虚ろな檻と翡翠の魔石

篠雨

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第2章

第57話:見えない火種

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 ヨハンが山積した館の公務を処理するために戻り、この古びた塔の最上階には、僕とレイブンの二人だけが取り残された。 

 ほんの数ヶ月前まで、これが僕の世界のすべてであり、誰にも邪魔されない当たり前の光景だったはずなのに。今はヨハンの存在しない空間が、耐え難いほどに広く、そして骨の芯まで凍てつかせるほどに冷たく感じられてしまう。

「……ねぇ、レイブン。ヨハン様は、次はいつきてくれるかな。今日はなんだか、いつもより空気が重い気がするんだ」

 僕の不安を敏感に察したのか、肩に止まったレイブンは、喉の奥で小さく鳴いて僕の頬を優しく突き、慰めるように羽を震わせた。 

 何かに急かされるように窓の外を見下ろすと、そこには見慣れた静寂とは似ても似つかぬ、異様な光景が広がっていた。いつもならヨハンが連れてくる、規律正しい数人の護衛とは明らかに様子が違う。 

 数人の男たちが、雪に埋もれた塔の周囲を囲むように立ち尽くしている。彼らは塔の中を窺うわけでも、見張るわけでもなく――ただ、氷のように冷たい、剥き出しの殺意を孕んだ視線を、僕が閉じ込められているこの古びた石壁に向けていたのだ。

(……気のせい、だよね? 疲れのせいで、僕が過敏になっているだけだよね……?)

 胸の奥が、嫌な音を立ててざわつく。 

 僕は震える手で窓のカーテンをそっと閉め、外の世界を遮断した。理由のない、けれど確信に近い不安が、冷たい汗となって背中を伝っていく。

 日が落ち、夕刻の深い闇が塔を包み込んだ頃、ようやく重厚な扉が開いた。 

 現れたヨハンの姿を認めた瞬間、僕は弾かれたように駆け寄りそうになったが、彼の顔を間近で見た刹那、氷を投げつけられたように足を止めてしまった。 

 以前の彼なら、僕の顔を見ればわずかに和らいでいたはずの表情が、今は岩のように険しく固く閉ざされている。その双眸には、底の見えない深い疲労と、己の心臓を抉るような何かに耐え忍ぶ、凄絶なまでの苦悶が滲んでいた。

「……ヨハン様、顔色が、ひどく悪いですよ? すぐに温かいお茶を淹れますね。今日は特別な茶葉を少しだけ使って……」

 僕は自分の声の震えを隠すように、努めて明るく振る舞いながら、彼の手から雪の湿り気を帯びた厚手のマントを受け取った。ヨハンは一瞬、何かに打たれたような驚きを含んだ目で僕を凝視したが、やがて糸が切れたように力なく椅子に身を沈めた。

「……レリル。貴殿は、ここから……外に出たいとは、一度も思わないのか。この狭く、光の乏しい塔以外の場所へ」

 ぽつりと、掠れた声でヨハンが呟いた。その唐突すぎる問いに、僕は淹れようとしていた茶葉の手を止める。

「外、ですか。……いいえ。今の僕には、その必要はありません。ここにこうして、ヨハンが来てくれて、隣にレイブンがいてくれる。それだけで……今の僕は、十分に幸せなんです」

 それは、記憶を失い、一人の人間として彼に見出された今の僕の、一片の曇りもない本心だった。 

 けれど、僕がそう答えた瞬間、ヨハンはなぜかさらに悲痛な、今にも泣き出しそうなほど歪んだ表情を浮かべた。彼は椅子から身を乗り出すと、僕の細い手を、折れんばかりの力で痛いほどに強く握りしめた。

「……何があっても。この身がどうなろうとも、貴殿だけは、俺が命に代えても守り抜く。……レリル、それだけは、それだけは信じてくれ」

 彼の切実すぎる、まるで遺言のような言葉の重みが、かえって取り返しのつかない嵐の接近を確信させた。 

 僕の知らない、光の届かない場所で、何かが致命的に壊れ、狂い始めている。 

 僕を包み込むヨハンの大きな掌の温もりを必死に感じ取ろうとしながらも、僕の心の最奥には、決して消えることのない、昏く冷たい破滅の予感が深く根を張っていた。
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