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翌晩。
月が静かに空を照らし、王都の南の庭園は白銀の光に包まれていた。
冬の気配を含んだ夜風が髪を揺らし、私の外套の裾をひらひらと揺らす。
……約束の時間より、少し早く着いた。
辺りにはまだ誰の姿もない。
夜の庭園は、人の気配がない分、どこか懐かしいような寂しさがあった。
あの頃――。
アルフレッドと婚約していた頃、彼に連れられてこの場所を何度も訪れた。
花の香りを「君に似ている」と微笑んでくれたのも、ここだった。
けれど今、その言葉を思い出しても、胸は少しも痛まない。
代わりにあるのは、冷たい静けさと、わずかな決意だけ。
「……あの時の私とは違うのよ」
自分に言い聞かせるように呟いたとき――。
足音がした。
整った革靴の音。落ち着いたリズム。
その音を、私は知っている。
「……来てくれたんだな」
月明かりの中に現れたのは、アルフレッド。
少し痩せたようにも見える。けれど、その眼差しは真剣で、いつもの余裕は欠片もなかった。
「手紙を読んだわ。伝えたいことがあるって――何?」
「……君に、謝りたかった」
その言葉に、一瞬、呼吸が止まった。
まさか彼の口から“謝罪”が出てくるとは思わなかった。
あの日、私を突き放したときの彼は、どこまでも冷たく、非情だったから。
「謝る? 今さら?」
「今さらだってわかってる。でも……あの時、俺は、君を守りたかったんだ」
「守る? またその言い訳?」
思わず声が強くなる。
彼は俯いたまま、拳を握りしめた。
「リリアン……俺の家は、王国でも古くから続く侯爵家だ。あの時、父上が――お前の研究の噂を聞いて激怒した。“魔導器など、まやかしだ。そんな危険なものに関わる娘を嫁に迎えるな”と」
「……それで、“釣り合わない”って?」
「そう言えば、お前が傷ついて離れてくれると思った。……でも、本当は、俺のほうが怖かったんだ」
アルフレッドは顔を上げた。
その瞳には、焦りと後悔が混ざっていた。
「お前が俺よりも高く飛んでいくのが、怖かった。貴族の枠に収まらない、お前の才能が……眩しかった。
――俺のほうこそ、君に釣り合わなかったんだ」
「…………」
その言葉を聞いても、心は動かなかった。
ただ、少しだけ――哀れに思った。
「あなたが何を怖がっていたかなんて、もうどうでもいいの。私が欲しかったのは、“理由”じゃなくて“信じてくれる心”だったのよ」
アルフレッドが息を呑む。
けれど私はもう、過去には戻らない。
「もう遅いの。私は、レオン殿下とともにアステリアへ行くわ」
「……っ! 本気か?」
「ええ。本気よ」
「……彼に恋をしているのか?」
その問いに、私はわずかに目を見開いた。
けれど、すぐに微笑んだ。
「恋かどうかは、まだわからないわ。でも――彼は私を“否定しない”。それだけで十分よ」
「……リリアン……」
アルフレッドが一歩、近づく。
私は自然と後ずさった。
けれど、彼はさらに歩み寄り、私の手を取ろうとした――その瞬間。
「おや、夜の密会とは優雅ですね、グレイス侯」
冷たい声が、闇の向こうから響いた。
振り向くと、月明かりの中に立つ影――レオン殿下。
「……殿下……」
「彼がしつこく君の屋敷の周囲をうろついていると聞いたので、少し気になってね。……まさか、呼び出されていたとは」
その声には、穏やかさの裏に鋭い棘があった。
アルフレッドが僅かに顔を歪める。
「殿下、これは誤解だ。俺はただ――」
「“釣り合わない”と言い放った相手に、今さら何を伝えるつもりだったのです? 嫉妬か、後悔か。どちらにせよ、見苦しいですよ」
その言葉に、アルフレッドの肩が震えた。
私は思わず、息を飲む。
レオン殿下の目は、いつもの柔らかさを失っていた。
まるで氷のように冷たい。
「殿下……おやめください。彼にも事情が――」
「リリアン。あなたは優しすぎる」
レオンはゆっくりと近づき、私の肩を包むように手を置いた。
その仕草が、まるで宣言のようだった。
「この男は、君を傷つけた。それを“事情”で済ませるべきではない」
「俺は……俺は、彼女を守りたかっただけだ!」
「守る? 笑わせるな。君が守ったのは、自分の体面だけだろう」
レオン殿下の声が低く響き、空気がぴんと張りつめた。
アルフレッドが唇を噛む。
