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【第3部】13章 切り裂く刃
19話 こぼれた水は、もう二度と
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「お待ちになって! 誤解ですのよ! どうか話を――」
「お前の話など聞く価値はない」
「エルネスト様! どうか……」
「…………」
頭がずっと痛い。
屋敷じゅう、至る所に、火事が起こったかのように薄黒い煙が充満している……。
◇
婚約破棄騒動のあと。
あれほど言われても母は自分を省みることはなく、オスヴァルト伯が帰って10分もしないうちに、いつもの調子でオスヴァルト伯親子の悪口を言い始めた。
「どうせ他に女ができたにちがいない」
「いい年になっても親の言うなりの男なんて」
「義母になる人がヒステリー持ちだったなんて、結婚する前に分かってよかった」
「あの女のあの顔、なんて醜いのかしら」
……そんなようなことだったと思う。
途中で父が「黙れ」と母を怒鳴りつけ、さらに「お前には我慢の限界だ、離婚する」と叫んだ。
玄関ホールで叫んだため、周辺の召使い達に丸聞こえ。
メイドに呼ばれて飛んできた家令のハンスがなだめようとするも、父は聞く耳を持たない。
父は結婚してからずっと母に見下されて生きてきた。もう言葉の通りに「我慢の限界」なのだろう。
離婚を宣告された途端に母はオドオドし始め、「待って」「そんな」「冷静になってくださいな」などと、甘えたような声で小首をかしげたりしながら父にしなだれかかろうとする。
――何を焦っているのだろう。
ことあるごとに父のことを「辛気くさい」「いらない」と言って、時には罵ることすらあったじゃない。
そんなことを繰り返していれば、心が離れるどころか憎まれることくらい……。
「…………」
『人がどこでどう繋がっているか、自分の行動が後々どんな事象に結びつくかも想像できない』――。
(……分からないのね……)
自分の言動で人がどんな気持ちになるかなんて考えていない。
いつも自分は被害者で、そして正義の勝利者……いや、"神"とすら思っているかもしれない。
自分だけに物事や人を裁定する権利がある。
この世界で意志と感情を持ち、モノを考えているのは、"神"たる自分のみ――。
「……何を嫌がる? お前はしょっちゅう『魔法さえあればこんな所に嫁がずに済んだ』『こんな辛気くさい田舎から早く出たい』と言っていたではないか。望みの通りにしてやるのだから、感謝してもらってもいいくらいだ」
「そ、そんな……あれはその……」
「『冗談だった』とでもいうのか? なら聞くが、お前はお世辞や冗談でもこの土地や私を褒めたことが一度でもあったか?」
「……だ、だ、だけど、離婚だなんて、悪い冗談……」
「私は冗談を言わない。『エルネスト・サンチェスは冗談のひとつも言えない、下らぬ田舎の男』だ。そうだろう?」
「あ……」
「…………」
――取り付く島もない。
物心ついた時から、父と母の関係は冷め切っていた。こうなることは必然だったのかもしれない。
あたしは22歳の大人だ。
だけど、それでも。
父が母を切り捨てる場面なんて、関係が終わっていく瞬間なんて、見たくはなかった――。
翌日、父から母と離婚する旨を告げられた。
母は実家のトレント伯領に送られることになるだろうということだ。
どちらについていくか聞かれて「ここに留まる」と言うとひどく驚かれた。
そうだ。父にとってはあたしもまた疎ましい存在。
だってあたしだって母にならって父を、この土地を、「ボンクラ」「しょぼくれ」なんて腐すようなことを言っていた。
本当はそう思っていない、調子を合わせないと母が機嫌を損なうから……なんて、なんの言い訳にもならないだろう。
その後「詳しいことはまた知らせる」と言われ、あたしは父の執務室をあとにした。
去り際、父の身体からまたあの煙が出るのが見えた――。
◇
――さらにその翌日。
食堂で朝食を摂っていると、カツカツと大きな靴音が聞こえてきた。
靴音はこちらに近づいてきて、やがて食堂の扉が勢いよく開け放たれる。
「ベルちゃん! ベルナデッタ!! 一体どういうことなの!?」
「…………」
悪いことは続くものだ。
何を言われるか予想がついてしまい、すでに頭が痛い。
――隊長が言ったとおりに、今のうちから音楽を頭に流しておこうかしら……。
「どういうこと、とは」
「ここに残るですって!? どうしてよ!!」
「…………」
外部の者から徹底的に糾弾された上に、夫に見放された母。
そんな母が今、唯一持っている最強最大のカード――それは"母親"であるという事実。
