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【第3部】13章 切り裂く刃
18話 天に吐いた、唾が
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「大変申し訳ないのですが、ベルナデッタ・サンチェス嬢との婚約を破棄させていただきたい」
「なっ……!?」
司祭イリアスが去って数日後。
婚約者のデニス・オスヴァルト様とその両親、オスヴァルト伯夫妻が先触れなくやってきた。
突然のことに驚きながらも応接に招いたが、案内されソファに座るやいなやデニス様が開口一番そう告げてきた。
「ど、どういうことですの!? 突然そんな……」
「こちらの都合ですので、もちろん手続き等々こちらでいたしますし、違約金はお支払いいたします」
「都合ですって!? 娘に何の不満があるというの!」
「…………」
いきり立っているのは母だけ。父は相変わらず何も言わない。
あたしも……何の都合か知らないけれど、正直願ってもない申し出だ。
けど、一体何があったのだろう。
もしこれが流行りの物語なら、デニス様に思い人ができて、あたしはその思い人をいじめる悪役令嬢。
そして何かのパーティーで断罪からの婚約破棄、最後には僻地へと追放――なんてところだけれど。
「いいえ、ベルナデッタ嬢は可愛らしく愛嬌のあるお嬢様です、彼女には何の咎もありません。それに私自身が心移りしたわけでもありません」
(ちがうんだ……)
あたしが聖女に選ばれて――といってもまだ候補レベルだけれど――だから、5年も待っていられない……とかそういう事情でもないようだ。
あたしには何の咎もないと言った。
それなら一体、何の……?
デニス様が言いにくそうに口をつぐみ、咳払いをする。
そんな彼の様子を見て次に口を開いたのは、オスヴァルト伯――彼の父上だった。
「誠に申し上げにくいのですが……」
「何なのです!? 言いたいことははっきりおっしゃって下さい! 婚約破棄だなんて周囲に知れ渡ったら、娘がこの先どんな目で見られるか! ……いくら由緒正しい名家といえど、やっていいことと悪いことが――」
「貴女です、ルイーザ様」
「は……?」
口の中に罵倒の言葉を山ほど用意していたであろう母は、思ってもない返答に虚を衝かれて一瞬沈黙する。
けれど、こんなことでずっと黙っていられる人ではない……。
「……おっしゃる意味が分かりませんわね。私が一体何だというのです? ……先ほどデニス様が『心変わりなどではない』とおっしゃっていましたけれど、実際はそうなのではありません? それをこちらに原因があるかのように言って、そんな無礼が許され……」
「それです。貴女が無礼だからですよ」
「は……?」
「数日前、我々の屋敷に司祭イリアス様が来られました。息子の婚約者のベルナデッタ嬢を聖女に推薦しましたという挨拶と、そしてお詫びをしに来た、とのことでした」
「…………」
(イリアスが、デニス様の屋敷に……?)
なぜだろうと考える間もなく、オスヴァルト伯の言葉が続く。
「イリアス様は、サンチェス伯領はとてもいい所だとおっしゃっていましたよ。『帰り際、ブドウが好きだと聞いた夫人から良い酒も頂きました』……なんて、笑顔で、この酒を! ……見せてくれましたよ!」
「!!」
「この酒を」の言葉とともに、オスヴァルト伯がテーブルに勢いよく酒瓶を置いた。
「な、そ、それは……!」
父が珍しく大声を出しながら身を乗り出す。
テーブルに置かれた酒は、"カラスの黒海"。
「イリアス様……ノルデンの方にこれを渡す。その意味をご存知で、これを渡されたのですか?」
「ルイーザ! お前、こんなものを……」
「何よ! だってあの人、私にいちいちダメ出しするんだもの! 若いくせに司祭だからって調子に乗って……」
「え……」
――ダメ出し? もしかして、母が領地を蔑むのをたしなめたことを言っているの?
その腹いせにあんなものをわざわざ?
