虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

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第2章

第56話:決裂の予感

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 塔の中に流れるあの清廉で、どこか非現実的なほどに穏やかな時間は、一歩外の世界へ踏み出せば、春を待たずに溶け去る薄氷のように儚く消え去ってしまう。 

 数日ぶりに、本来の居城である辺境伯の館へと戻った俺を迎えたのは、かつての絶対的な信頼と忠誠に基づいた規律などではなく、喉の奥に張り付くような、澱のように重苦しく不快な殺気を含んだ沈黙だった。

 冷たい石造りの回廊ですれ違う使用人たちは、以前よりも深く、慇懃無礼なほどに深く頭を下げる。だが、その背筋の不自然な強張りや、伏せられた瞳の奥に隠しきれない異物を見るような怯え、そして俺が通り過ぎた瞬間に交わされる密やかな囁きが、冷えた毒のように俺の背中に突き刺さる。 

 重厚なオーク材の執務室の扉を開ければ、そこには俺の帰還を今か今かと待ち構えていたかのように、領の魔物討伐隊を束ねる討伐隊長のバルトと、老執事のクロードが、越えさせぬ壁のように厳然と立ちふさがっていた。

「……何の用だ。報告なら後回しにしろと、あらかじめ伝えてあったはずだ。俺は今、非常に疲れている」

 俺が突き放すように言い放っても、彼らは一歩も引こうとはしなかった。

「閣下、これ以上は……これ以上はもう、看過できません。どうか目を覚ましてください! あの忌まわしき塔へ、憑かれたように通い詰められるのは、今すぐにお止めください!」

 クロードの、震える声を絞り出すような必死の諫言に、俺は手にしていた羽ペンを机に叩きつけるように置いた。

「管理責任だ。何度も同じことを言わせるな。あの男は危険な魔法使いであり、その動向を領主自ら監視するのは、この地を預かる者として当然の義務だ」

「……『管理責任』、ですか。その言葉を本気で信じろと仰るのですか、閣下」

 一歩前へ踏み出したのは、討伐隊長のバルトだった。数多の魔物と死線を潜り抜け、その身に刻まれた無数の傷跡を誇りとしてきた彼の武骨な手は、今、主君への怒りと憤りで剣の柄を白くなるほどに握りしめている。

「管理責任という名目で、閣下自ら夜具を運び、極上の食事を与え、夜な夜な添い寝までされるというのですか! 館の連中や領民たちは皆、優しき閣下があの邪悪な魔法使いに、精神を操る禁忌の呪いをかけられたのだと、本気で戦慄しているのだ! 閣下の高潔な魂が、あの化け物に食い尽くされて手遅れになる前に、あ奴の首を今すぐここで跳ね飛ばし、国に納めるべき『資源』としての魔石だけを、その薄汚い肉体から引きずり出すべきだ!」

「…………黙れ。それ以上、その口を開くな」

 俺の口から漏れ出た声は、自分でも驚くほど低く、すべてを凍てつかせるほどに冷酷で、鋭利な氷の刃そのものだった。

 レリルの首を跳ねるだと? 
 あの、温かなスープを一口飲むたびに、消え入りそうな灯火のように儚げに笑うあの男をか。 
 魔力を根こそぎ奪われる苦痛に苛まれ、涙を流して子供のように俺の胸に縋り付いてきた、あの指先一つで折れてしまいそうなほどに細く、温かな体を……。 
 ただの魔力源、温度も意志も持たない、冷え切った無機質な「魔石」という塊に変えろというのか。

「二度と、その汚らわしい言葉を俺の前で口にするな。……レリルの管理、そしてその命の行方は、すべてこの俺が掌握している。奴に、指一本でも不当に触れようとする者は、たとえ誰であろうとも、このストルムベルクへの、そして俺個人への明白な反逆と見なし、俺が直接この剣で裁きを下す。ゆめゆめ、忘れるな」

「閣下! 本気で、正気で仰っているのですか……ッ!」

 激昂し、顔を赤黒く染めて愕然とする彼らを、冷淡な一瞥と共にその場に残したまま、俺は叩きつけるような轟音を響かせて執務室の重い扉を閉めた。

 廊下に出ても、全身の震えが止まらない。怒りに任せて強く握りしめた拳には、爪が手のひらの肉に深く食い込み、鋭い痛みが奔っていた。 

 俺がこの命を賭して守りたいと願うものは、もはやこの地の安寧や、騎士としての輝かしい名誉だけではない。 

 あの閉ざされた塔の最上階で、俺の訪れだけを孤独に待ち続けている、脆くて、今にも消え入りそうな灯火を抱えた一人の、愛おしい男なのだ。

 だが、俺が奴を愛惜し、守ろうと庇えば庇うほどに、周囲に渦巻く黒い憎悪は出口を失い、ますます鋭くレリル一点へと収束していく。 

 自分の守ろうとする行動そのものが、皮肉にも彼を死の絶壁へと追い詰めてしまうという、逃れようのない地獄のような焦燥感が、俺の心臓をじりじりと、音を立てて焼き焦がしていた。
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