大声で怒鳴りつけて権威を示せる相手はもう、娘のあたしだけ――。
「わたくしはエルネスト・サンチェスの子でもあります。そしてサンチェス伯領は、生まれ育った土地。お母様の実家のトレント伯領は、いくら王都に近く華やかといえどわたくしにとっては全くなじみのない土地です。そちらに身を寄せることは、できません」
「なん、ですって……」
母が肩を震わせながら、声がするくらいに空気を思い切り吸い上げる。
さっきよりもさらに大声で叫ぶ気だ。
「ひどいわぁっ、みんな私を馬鹿にしてぇええ……っ!!」
鼓膜が破れそうなくらいのヒステリックな声で叫んで、母は泣き崩れた。
「――……」
目の前で「ひどい」「どうして私ばっかり」「誰も分かってくれない」なんて言いながら、天井を仰いでわんわんと泣き叫ぶ母。
どうしていいか分からず周辺の召使いに目をやると、給仕のニナが若い給仕に何かを囁き、その給仕は食堂を飛び出して行った。
ハンスか父を呼びにいくのだろう。
「お母……」
「この、恩知らずっ!!」
「!!」
「魔法の力も、美しい顔も、一体誰のおかげだと思ってるの? あっちの血筋だったらあんたなんてきっと冴えない無能のブスよ!? このひなびた田舎でそんなの、平民ならそれでもいいかもしれないけどねぇ……っ」
「っ……おやめください。ここは、ひなびた田舎なんかではありません」
思わずたしなめると、母は目玉が落ちそうなくらいに目を見開き立ち上がる。
『反抗も反論も無意味』――隊長が言っていた。あたしもそれを、昔からいやというほど味わってきた。
「ちょっと……なぁに? ベルちゃんだってここの悪口よく言ってたじゃない。『ここって、ほぉんと、なぁんにもなーい』ってぇ……」
そう……言い返してはいけなかった。
いつもこうやって、オーバーな身振り手振りで、声色を変えてあたしの物真似をして嘲笑うの。
そんな動きはしていないし、そんな馬鹿っぽい口調で喋ってもいないのに。
「……お母様に合わせないと、いつもそうやって馬鹿にするじゃありませんか」
「性格が悪いのを親のせいにする気? あー、いやだ。大人のくせに知性のかけらもない。魔術学院で何習ったのかしらぁ?」
また論点のすりかえをして、結局あたしは何も考えられない馬鹿ということにされる。
隊長の過去に登場した"副院長"とまるで同じだ。
(駄目です、隊長……)
頭に音楽が、流れません。全部耳に入ってきてしまう。
どうしたらいいんだろう?
レイチェルならきっぱり言い返せる?
ねえジャミル君、あたしどうすればいいと思う?
あたしも、あたしの「人生の脚本」のセリフを勝手に喋ればいい?
「あたしは、馬鹿じゃない。この土地だってひなびた田舎なんかじゃない、自然が豊かないい所よ。ぶどうだっておいしい。レザンのぶどうなんてどうでもいいわ。みんな一生懸命に、自分ができる精一杯のことをして生きているの。……何もしていない、何も作り出せない人が、馬鹿にする権利なんてないわ!」
「はっ……何泣いてるの? 信じられない」
涙ながらに抗議するあたしを見て、母は口を歪ませ笑う。
――醜い。美人なはずなのに、全然美しいと思えない。
「ねえ……さっきから何なの? 親に向かってその口の聞き方。聖女様候補とはいっても、まだ選ばれたわけじゃないの。そもそも、選ばれたとしてもそんな口を聞いていい理由になんかならないのよ?」
「…………」
もう、どうでもいいなぁ。
隊長、こういう時は「みんなの火を見てた」なんて言っていたっけ。
あたしもみんなの煙を見ていようかしら。
……ああ、すごい。給仕や料理人からとんでもない煙が立ち上っている。
「罵倒している人間の言葉に合わせて揺れて、汚いオーケストラだと思って見ていた」――本当、みんなグニャグニャのバラバラ。
それにしても、どうして母からは煙が出ないのかしら?
「……大体ねえ、聖女なんて寝ているだけなのに、偉そうにしないでって話よ」
「え……?」
煙を眺めながら意識を飛ばしていたところを、母の信じがたい言葉で引き戻される。
今、……今。
「……今、なんて言ったの……?」
「だ・か・ら。聖女なんて寝てるだけでしょって言ったの! 何か間違ってる?」
――ねえベルナデッタ。貴女が良いと思うものを、貴女自身が下げてしまっては駄目。貴女という人間の価値まで下がってよ……。
「…………」
いつか誰かに言われた言葉が、意識の底から湧き上がる。
誰に言われたのだろう。こんな大切な言葉を言った人を、どうして思い出せないのだろう。
「いいわよねえ、5年間ただ寝てるだけで人の尊敬集められて……」
――貴女の好きな物を悪し様に言う人は、果たして貴女を好きな人かしら?
