婚活に疲れたアラサーOLの私、癒やし的存在の弟分(高校生)に「もう待てない」と外堀を埋められています ~10年分の執着は、甘すぎて重すぎる~

ダルい

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第四話

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金曜日の朝。
 私はクローゼットの前で、ここ数年で一番真剣な顔をして悩んでいた。
「……やっぱり、白のブラウスかな。いや、イタリアンならソースが飛ぶリスクがあるし……」
 ベッドの上には、何着もの服が散乱している。
 今夜は西園寺さんとの初デートだ。
 相手は三十二歳の大人の男性。しかもハイスペックな商社マン。
 年相応の落ち着きと、女性らしい華やかさ。その両方を兼ね備えたコーディネートが必要だ。
 結局、淡いラベンダー色のニットに、ラインの綺麗なタイトスカートを選んだ。これなら顔色も明るく見えるし、オフィスでも浮かない。
 そして、その下には――。
(……一応、ね。あくまで大人のマナーとして)
 私は引き出しの奥から、少し奮発して買ったレースの下着を取り出した。
 今日なにかがあるとは思っていない。思っていないけれど、「もしも」の時にボロボロの下着では、三十路手前の女としての尊厳に関わる。これは武装だ。心の鎧なのだ。
 鏡の前で念入りにメイクをする。
 いつもより丁寧にファンデーションを塗り、リップも血色の良いローズピンクを選んだ。
 仕上げに、手首に香水をひと吹き。
「……よし」
 完璧だ。
 これなら、隣を歩いても恥ずかしくないはず。
 私は気合を入れて立ち上がった。
 ピンポーン。
 その時、インターホンが鳴った。
 タイミングの良さに心臓が跳ねる。湊だ。
「あ、やば……」
 私は慌てて散乱した服をクローゼットに押し込み、深呼吸をしてから玄関を開けた。
「おはよう、結衣姉。朝ごはんでき――」
 エプロン姿の湊は、言葉の途中でピタリと止まった。
 その視線が、私の頭のてっぺんからつま先まで、ゆっくりと、値踏みするように移動する。
「……おはよう、湊」
「おはよう。……すごいね。今日は一段と気合入ってる」
 湊の声は平坦だった。
 怒っているわけでも、茶化しているわけでもない。
 ただ、事実を確認するような静けさが、逆に怖い。
「そ、そうかな? 飲み会だからさ、あんまり地味だと浮いちゃうし……」
「へえ。会社の飲み会って、そんなにいい匂いのする香水つけていくんだ」
「っ!」
 しまった。香水は余計だったか。
 普段の私は、会社には無香料のヘアミストくらいしかつけていかない。
 脇汗が噴き出しそうになるのを必死で堪える。
「……た、たまには気分転換も必要かなって! ほら、後輩の手前、先輩として身だしなみも大事だし!」
「ふーん……」
 湊は小首を傾げ、ゆっくりと私に近づいてきた。
 一歩、また一歩。
 私が後ずさる隙もないまま、彼は私の目の前、吐息がかかるほどの距離で止まった。
「……髪、巻いたんだね。似合ってるよ、すごく綺麗だ」
 湊の手が伸びてくる。
 長い指先が、私が時間をかけてセットした髪を、愛おしそうに梳(す)いた。
 その触れ方は優しすぎて、まるで壊れ物を扱うようだ。
「……あ、ありがと」
「そんなに綺麗な結衣姉を、他の男に見せるのが飲み会なんて。もったいないな」
 ドキリとする。
 彼の瞳の奥が、暗く揺れている。
 見透かされている?
 いや、まさか。ただの弟分の戯言だと思いたい。
「湊、遅刻しちゃうよ。朝ごはん、いただこうかな」
「ああ、ごめん。そうだね」
 湊はふわりと笑って、距離を取った。
 私は安堵の息を漏らし、リビングへと向かおうとする。
 すれ違いざま、湊がボソリと呟いた。
「……俺の匂い、消えちゃったな」
「え?」
「ううん、なんでもない。行ってらっしゃい、結衣姉」