……そんな、そんな……。
「……だからちょっと身の程を分からせてやるつもりで――」
言葉の続きは、パシンという音とともに強制的に中断された。
父が母の頬を思い切り打ったのだ。
「痛っ……何をするの! レディを打つなんて……」
「黙れ!! お前がそこまで馬鹿だとは思わなかった!!」
「ヒッ……! 何よ! 私がカラスにカラスの飲み物をあげたのと、ベルの婚約破棄と何が関係あるのよっ!?」
父に怒鳴られたのは初めてなのか、母が目に涙を溜めながら叫んだ。
「ルイーザ様……貴女、恥という概念がありませんの?」
オスヴァルト伯夫人が、蔑むような目線を母に向けながら冷たく吐き捨てる。
あまり会うことはなかったけれど、夫人はいつも朗らかで優しい人だった。
だけど今、彼女からは怒りと侮蔑の意志しか感じられない。
そんな夫人を、母が思いきり睨み返した。
『意味なく一方的に罵倒をしてくる奴は、大抵相手が自分より馬鹿で弱く、絶対に逆らうことはないと思っている。反抗も反論も無意味……逆に愚かだと嘲笑されて終わる。だが、反撃には弱い。そして反撃されれば一転、誰よりも弱い被害者の顔をして喚き散らす。奴らはいつも正義の勝利者だ』
――すごいわね。
隊長、あたしの母と会ったことでもあるのかしら? って、感心してる場合じゃないけど……。
母は馬鹿にされるのが大嫌いだ。
今母は、自分という正義が叩きのめされているから泣いているのだ。何を言われてもきっと考えは曲げない。
だって、いつでも自分は正義で、勝利者でなければいけないのだから。
……でも、相手方も負けてはいない。
――なぜイリアスに"カラスの黒海"をよこしたことが婚約破棄につながるのか?
曰く、オスヴァルト伯と"カラスの黒海"の製造業者――ルヴァン社の社長は30年の付き合いの友人だという。
ノルデンの災害から数年、突然どこかのノルデン貴族が「その酒は我が民への差別を助長する、生産をやめろ」などと言いがかりをつけてきた。
ルヴァン社には、数百年の歴史を持つこの酒への誇りがある。始めは抵抗していたが、批判と嫌がらせが続いたためとうとう折れ、"渡り鳥の大海"と名称を変更して生産を続けた。
しかしその騒動のせいで"カラスの黒海"は嫌がらせの道具として逆に名を馳せてしまった。
ルヴァン社は今も、ノルデンとは全く関係のない、そしてルヴァン社の酒を買いもしない"正義の部外者"に生産を止めよと嫌がらせを受けており、イメージの払拭に四苦八苦しているという――。
「そんな、そんなことまでは私には……」
「まさしくそういうところですよ、ルイーザ様」
青ざめた顔でなおも言い訳をしようとする母に、オスヴァルト伯が厳しい顔でさらに言葉を続ける。
――人がどこでどう繋がっているか、自分の行動が後々どんな事象に結びつくかも想像できない。
礼も義も知らず、身分を笠に着て言いたい放題……ノルデンの反乱は、そういう貴族に耐えかねた民衆が引き起こしたもの。
仮にそれを知らないにしても、ロレーヌでは竜騎士団領の独立戦争が同じような理由で起こったという歴史があるではないか。
人は人の行いを見ている。
人の上に立つ我々貴族こそ、襟元を正して生きていかなければならない……。
「口は災いの元です。貴女のような人と縁続きになってこちらがどんな不利益を被るか、想像するだに恐ろしいというんですよ」
「危険は未然に防がねばなりません。恥知らずは、我が一族には不要ですわ」
「は、恥知らず、ですって……あ、あんまり」
「おやめになってくださる? 女の涙は女には通用いたしませんわ」
「…………っ」
オスヴァルト伯夫人に涙すら嘲笑され、母はとうとう言葉をなくす。
でも涙は止まらない……きっと今、自分が可哀想だから泣いているのだろう。
「……ルイーザ様。万が一にもイリアス様が嘘を言っている可能性を考え、私どもはサンチェス領の民に貴女について聞き込みを致しました。……申し上げにくいですが、知っておくべきです。貴女の評判はとても悪い。普通、どれほど悪くとも、10人いれば2人くらいは擁護をするものですが……」
「……ご存知? 貴女、領民に『能なしの輿入れ姫』なんて呼ばれているのよ。能なしというのは魔法の力のことではなく、本当の無能という意味ですわ」
「お前! やめなさい……」
「あら? ……『身の程を分からせてやった』だけではありませんの」
伯爵がたしなめるも、オスヴァルト伯夫人の口撃はとどまらない。
彼女は以前から、母が心底嫌いだったらしい。
学がないのはいいとして、驚くほどに世間が狭い。
口を開けば悪口ばかりで何も褒めない。差別を嫌うくせに、差別はする。
自分を棚に上げて人の能力、容姿、置かれた状況をあげつらって笑う――例えば顔にあるほくろやあざとか、その位置とか、あと子供がいないとか――。それらは全て、夫人の姉妹や友人に突き刺さるものだった。
知らないとはいえ、その想像力のなさ、愚かさに吐き気がしていた。
もう話さなくて済むなんて清々するわ、永遠にさようなら。
そして父に向けては「一度関係を考え直した方がよろしいのでは?」と言い残し、オスヴァルト伯一家は帰っていった。
――すごい。
途中までは理路整然としていたのに、後半はただの悪口、罵詈雑言だった。
でも、あれってずっとお母様がやってきたことよ。
同じことをされたら何も言い返せないんだ、泣くんだ。
なんというか……自分勝手だけど、すごく失望しちゃったわ。
(それにしても……)
イリアスは、どうしてオスヴァルト伯爵家へ行ったのだろう?