「あーあ。お母様も寝てるだけの生活したぁ~い!」
――ねえ、ベルナデッタ。5年経って貴女がわたくしのこと思い出してくれたら、またこうやってお話しましょう。……約束ね。
「……しな……いで……」
「えー? なぁに?」
「聖女様を……、聖女様を、侮辱しないでっ!!」
「!!」
イリアスが来た時以上に大きな声が出る。
あたしの剣幕にさすがの母もまずいと思ったのか、怯えたような顔になる。
「ちょ……な、何よ、冗談じゃない。怒らないでよベルちゃん、ねっ? 美人が台無し――」
「謝って!! 取り消してよ、今の言葉!!」
「ヒッ……」
「お嬢様っ……!」
厨房から出てきた料理長のトマスが、母につかみかかろうとしたあたしを羽交い締めにする。
「離して! 離してよっ……!! 聖女様を、あたしの大事な聖女様を、侮辱したの……! 絶対、絶対、許さない!!」
「お嬢様……お嬢様!! どうか落ち着いて……!」
あたしをなだめようとするニナの言葉も、バタバタと誰かが駆けてくる音も、耳に入らない。
「ベ……ベルちゃん、落ち着いて? 侮辱だなんて大げさよ。お母様、そんなこと本気で言うわけないじゃ……」
「いやぁっ!! 喋らないでっ! 口を開かないでよ!!」
「な、なに……」
「もうなんにも聞きたくない!! 嫌い! 嫌いよ!! お母様なんて、大っ嫌い!!」
――そう叫んだ次の瞬間、ガシャンとガラスが割れる音がした。
「ヒッ……!?」
「キャーッ!!」
「お嬢様! お嬢様!」
トマスがあたしを背に隠し、駆け寄ってきたニナがあたしを抱きしめる。
「な……何だ!? あの剣は!」
(……剣……?)
料理長の言葉で我に返り顔を上げると、割れた窓のすぐそばに剣が浮いているのが見えた。
薄黒い煙――瘴気をまとう、刀身が濃い灰色に染まった剣が……。
(闇の……闇の紋章の剣……!!)
「お前の話など聞く価値はない」
「エルネスト様! どうか……」
「…………」
頭がずっと痛い。
屋敷じゅう、至る所に、火事が起こったかのように薄黒い煙が充満している……。
◇
婚約破棄騒動のあと。
あれほど言われても母は自分を省みることはなく、オスヴァルト伯が帰って10分もしないうちに、いつもの調子でオスヴァルト伯親子の悪口を言い始めた。
「どうせ他に女ができたにちがいない」
「いい年になっても親の言うなりの男なんて」
「義母になる人がヒステリー持ちだったなんて、結婚する前に分かってよかった」
「あの女のあの顔、なんて醜いのかしら」
……そんなようなことだったと思う。
途中で父が「黙れ」と母を怒鳴りつけ、さらに「お前には我慢の限界だ、離婚する」と叫んだ。
玄関ホールで叫んだため、周辺の召使い達に丸聞こえ。
メイドに呼ばれて飛んできた家令のハンスがなだめようとするも、父は聞く耳を持たない。
父は結婚してからずっと母に見下されて生きてきた。もう言葉の通りに「我慢の限界」なのだろう。
離婚を宣告された途端に母はオドオドし始め、「待って」「そんな」「冷静になってくださいな」などと、甘えたような声で小首をかしげたりしながら父にしなだれかかろうとする。
――何を焦っているのだろう。
ことあるごとに父のことを「辛気くさい」「いらない」と言って、時には罵ることすらあったじゃない。
そんなことを繰り返していれば、心が離れるどころか憎まれることくらい……。
「…………」
『人がどこでどう繋がっているか、自分の行動が後々どんな事象に結びつくかも想像できない』――。
(……分からないのね……)
自分の言動で人がどんな気持ちになるかなんて考えていない。
いつも自分は被害者で、そして正義の勝利者……いや、"神"とすら思っているかもしれない。
自分だけに物事や人を裁定する権利がある。
この世界で意志と感情を持ち、モノを考えているのは、"神"たる自分のみ――。
「……何を嫌がる? お前はしょっちゅう『魔法さえあればこんな所に嫁がずに済んだ』『こんな辛気くさい田舎から早く出たい』と言っていたではないか。望みの通りにしてやるのだから、感謝してもらってもいいくらいだ」
「そ、そんな……あれはその……」
「『冗談だった』とでもいうのか? なら聞くが、お前はお世辞や冗談でもこの土地や私を褒めたことが一度でもあったか?」
「……だ、だ、だけど、離婚だなんて、悪い冗談……」