 ***
 朝食を済ませ、私は駅へと向かった。
 満員電車に揺られながら、ふと自分の服の袖口に鼻を近づける。
 お気に入りの香水の、フローラルな香り。
 でも、その奥に微かに混じっている匂いがある。
 これは――湊の家の柔軟剤の匂いだ。
 毎朝、彼に髪を直してもらい、彼の部屋で朝食を食べる。
 週末は彼が私の洗濯物まで畳んでくれることもある。
 知らず知らずのうちに、私の生活には「湊の匂い」が染み付いていたのだ。
(俺の匂い、消えちゃったな)
 先ほどの彼の言葉が蘇る。
 香水で上書きされたことを、彼は嘆いていたのだろうか。
 それとも――「他の男の匂いをつけて帰ってくるなよ」という、牽制だったのだろうか。
「……考えすぎ、だよね」
 私は頭を振る。
 湊はまだ十六歳。そんな大人の駆け引きみたいなこと、考えるはずがない。
 可愛い弟分のヤキモチだ。そう思うことにした。
 ***
 十八時。定時退社。
 私は駅前のイタリアンレストランの前に立っていた。
 レンガ造りの洒落た外観。暖色の照明が漏れる店内は、まさに大人のデートスポットだ。
「お待たせ。早かったね」
 背後から声をかけられる。
 西園寺さんだ。
 仕事終わりのスーツ姿だが、ネクタイが少し緩められていて、それがまた色気を醸し出している。
「いえ、私も今着いたところです」
「その服、すごく似合ってるよ。ラベンダー色、早川さんの雰囲気にぴったりだ」
「ありがとうございます……」
 スマートな褒め言葉。
 湊の「似合ってるよ」という言葉とは違う、社交辞令と好意が絶妙に混ざった大人の会話。
 これだ。私が求めていたのは、こういう対等な関係だ。
「じゃあ、行こうか。予約してあるんだ」
 西園寺さんがエスコートしてくれる。
 その背中についていきながら、私は心の中で自分に言い聞かせた。
 忘れろ。
 朝の湊の顔も、柔軟剤の匂いも。
 今夜は、未来のための大切な勝負なのだから。
 ***
 同時刻。瀬戸家のリビング。
 湊は参考書を広げていたが、シャーペンの先はここ数十分、全く進んでいなかった。
 視線は、机の隅に置かれたスマホに向けられている。
『行ってきます。今日は遅くなるかも』
 朝、結衣から送られてきたメッセージ。
 それ以降、既読はついても返信はない。
「……会社の飲み会、か」
 湊は小さく独りごちた。
 朝の結衣の様子を思い出す。
 気合の入ったメイク。新品のようなラベンダー色のニット。そして、普段はつけない華やかな香水。
 どう見ても、ただの同僚との飲み会に行く格好ではなかった。
 ――男だ。
 直感が、警鐘を鳴らしている。
 結衣姉は嘘をつくのが下手だ。今朝も俺と目を合わせようとしなかった。
「……はあ」
 湊は大きく息を吐き出し、天井を仰いだ。
 胸の奥が、重い鉛を飲み込んだように苦しい。
 相手は誰だ?
 会社の上司か? それとも取引先の男か?
 きっと、今の自分にはない「大人の余裕」や「社会的地位」を持った男なんだろう。
 結衣が求めている「普通の幸せ」を与えられる人間なんだろう。
 想像するだけで、焦燥感で押し潰されそうになる。
 今すぐ電話をかけて「どこにいるの?」と聞きたい。
 「迎えに行くよ」と言って、彼女を連れ帰りたい。
 でも、今の自分にはその権利がない。
 ただの「隣の高校生」。
 それが、今の瀬戸湊の限界だった。
「……勉強しなきゃ」
 湊は無理やりシャーペンを握り直した。
 今できることは、一つしかない。
 少しでも早く、彼女を養えるだけの力をつけること。
 誰にも文句を言わせない「大人」になること。
 カリカリ、とシャーペンの音だけが、静かすぎる部屋に響く。
 十六歳の夜は、長く、苦しい。
 ただひたすらに、彼女からの「帰るね」という連絡を待ち続けていた。
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