オスヴァルト伯爵家に挨拶、詫び――もし選ばれたなら結婚は5年後になってしまうということを告げに行ったのだろうか?
それならば、あたしを推薦した司祭としての務めを果たしているだけかもしれない。
でも、"カラスの黒海"をわざわざ持っていったのはなぜだろう。
オスヴァルト伯がルヴァン社と繋がりがあることを知っていたのだろうか。
あれを見せることで伯爵が怒ることを狙っていた? なぜ……。
『これは貴女のお母様からいただいた品ですが……嫌いなので、お返ししますね』
『全く恐ろしい方ですよ、あなたの母上は。この僕からすら瘴気を沸き立たせるのですから』
「…………」
――「なぜ」も何もない。答えは至って単純だ。
彼はただ、母の無礼に腹を立てたのだ。
だからその場では何も言い返さず、手持ちのカードの中から最も効果的な反撃を選んだ……きっとそこには、企みも何もない。
(ダメね……)
一応この騒動の当事者ではあるのに、全くよそごと――イリアスの行動原理なんて考えている。
まるで他人事のように何の感情も湧かない。
それどころか、こてんぱんに言い負かされて泣いている母を見て笑ってしまいそうな自分がいる。
そしてそんなあたしからまた薄黒い煙が立ち上り、煙は天井を泳いでどこかへ去って行く。
――どうしよう、このままだと本当にこの屋敷のどこかで闇の武器が生まれてしまうわ……。
「なっ……!?」
司祭イリアスが去って数日後。
婚約者のデニス・オスヴァルト様とその両親、オスヴァルト伯夫妻が先触れなくやってきた。
突然のことに驚きながらも応接に招いたが、案内されソファに座るやいなやデニス様が開口一番そう告げてきた。
「ど、どういうことですの!? 突然そんな……」
「こちらの都合ですので、もちろん手続き等々こちらでいたしますし、違約金はお支払いいたします」
「都合ですって!? 娘に何の不満があるというの!」
「…………」
いきり立っているのは母だけ。父は相変わらず何も言わない。
あたしも……何の都合か知らないけれど、正直願ってもない申し出だ。
けど、一体何があったのだろう。
もしこれが流行りの物語なら、デニス様に思い人ができて、あたしはその思い人をいじめる悪役令嬢。
そして何かのパーティーで断罪からの婚約破棄、最後には僻地へと追放――なんてところだけれど。
「いいえ、ベルナデッタ嬢は可愛らしく愛嬌のあるお嬢様です、彼女には何の咎もありません。それに私自身が心移りしたわけでもありません」
(ちがうんだ……)
あたしが聖女に選ばれて――といってもまだ候補レベルだけれど――だから、5年も待っていられない……とかそういう事情でもないようだ。
あたしには何の咎もないと言った。
それなら一体、何の……?
