虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

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第2章

第55話:不穏なさざめき

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 館の石壁に染み付いた冷気は、もはや冬のせいだけではなかった。日を追うごとに刺々しく変質していく空気。主であるヨハンが公務を最低限に切り上げ、あの忌まわしい塔へと吸い込まれるように消えていくたび、館に残された者たちの心には、どす黒い不信の澱が溜まっていく。

 かつての厳格で機能的だった規律は、いまや見えない不安と、行き場のない静かな怒りによって、内側からじわじわと蝕まれていた。

「……今日も、領主様は戻られないのか」

 夕食の刻限。主人のいない、広大で虚しいほどに長いテーブルの末端で、老執事クロードが絞り出すように呟いた。その背後に石像のように控える若い騎士たちは、互いに険しい目配せを交わし、拳が白くなるほど剣の柄を握りしめている。 彼らにとって、ヨハン・ストルムベルクは北の大地を護る気高き英雄であり、絶対的な守護神だ。その英雄を「骨抜き」にし、神聖なる館から遠ざけている魔法使いレリルの存在。それはもはや、主君の魂を絡め取る淫らで邪悪な、悪魔の化り物として定義されていた。

「あの塔には、人を狂わせ、正気を奪う禁忌の香焚きでもあるのではないか。……でなければ、あの潔癖で誇り高い領主様が、あのような国を売った極悪人と夜を共にし、あまつさえ慈しむような真似をするはずがない」 
「ああ、呪いだ。間違いなく、異端の呪術だよ。領主様の尊い魂が、あの化け物に食い尽くされて手遅れになる前に、我ら忠義の士が何とかしなければ……」

 使用人たちの間で毒のように囁かれていた不信感は、いつしか、具体的な「排除」の形を帯び始めていた。 彼らにとって、それは裏切りではなく、主君を救い出すための聖なる正義だった。かつてレリルがこの地に降らせた血の雨を知る者ほど、その正義感は独善的に歪み、復讐心と混ざり合って鋭く研ぎ澄まされていく。

 一方、その頃。 そんな外の世界で吹き荒れる憎悪の嵐を、予感すらさせないほど、塔の二階には静謐で、どこか非現実的なほどに優しい時間が流れていた。

「ヨハン様……夜はさらに冷えるので、これを。お体に障ります」

 レリルが少し照れたように、けれど甲斐甲斐しく差し出したのは、ヨハンのためだけに丁寧に淹れられた温かいハーブティーだった。ヨハンはそれを黙って受け取り、指先が触れ合う刹那、愛おしさを抑えきれない様子で、レリルの透き通るような細い指を指腹でそっとなぞる。

 外の世界が、自分たちを「呪われた領主と魔女」としてどう見ているか。ヨハンには痛いほど分かっていた。分かっていたからこそ、彼は外敵を拒むように、より深く、より盲目的に、この狭く温かな塔の世界へと沈み込んでいったのだ。

 だが、鋼鉄で閉ざされた扉の外では。 

「囚われの主君」を救い出し、癌細胞である「魔法使い」を摘出しようとする者たちの、氷のように冷たい殺意が、着実に、確実にその足音を近づけていた。
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