婚活に疲れたアラサーOLの私、癒やし的存在の弟分(高校生)に「もう待てない」と外堀を埋められています ~10年分の執着は、甘すぎて重すぎる~

ダルい

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第三話

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 十八時半。定時を少し過ぎたオフィス。
 私は明日提出する見積書の最終チェックに追われていた。
「早川さん、まだ残ってる?」
 ふと、パーテーションの向こうから落ち着いたバリトンボイスが降ってきた。
 顔を上げると、仕立ての良いネイビーのスーツを着こなした男性が立っていた。
「あ、西園寺(さいおんじ)さん。お疲れ様です。今日は弊社にいらしてたんですか?」
「うん、部長と少し打ち合わせがあってね。その帰りに、君がいるのが見えたから」
 西園寺俊介(しゅんすけ)。三十二歳。
 取引先である大手総合商社のエース社員だ。
 長身で清潔感があり、仕事もスマート。社内の女性社員たちからは「独身貴族の最後の砦」なんて囁かれているハイスペック男性である。
「これ、よかったら。打ち合わせで出された菓子なんだけど、僕は甘いもの控えてるから」
 彼が私のデスクに置いたのは、有名パティスリーの高級チョコレートだった。
 こういう気遣いを、恩着せがましくなくサラッとできるのが大人の余裕だ。
 朝、湊に髪を直してもらった時のドキドキとは違う、社会人としての背筋が伸びるような緊張感と安心感。
「ありがとうございます。疲れてたんで嬉しいです」
「よかった。……早川さんは、いつも頑張りすぎだからね」
 西園寺さんは優しく目を細める。
 その視線には、単なる仕事相手以上の温度が含まれている気がして、私は少しだけ身構えた。
「そういえば、来週の金曜って空いてるかな? 駅前に新しいイタリアンができたんだけど、もしよかったら」
 ――来た。
 それは、明確な「デート」の誘いだった。
 三十二歳のエリート商社マン。年齢的にも釣り合っているし、条件としては文句のつけようがない。
 先日の婚活パーティにいた失礼な男たちとは雲泥の差だ。
 ここで「はい」と答えれば、私は「普通の幸せ」への切符を掴めるかもしれない。
「えっと……」
 一瞬、脳裏にエプロン姿の少年の顔がよぎった。
 今頃、私のリクエスト通りにハンバーグを捏(こ)ねているであろう、隣の家の男の子。
(……何考えてるの、私。湊はただの弟分でしょ)
 私はぶん、と頭の中で雑念を振り払う。
 高校生に義理立てして、大人の誘いを断るなんて馬鹿げてる。
「……はい、今のところ空いてます」
「本当? よかった。じゃあ、また連絡するよ」
 西園寺さんは満足そうに微笑むと、スマートに踵(きびす)を返して去っていった。
 後に残されたのは、高級チョコと、少しの高揚感。そして、微かな罪悪感だった。
 ***
「ただいまー……」
「おかえり、結衣姉。お疲れ様」
 十九時半。隣の503号室に入ると、いつものように出汁(だし)とデミグラスソースの混ざった幸せな香りが私を包み込んだ。
 湊はキッチンから顔を出し、私の顔を見るなり、ふっと表情を曇らせた。
「……なんか、いいことあった?」
「えっ?」
「いや、いつもより顔色が明るいから。会社で褒められたりした?」
 ドキリとした。
 鋭い。十六歳の直感は侮れない。
 私は西園寺さんに誘われたことへの浮かれ気分を悟られないよう、慌てて鞄を置く。
「ま、まあね。難しかった見積もりが通ったから、ちょっとホッとしただけだよ」
「ふーん……。そっか、ならよかった」
 湊はそれ以上追及せず、またキッチンへと戻っていく。
 でも、その背中がほんの少しだけ強張っているように見えたのは、私の考えすぎだろうか。
 食卓には、私の大好物である煮込みハンバーグが並べられた。
 付け合わせのニンジンのグラッセまで完璧だ。
 一口食べると、肉汁とソースの旨味が口いっぱいに広がる。
「ん~っ、美味しい! 湊、お店出せるよこれ!」
「大袈裟だな。……結衣姉の好きな味にしただけだよ」
 湊は自分の皿にはほとんど手をつけず、美味しそうに食べる私をじっと見つめている。
 その視線が、今日はやけに熱っぽい。
「ねえ、結衣姉」
「ん?」
「来週の金曜、空いてる?」
 心臓が止まるかと思った。
 あまりのタイミングの良さに、ハンバーグが喉に詰まりそうになる。
「え、あ、うん……。ど、どうして?」
「部活が休みなんだ。久しぶりに映画でもどうかなって。新作のアクション映画、結衣姉好きでしょ?」
 純粋な誘いだった。
 昔から私たちは、こうしてよく二人で遊んでいた。
 でも、来週の金曜は――。
「ご、ごめん! 来週の金曜は、ちょっと会社の飲み会が入っちゃってて……」
 嘘をついた。
 「デート」だとは言えなかった。
 言えば、湊がどんな顔をするか想像したくなかったからだ。
「……そっか。飲み会なら仕方ないね」
 湊は分かりやすく落胆したように眉を下げた。
 その捨てられた子犬のような表情に、胸が痛む。
 ごめんね、湊。
 でも、私には私の「大人の付き合い」が必要なの。貴方にばかり頼ってちゃいけないの。
「土曜日なら空いてるから! ね、土曜に行こう?」
「うん。……わかった。土曜日にしよう」
 湊は微笑んだ。
 いつもの、優しくて甘い弟の笑顔だ。
 だから私は気づかなかった。
 彼がテーブルの下で、拳を強く握りしめていることに。
 そして、私が脱ぎ捨てたコートから微かに香る、知らない男のコロンの匂いに、彼がとっくに気づいていることに。
(……嘘つき)
 湊は心の中で呟く。
 結衣姉は嘘をつく時、右の眉が少しだけ上がる癖がある。
 飲み会じゃない。男だ。
 僕の知らない、大人の男の影。
 焦燥感が腹の底で黒く渦巻く。
 今はまだ、僕は高校生で、彼女を養う力も社会的信用もない。
 でも、渡さない。
「……おかわり、あるからね。いっぱい食べて」
 湊は努めて明るく振る舞いながら、結衣の皿にハンバーグを追加した。
 今の自分にできるのは、こうして彼女の胃袋と心を、少しでも多く僕の味で満たすことだけだ。
 いつか、他の誰の料理も喉を通らなくなるくらいに。
 煮込みハンバーグの隠し味は、甘いナツメグと、ほんの少しの独占欲だった。
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