「私は冗談を言わない。『エルネスト・サンチェスは冗談のひとつも言えない、下らぬ田舎の男』だ。そうだろう?」
「あ……」
「…………」
――取り付く島もない。
物心ついた時から、父と母の関係は冷め切っていた。こうなることは必然だったのかもしれない。
あたしは22歳の大人だ。
だけど、それでも。
父が母を切り捨てる場面なんて、関係が終わっていく瞬間なんて、見たくはなかった――。
翌日、父から母と離婚する旨を告げられた。
母は実家のトレント伯領に送られることになるだろうということだ。
どちらについていくか聞かれて「ここに留まる」と言うとひどく驚かれた。
そうだ。父にとってはあたしもまた疎ましい存在。
だってあたしだって母にならって父を、この土地を、「ボンクラ」「しょぼくれ」なんて腐すようなことを言っていた。
本当はそう思っていない、調子を合わせないと母が機嫌を損なうから……なんて、なんの言い訳にもならないだろう。
その後「詳しいことはまた知らせる」と言われ、あたしは父の執務室をあとにした。
去り際、父の身体からまたあの煙が出るのが見えた――。
◇
――さらにその翌日。
食堂で朝食を摂っていると、カツカツと大きな靴音が聞こえてきた。
靴音はこちらに近づいてきて、やがて食堂の扉が勢いよく開け放たれる。
「ベルちゃん! ベルナデッタ!! 一体どういうことなの!?」
「…………」
悪いことは続くものだ。
何を言われるか予想がついてしまい、すでに頭が痛い。
――隊長が言ったとおりに、今のうちから音楽を頭に流しておこうかしら……。
「どういうこと、とは」
「ここに残るですって!? どうしてよ!!」
「…………」
外部の者から徹底的に糾弾された上に、夫に見放された母。
そんな母が今、唯一持っている最強最大のカード――それは"母親"であるという事実。
大声で怒鳴りつけて権威を示せる相手はもう、娘のあたしだけ――。
「わたくしはエルネスト・サンチェスの子でもあります。そしてサンチェス伯領は、生まれ育った土地。お母様の実家のトレント伯領は、いくら王都に近く華やかといえどわたくしにとっては全くなじみのない土地です。そちらに身を寄せることは、できません」
「なん、ですって……」
母が肩を震わせながら、声がするくらいに空気を思い切り吸い上げる。
さっきよりもさらに大声で叫ぶ気だ。
「ひどいわぁっ、みんな私を馬鹿にしてぇええ……っ!!」
鼓膜が破れそうなくらいのヒステリックな声で叫んで、母は泣き崩れた。
「――……」
目の前で「ひどい」「どうして私ばっかり」「誰も分かってくれない」なんて言いながら、天井を仰いでわんわんと泣き叫ぶ母。
どうしていいか分からず周辺の召使いに目をやると、給仕のニナが若い給仕に何かを囁き、その給仕は食堂を飛び出して行った。
ハンスか父を呼びにいくのだろう。
「お母……」
「この、恩知らずっ!!」
「!!」
「魔法の力も、美しい顔も、一体誰のおかげだと思ってるの? あっちの血筋だったらあんたなんてきっと冴えない無能のブスよ!? このひなびた田舎でそんなの、平民ならそれでもいいかもしれないけどねぇ……っ」
「っ……おやめください。ここは、ひなびた田舎なんかではありません」
思わずたしなめると、母は目玉が落ちそうなくらいに目を見開き立ち上がる。
『反抗も反論も無意味』――隊長が言っていた。あたしもそれを、昔からいやというほど味わってきた。
「ちょっと……なぁに? ベルちゃんだってここの悪口よく言ってたじゃない。『ここって、ほぉんと、なぁんにもなーい』ってぇ……」
そう……言い返してはいけなかった。
いつもこうやって、オーバーな身振り手振りで、声色を変えてあたしの物真似をして嘲笑うの。
そんな動きはしていないし、そんな馬鹿っぽい口調で喋ってもいないのに。
「……お母様に合わせないと、いつもそうやって馬鹿にするじゃありませんか」
「性格が悪いのを親のせいにする気? あー、いやだ。大人のくせに知性のかけらもない。魔術学院で何習ったのかしらぁ?」
また論点のすりかえをして、結局あたしは何も考えられない馬鹿ということにされる。
隊長の過去に登場した"副院長"とまるで同じだ。
(駄目です、隊長……)
頭に音楽が、流れません。全部耳に入ってきてしまう。
どうしたらいいんだろう?