デニス様が言いにくそうに口をつぐみ、咳払いをする。
そんな彼の様子を見て次に口を開いたのは、オスヴァルト伯――彼の父上だった。
「誠に申し上げにくいのですが……」
「何なのです!? 言いたいことははっきりおっしゃって下さい! 婚約破棄だなんて周囲に知れ渡ったら、娘がこの先どんな目で見られるか! ……いくら由緒正しい名家といえど、やっていいことと悪いことが――」
「貴女です、ルイーザ様」
「は……?」
口の中に罵倒の言葉を山ほど用意していたであろう母は、思ってもない返答に虚を衝かれて一瞬沈黙する。
けれど、こんなことでずっと黙っていられる人ではない……。
「……おっしゃる意味が分かりませんわね。私が一体何だというのです? ……先ほどデニス様が『心変わりなどではない』とおっしゃっていましたけれど、実際はそうなのではありません? それをこちらに原因があるかのように言って、そんな無礼が許され……」
「それです。貴女が無礼だからですよ」
「は……?」
「数日前、我々の屋敷に司祭イリアス様が来られました。息子の婚約者のベルナデッタ嬢を聖女に推薦しましたという挨拶と、そしてお詫びをしに来た、とのことでした」
「…………」
(イリアスが、デニス様の屋敷に……?)
なぜだろうと考える間もなく、オスヴァルト伯の言葉が続く。
「イリアス様は、サンチェス伯領はとてもいい所だとおっしゃっていましたよ。『帰り際、ブドウが好きだと聞いた夫人から良い酒も頂きました』……なんて、笑顔で、この酒を! ……見せてくれましたよ!」
「!!」
「この酒を」の言葉とともに、オスヴァルト伯がテーブルに勢いよく酒瓶を置いた。
「な、そ、それは……!」
父が珍しく大声を出しながら身を乗り出す。
テーブルに置かれた酒は、"カラスの黒海"。
「イリアス様……ノルデンの方にこれを渡す。その意味をご存知で、これを渡されたのですか?」
「ルイーザ! お前、こんなものを……」
「何よ! だってあの人、私にいちいちダメ出しするんだもの! 若いくせに司祭だからって調子に乗って……」
「え……」
――ダメ出し? もしかして、母が領地を蔑むのをたしなめたことを言っているの?
その腹いせにあんなものをわざわざ?
……そんな、そんな……。
「……だからちょっと身の程を分からせてやるつもりで――」
言葉の続きは、パシンという音とともに強制的に中断された。
父が母の頬を思い切り打ったのだ。
「痛っ……何をするの! レディを打つなんて……」
「黙れ!! お前がそこまで馬鹿だとは思わなかった!!」
「ヒッ……! 何よ! 私がカラスにカラスの飲み物をあげたのと、ベルの婚約破棄と何が関係あるのよっ!?」
父に怒鳴られたのは初めてなのか、母が目に涙を溜めながら叫んだ。
「ルイーザ様……貴女、恥という概念がありませんの?」
オスヴァルト伯夫人が、蔑むような目線を母に向けながら冷たく吐き捨てる。
あまり会うことはなかったけれど、夫人はいつも朗らかで優しい人だった。
だけど今、彼女からは怒りと侮蔑の意志しか感じられない。
そんな夫人を、母が思いきり睨み返した。
『意味なく一方的に罵倒をしてくる奴は、大抵相手が自分より馬鹿で弱く、絶対に逆らうことはないと思っている。反抗も反論も無意味……逆に愚かだと嘲笑されて終わる。だが、反撃には弱い。そして反撃されれば一転、誰よりも弱い被害者の顔をして喚き散らす。奴らはいつも正義の勝利者だ』
――すごいわね。
隊長、あたしの母と会ったことでもあるのかしら? って、感心してる場合じゃないけど……。
母は馬鹿にされるのが大嫌いだ。
今母は、自分という正義が叩きのめされているから泣いているのだ。何を言われてもきっと考えは曲げない。
だって、いつでも自分は正義で、勝利者でなければいけないのだから。
……でも、相手方も負けてはいない。
――なぜイリアスに"カラスの黒海"をよこしたことが婚約破棄につながるのか?