沈黙の中で、私は自分の心が不思議と落ち着いているのを感じていた。
昔なら、この場面で私が間に入って庇っていたかもしれない。
でも今は違う。
どちらの言葉も、もう私を縛るものではなかった。
夜会の翌日、私は王宮に呼び出された。
レオン殿下が正式に、私をアステリア王立魔導研究院へ招く旨を王家に申し出たのだ。
それは王都中を騒がせる大事件となった。
「王子が他国の令嬢を直接スカウト!?」
「グレイス侯爵家の元婚約者ですって! ざまぁじゃない?」
「あんなに冷たく振ったのに、今さら顔を出すなんて……」
噂は風よりも速く広がった。
私の耳にもいくつか届いたが、特に何も感じなかった。
ただ、心の奥で静かに――「これでよかった」と思っていた。
王宮の一室で、レオン殿下と向かい合う。
彼はいつも通り穏やかな笑みを浮かべていたが、どこかに“独占欲”のようなものを感じた。
「君を研究院に迎える許可が、正式に下りました。おめでとう、リリアン」
「ありがとうございます、殿下……いえ、レオン様」
口にした瞬間、彼の目が少しだけ柔らかくなる。
「君がその呼び方をしてくれるとは思わなかった」
「あなたが、そう呼んでほしい顔をしていましたから」
そう言うと、レオンは小さく笑った。
その笑みが、胸の奥をくすぐるように温かい。
「……アルフレッド侯とは、もう会うつもりは?」
「ありません。彼は過去の人です。私はもう、前を見て歩きたい」
「それなら、よかった」
レオンは立ち上がると、そっと私の手を取った。
その指先は、驚くほど優しく、温もりが伝わる。
「リリアン。君は強い。でも、人は強さだけで生きていけない。……もし君が疲れた時は、俺を頼ってほしい」
「……そんなこと、言われたら……」
胸が高鳴る。
けれど、その音を悟られまいと微笑む。
「私、弱音なんて滅多に吐きませんよ?」
「なら、吐けるようにしてみせるさ」
その言葉が、心の奥まで届いた瞬間――。
扉の外から、控えの者が駆け込んできた。
「レオン殿下! 報告が! グレイス侯爵家のアルフレッド様が――陛下の前で、リリアン様の件について正式に異議を申し立てております!」
「……異議?」
「“リリアン嬢はまだ自国の貴族であり、他国の手に渡すことは許されない”と……!」
「……また、か」
レオン殿下の笑みが、すっと消えた。
その横で、私はただ立ち尽くす。
まさか、彼がそこまで――。
「……いいわ。なら、はっきりさせましょう。私が、誰の庇護にもいらないってことを」
私の言葉に、レオンが驚いたようにこちらを見た。
けれど、すぐに微笑む。
「……君らしい答えだね。なら、一緒に行こう。堂々と、彼の前で証明するんだ。――君が、もう“誰よりも強い”ってことを」
王の謁見の間。
煌びやかな赤い絨毯の上で、私は静かに立っていた。
向かいにはアルフレッド。
その後ろには父侯爵、そして貴族たちが並んでいる。
「リリアン・ウィンスレット。貴殿は、アステリア王国へ渡る意思があると聞く。――それは真か?」
国王の声が響く。
私は迷わず答えた。
「はい、陛下。私は研究者として、アステリアの研究院に籍を置きたいと望んでおります」
「だが、君はグレイス侯爵家の元婚約者。家同士の関係を無視するのは――」
「関係など、もう終わりました」
静かに言い切ると、場がざわめいた。
アルフレッドが一歩前に出る。
「陛下、彼女は感情に流されているだけです! 私はまだ、彼女を――」
「“釣り合わない”って言ったのは、そっちでしょ?」
私は静かに、けれど確実に言葉を重ねた。
その瞬間、アルフレッドが息を呑む。
貴族たちの視線が、一斉に彼へと向いた。
「私を捨てたのは、あなた。だから今さら、“取り戻す”なんて言葉を口にする資格はないわ」
会場に、静寂が落ちた。
そして、ゆっくりとレオン殿下が歩み出る。
「陛下。彼女の意思は明確です。どうか、彼女をこの場で束縛しないでください。彼女は“自分の力で未来を掴もうとしている”」
その言葉が、謁見の間に響いた瞬間――。
王の瞳が、わずかに柔らかくなった。
「……よかろう。リリアン・ウィンスレット。お前の旅立ちを認める。誇りを忘れるな」
「ありがとうございます、陛下」
私は深く頭を下げた。
そして、顔を上げた瞬間――アルフレッドと目が合った。
その瞳は、痛みと後悔に満ちていた。
けれど、私はもう微笑むことしかできなかった。
「……さようなら、アルフレッド様。私を軽んじた代償は、これからゆっくり感じて」
月が静かに空を照らし、王都の南の庭園は白銀の光に包まれていた。
冬の気配を含んだ夜風が髪を揺らし、私の外套の裾をひらひらと揺らす。
……約束の時間より、少し早く着いた。
辺りにはまだ誰の姿もない。
夜の庭園は、人の気配がない分、どこか懐かしいような寂しさがあった。
あの頃――。
アルフレッドと婚約していた頃、彼に連れられてこの場所を何度も訪れた。
花の香りを「君に似ている」と微笑んでくれたのも、ここだった。
けれど今、その言葉を思い出しても、胸は少しも痛まない。
代わりにあるのは、冷たい静けさと、わずかな決意だけ。
「……あの時の私とは違うのよ」
自分に言い聞かせるように呟いたとき――。
足音がした。
整った革靴の音。落ち着いたリズム。
その音を、私は知っている。
「……来てくれたんだな」
月明かりの中に現れたのは、アルフレッド。
少し痩せたようにも見える。けれど、その眼差しは真剣で、いつもの余裕は欠片もなかった。
「手紙を読んだわ。伝えたいことがあるって――何?」
「……君に、謝りたかった」
その言葉に、一瞬、呼吸が止まった。
まさか彼の口から“謝罪”が出てくるとは思わなかった。
あの日、私を突き放したときの彼は、どこまでも冷たく、非情だったから。
「謝る? 今さら?」
「今さらだってわかってる。でも……あの時、俺は、君を守りたかったんだ」
「守る? またその言い訳?」
思わず声が強くなる。
彼は俯いたまま、拳を握りしめた。
「リリアン……俺の家は、王国でも古くから続く侯爵家だ。あの時、父上が――お前の研究の噂を聞いて激怒した。“魔導器など、まやかしだ。そんな危険なものに関わる娘を嫁に迎えるな”と」
「……それで、“釣り合わない”って?」
「そう言えば、お前が傷ついて離れてくれると思った。……でも、本当は、俺のほうが怖かったんだ」
アルフレッドは顔を上げた。
その瞳には、焦りと後悔が混ざっていた。
「お前が俺よりも高く飛んでいくのが、怖かった。貴族の枠に収まらない、お前の才能が……眩しかった。
――俺のほうこそ、君に釣り合わなかったんだ」
「…………」
その言葉を聞いても、心は動かなかった。
ただ、少しだけ――哀れに思った。
「あなたが何を怖がっていたかなんて、もうどうでもいいの。私が欲しかったのは、“理由”じゃなくて“信じてくれる心”だったのよ」
アルフレッドが息を呑む。
けれど私はもう、過去には戻らない。
「もう遅いの。私は、レオン殿下とともにアステリアへ行くわ」
「……っ! 本気か?」
「ええ。本気よ」
「……彼に恋をしているのか?」
その問いに、私はわずかに目を見開いた。
けれど、すぐに微笑んだ。
「恋かどうかは、まだわからないわ。でも――彼は私を“否定しない”。それだけで十分よ」
「……リリアン……」
アルフレッドが一歩、近づく。
私は自然と後ずさった。
けれど、彼はさらに歩み寄り、私の手を取ろうとした――その瞬間。
「おや、夜の密会とは優雅ですね、グレイス侯」
冷たい声が、闇の向こうから響いた。
振り向くと、月明かりの中に立つ影――レオン殿下。
「……殿下……」
「彼がしつこく君の屋敷の周囲をうろついていると聞いたので、少し気になってね。……まさか、呼び出されていたとは」
その声には、穏やかさの裏に鋭い棘があった。
アルフレッドが僅かに顔を歪める。
「殿下、これは誤解だ。俺はただ――」
「“釣り合わない”と言い放った相手に、今さら何を伝えるつもりだったのです? 嫉妬か、後悔か。どちらにせよ、見苦しいですよ」
その言葉に、アルフレッドの肩が震えた。
私は思わず、息を飲む。
レオン殿下の目は、いつもの柔らかさを失っていた。
まるで氷のように冷たい。
「殿下……おやめください。彼にも事情が――」
「リリアン。あなたは優しすぎる」
レオンはゆっくりと近づき、私の肩を包むように手を置いた。
その仕草が、まるで宣言のようだった。
「この男は、君を傷つけた。それを“事情”で済ませるべきではない」
「俺は……俺は、彼女を守りたかっただけだ!」
「守る? 笑わせるな。君が守ったのは、自分の体面だけだろう」
レオン殿下の声が低く響き、空気がぴんと張りつめた。
アルフレッドが唇を噛む。
沈黙の中で、私は自分の心が不思議と落ち着いているのを感じていた。
昔なら、この場面で私が間に入って庇っていたかもしれない。
でも今は違う。
どちらの言葉も、もう私を縛るものではなかった。
夜会の翌日、私は王宮に呼び出された。
レオン殿下が正式に、私をアステリア王立魔導研究院へ招く旨を王家に申し出たのだ。
それは王都中を騒がせる大事件となった。
「王子が他国の令嬢を直接スカウト!?」
「グレイス侯爵家の元婚約者ですって! ざまぁじゃない?」
「あんなに冷たく振ったのに、今さら顔を出すなんて……」
噂は風よりも速く広がった。
私の耳にもいくつか届いたが、特に何も感じなかった。
ただ、心の奥で静かに――「これでよかった」と思っていた。
王宮の一室で、レオン殿下と向かい合う。
彼はいつも通り穏やかな笑みを浮かべていたが、どこかに“独占欲”のようなものを感じた。
「君を研究院に迎える許可が、正式に下りました。おめでとう、リリアン」
「ありがとうございます、殿下……いえ、レオン様」
口にした瞬間、彼の目が少しだけ柔らかくなる。
「君がその呼び方をしてくれるとは思わなかった」
「あなたが、そう呼んでほしい顔をしていましたから」
そう言うと、レオンは小さく笑った。
その笑みが、胸の奥をくすぐるように温かい。
「……アルフレッド侯とは、もう会うつもりは?」
「ありません。彼は過去の人です。私はもう、前を見て歩きたい」
「それなら、よかった」
レオンは立ち上がると、そっと私の手を取った。
その指先は、驚くほど優しく、温もりが伝わる。
「リリアン。君は強い。でも、人は強さだけで生きていけない。……もし君が疲れた時は、俺を頼ってほしい」
「……そんなこと、言われたら……」
胸が高鳴る。
けれど、その音を悟られまいと微笑む。
「私、弱音なんて滅多に吐きませんよ?」
「なら、吐けるようにしてみせるさ」
その言葉が、心の奥まで届いた瞬間――。
扉の外から、控えの者が駆け込んできた。
「レオン殿下! 報告が! グレイス侯爵家のアルフレッド様が――陛下の前で、リリアン様の件について正式に異議を申し立てております!」
「……異議?」
「“リリアン嬢はまだ自国の貴族であり、他国の手に渡すことは許されない”と……!」
「……また、か」
レオン殿下の笑みが、すっと消えた。
その横で、私はただ立ち尽くす。
まさか、彼がそこまで――。
「……いいわ。なら、はっきりさせましょう。私が、誰の庇護にもいらないってことを」
私の言葉に、レオンが驚いたようにこちらを見た。
けれど、すぐに微笑む。
「……君らしい答えだね。なら、一緒に行こう。堂々と、彼の前で証明するんだ。――君が、もう“誰よりも強い”ってことを」
王の謁見の間。
煌びやかな赤い絨毯の上で、私は静かに立っていた。
向かいにはアルフレッド。
その後ろには父侯爵、そして貴族たちが並んでいる。
「リリアン・ウィンスレット。貴殿は、アステリア王国へ渡る意思があると聞く。――それは真か?」
国王の声が響く。
私は迷わず答えた。
「はい、陛下。私は研究者として、アステリアの研究院に籍を置きたいと望んでおります」
「だが、君はグレイス侯爵家の元婚約者。家同士の関係を無視するのは――」
「関係など、もう終わりました」
静かに言い切ると、場がざわめいた。
アルフレッドが一歩前に出る。
「陛下、彼女は感情に流されているだけです! 私はまだ、彼女を――」
「“釣り合わない”って言ったのは、そっちでしょ?」
私は静かに、けれど確実に言葉を重ねた。
その瞬間、アルフレッドが息を呑む。
貴族たちの視線が、一斉に彼へと向いた。
「私を捨てたのは、あなた。だから今さら、“取り戻す”なんて言葉を口にする資格はないわ」
会場に、静寂が落ちた。
そして、ゆっくりとレオン殿下が歩み出る。
「陛下。彼女の意思は明確です。どうか、彼女をこの場で束縛しないでください。彼女は“自分の力で未来を掴もうとしている”」
その言葉が、謁見の間に響いた瞬間――。
王の瞳が、わずかに柔らかくなった。
「……よかろう。リリアン・ウィンスレット。お前の旅立ちを認める。誇りを忘れるな」
「ありがとうございます、陛下」
私は深く頭を下げた。
そして、顔を上げた瞬間――アルフレッドと目が合った。
その瞳は、痛みと後悔に満ちていた。
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