レイチェルならきっぱり言い返せる?
ねえジャミル君、あたしどうすればいいと思う?
あたしも、あたしの「人生の脚本」のセリフを勝手に喋ればいい?
「あたしは、馬鹿じゃない。この土地だってひなびた田舎なんかじゃない、自然が豊かないい所よ。ぶどうだっておいしい。レザンのぶどうなんてどうでもいいわ。みんな一生懸命に、自分ができる精一杯のことをして生きているの。……何もしていない、何も作り出せない人が、馬鹿にする権利なんてないわ!」
「はっ……何泣いてるの? 信じられない」
涙ながらに抗議するあたしを見て、母は口を歪ませ笑う。
――醜い。美人なはずなのに、全然美しいと思えない。
「ねえ……さっきから何なの? 親に向かってその口の聞き方。聖女様候補とはいっても、まだ選ばれたわけじゃないの。そもそも、選ばれたとしてもそんな口を聞いていい理由になんかならないのよ?」
「…………」
もう、どうでもいいなぁ。
隊長、こういう時は「みんなの火を見てた」なんて言っていたっけ。
あたしもみんなの煙を見ていようかしら。
……ああ、すごい。給仕や料理人からとんでもない煙が立ち上っている。
「罵倒している人間の言葉に合わせて揺れて、汚いオーケストラだと思って見ていた」――本当、みんなグニャグニャのバラバラ。
それにしても、どうして母からは煙が出ないのかしら?
「……大体ねえ、聖女なんて寝ているだけなのに、偉そうにしないでって話よ」
「え……?」
煙を眺めながら意識を飛ばしていたところを、母の信じがたい言葉で引き戻される。
今、……今。
「……今、なんて言ったの……?」
「だ・か・ら。聖女なんて寝てるだけでしょって言ったの! 何か間違ってる?」
――ねえベルナデッタ。貴女が良いと思うものを、貴女自身が下げてしまっては駄目。貴女という人間の価値まで下がってよ……。
「…………」
いつか誰かに言われた言葉が、意識の底から湧き上がる。
誰に言われたのだろう。こんな大切な言葉を言った人を、どうして思い出せないのだろう。
「いいわよねえ、5年間ただ寝てるだけで人の尊敬集められて……」
――貴女の好きな物を悪し様に言う人は、果たして貴女を好きな人かしら?
「あーあ。お母様も寝てるだけの生活したぁ~い!」
――ねえ、ベルナデッタ。5年経って貴女がわたくしのこと思い出してくれたら、またこうやってお話しましょう。……約束ね。
「……しな……いで……」
「えー? なぁに?」
「聖女様を……、聖女様を、侮辱しないでっ!!」
「!!」
イリアスが来た時以上に大きな声が出る。
あたしの剣幕にさすがの母もまずいと思ったのか、怯えたような顔になる。
「ちょ……な、何よ、冗談じゃない。怒らないでよベルちゃん、ねっ? 美人が台無し――」
「謝って!! 取り消してよ、今の言葉!!」
「ヒッ……」
「お嬢様っ……!」
厨房から出てきた料理長のトマスが、母につかみかかろうとしたあたしを羽交い締めにする。
「離して! 離してよっ……!! 聖女様を、あたしの大事な聖女様を、侮辱したの……! 絶対、絶対、許さない!!」
「お嬢様……お嬢様!! どうか落ち着いて……!」
あたしをなだめようとするニナの言葉も、バタバタと誰かが駆けてくる音も、耳に入らない。
「ベ……ベルちゃん、落ち着いて? 侮辱だなんて大げさよ。お母様、そんなこと本気で言うわけないじゃ……」
「いやぁっ!! 喋らないでっ! 口を開かないでよ!!」
「な、なに……」
「もうなんにも聞きたくない!! 嫌い! 嫌いよ!! お母様なんて、大っ嫌い!!」
――そう叫んだ次の瞬間、ガシャンとガラスが割れる音がした。
「ヒッ……!?」
「キャーッ!!」
「お嬢様! お嬢様!」
トマスがあたしを背に隠し、駆け寄ってきたニナがあたしを抱きしめる。
「な……何だ!? あの剣は!」
(……剣……?)
料理長の言葉で我に返り顔を上げると、割れた窓のすぐそばに剣が浮いているのが見えた。
薄黒い煙――瘴気をまとう、刀身が濃い灰色に染まった剣が……。
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