曰く、オスヴァルト伯と"カラスの黒海"の製造業者――ルヴァン社の社長は30年の付き合いの友人だという。
ノルデンの災害から数年、突然どこかのノルデン貴族が「その酒は我が民への差別を助長する、生産をやめろ」などと言いがかりをつけてきた。
ルヴァン社には、数百年の歴史を持つこの酒への誇りがある。始めは抵抗していたが、批判と嫌がらせが続いたためとうとう折れ、"渡り鳥の大海"と名称を変更して生産を続けた。
しかしその騒動のせいで"カラスの黒海"は嫌がらせの道具として逆に名を馳せてしまった。
ルヴァン社は今も、ノルデンとは全く関係のない、そしてルヴァン社の酒を買いもしない"正義の部外者"に生産を止めよと嫌がらせを受けており、イメージの払拭に四苦八苦しているという――。
「そんな、そんなことまでは私には……」
「まさしくそういうところですよ、ルイーザ様」
青ざめた顔でなおも言い訳をしようとする母に、オスヴァルト伯が厳しい顔でさらに言葉を続ける。
――人がどこでどう繋がっているか、自分の行動が後々どんな事象に結びつくかも想像できない。
礼も義も知らず、身分を笠に着て言いたい放題……ノルデンの反乱は、そういう貴族に耐えかねた民衆が引き起こしたもの。
仮にそれを知らないにしても、ロレーヌでは竜騎士団領の独立戦争が同じような理由で起こったという歴史があるではないか。
人は人の行いを見ている。
人の上に立つ我々貴族こそ、襟元を正して生きていかなければならない……。
「口は災いの元です。貴女のような人と縁続きになってこちらがどんな不利益を被るか、想像するだに恐ろしいというんですよ」
「危険は未然に防がねばなりません。恥知らずは、我が一族には不要ですわ」
「は、恥知らず、ですって……あ、あんまり」
「おやめになってくださる? 女の涙は女には通用いたしませんわ」
「…………っ」
オスヴァルト伯夫人に涙すら嘲笑され、母はとうとう言葉をなくす。
でも涙は止まらない……きっと今、自分が可哀想だから泣いているのだろう。
「……ルイーザ様。万が一にもイリアス様が嘘を言っている可能性を考え、私どもはサンチェス領の民に貴女について聞き込みを致しました。……申し上げにくいですが、知っておくべきです。貴女の評判はとても悪い。普通、どれほど悪くとも、10人いれば2人くらいは擁護をするものですが……」
「……ご存知? 貴女、領民に『能なしの輿入れ姫』なんて呼ばれているのよ。能なしというのは魔法の力のことではなく、本当の無能という意味ですわ」
「お前! やめなさい……」
「あら? ……『身の程を分からせてやった』だけではありませんの」
伯爵がたしなめるも、オスヴァルト伯夫人の口撃はとどまらない。
彼女は以前から、母が心底嫌いだったらしい。
学がないのはいいとして、驚くほどに世間が狭い。
口を開けば悪口ばかりで何も褒めない。差別を嫌うくせに、差別はする。
自分を棚に上げて人の能力、容姿、置かれた状況をあげつらって笑う――例えば顔にあるほくろやあざとか、その位置とか、あと子供がいないとか――。それらは全て、夫人の姉妹や友人に突き刺さるものだった。
知らないとはいえ、その想像力のなさ、愚かさに吐き気がしていた。
もう話さなくて済むなんて清々するわ、永遠にさようなら。
そして父に向けては「一度関係を考え直した方がよろしいのでは?」と言い残し、オスヴァルト伯一家は帰っていった。
――すごい。
途中までは理路整然としていたのに、後半はただの悪口、罵詈雑言だった。
でも、あれってずっとお母様がやってきたことよ。
同じことをされたら何も言い返せないんだ、泣くんだ。
なんというか……自分勝手だけど、すごく失望しちゃったわ。
(それにしても……)
イリアスは、どうしてオスヴァルト伯爵家へ行ったのだろう?
オスヴァルト伯爵家に挨拶、詫び――もし選ばれたなら結婚は5年後になってしまうということを告げに行ったのだろうか?
それならば、あたしを推薦した司祭としての務めを果たしているだけかもしれない。
でも、"カラスの黒海"をわざわざ持っていったのはなぜだろう。
オスヴァルト伯がルヴァン社と繋がりがあることを知っていたのだろうか。
あれを見せることで伯爵が怒ることを狙っていた? なぜ……。
『これは貴女のお母様からいただいた品ですが……嫌いなので、お返ししますね』
『全く恐ろしい方ですよ、あなたの母上は。この僕からすら瘴気を沸き立たせるのですから』
「…………」
――「なぜ」も何もない。答えは至って単純だ。
彼はただ、母の無礼に腹を立てたのだ。
だからその場では何も言い返さず、手持ちのカードの中から最も効果的な反撃を選んだ……きっとそこには、企みも何もない。
(ダメね……)
一応この騒動の当事者ではあるのに、全くよそごと――イリアスの行動原理なんて考えている。
まるで他人事のように何の感情も湧かない。
それどころか、こてんぱんに言い負かされて泣いている母を見て笑ってしまいそうな自分がいる。
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