激しい困惑を覚えながら、俺は何も不具合など起きていない首輪に、震えそうになる手を伸ばした。
冷たい鉄の感触。
そして、そのすぐ下にある、熱に浮かされたように熱い、奴の肌。 魔法をかけるふりをして、俺はただ、その細い首元で指先を迷わせるしかなかった。
1
あなたにおすすめの小説
お決まりの悪役令息は物語から消えることにします?
麻山おもと
BL
愛読していたblファンタジーものの漫画に転生した主人公は、最推しの悪役令息に転生する。今までとは打って変わって、誰にも興味を示さない主人公に周りが関心を向け始め、執着していく話を書くつもりです。
姉の聖女召喚に巻き込まれた無能で不要な弟ですが、ほんものの聖女はどうやら僕らしいです。気付いた時には二人の皇子に完全包囲されていました
彩矢
BL
20年ほど昔に書いたお話しです。いろいろと拙いですが、あたたかく見守っていただければ幸いです。
姉の聖女召喚に巻き込まれたサク。無実の罪を着せられ処刑される寸前第4王子、アルドリック殿下に助け出さる。臣籍降下したアルドリック殿下とともに不毛の辺境の地へと旅立つサク。奇跡をおこし、隣国の第2皇子、セドリック殿下から突然プロポーズされる。
悪役の僕 何故か愛される
いもち
BL
BLゲーム『恋と魔法と君と』に登場する悪役 セイン・ゴースティ
王子の魔力暴走によって火傷を負った直後に自身が悪役であったことを思い出す。
悪役にならないよう、攻略対象の王子や義弟に近寄らないようにしていたが、逆に構われてしまう。
そしてついにゲーム本編に突入してしまうが、主人公や他の攻略対象の様子もおかしくて…
ファンタジーラブコメBL
不定期更新
転生したら名家の次男になりましたが、俺は汚点らしいです
NEXTブレイブ
ファンタジー
ただの人間、野上良は名家であるグリモワール家の次男に転生したが、その次男には名家の人間でありながら、汚点であるが、兄、姉、母からは愛されていたが、父親からは嫌われていた
転生したけどやり直す前に終わった【加筆版】
リトルグラス
BL
人生を無気力に無意味に生きた、負け組男がナーロッパ的世界観に転生した。
転生モノ小説を読みながら「俺だってやり直せるなら、今度こそ頑張るのにな」と、思いながら最期を迎えた前世を思い出し「今度は人生を成功させる」と転生した男、アイザックは子供時代から努力を重ねた。
しかし、アイザックは成人の直前で家族を処刑され、平民落ちにされ、すべてを失った状態で追放された。
ろくなチートもなく、あるのは子供時代の努力の結果だけ。ともに追放された子ども達を抱えてアイザックは南の港町を目指す──
***
第11回BL小説大賞にエントリーするために修正と加筆を加え、作者のつぶやきは削除しました。(23'10'20)
**
【第一部・完結】毒を飲んだマリス~冷徹なふりして溺愛したい皇帝陛下と毒親育ちの転生人質王子が恋をした~
蛮野晩
BL
マリスは前世で毒親育ちなうえに不遇の最期を迎えた。
転生したらヘデルマリア王国の第一王子だったが、祖国は帝国に侵略されてしまう。
戦火のなかで帝国の皇帝陛下ヴェルハルトに出会う。
マリスは人質として帝国に赴いたが、そこで皇帝の弟(エヴァン・八歳)の世話役をすることになった。
皇帝ヴェルハルトは噂どおりの冷徹な男でマリスは人質として不遇な扱いを受けたが、――――じつは皇帝ヴェルハルトは戦火で出会ったマリスにすでにひと目惚れしていた!
しかもマリスが帝国に来てくれて内心大喜びだった!
ほんとうは溺愛したいが、溺愛しすぎはかっこよくない……。苦悩する皇帝ヴェルハルト。
皇帝陛下のラブコメと人質王子のシリアスがぶつかりあう。ラブコメvsシリアスのハッピーエンドです。
俺の婚約者は悪役令息ですか?
SEKISUI
BL
結婚まで後1年
女性が好きで何とか婚約破棄したい子爵家のウルフロ一レン
ウルフローレンをこよなく愛する婚約者
ウルフローレンを好き好ぎて24時間一緒に居たい
そんな婚約者に振り回されるウルフローレンは突っ込みが止まらない
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる