天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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鷲巣益五郎という男

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 腹が痛い。いや、腹だけでなく、口の中も痛い。口の中がざっくりと切れていたのだから痛いのも当然であった。また、腹にしても思い切り蹴り上げられたのだから、これまた痛いのも当然であり、蹴り上げられた脇腹には既に、アザができていた。

(畜生…、こんな目にあうんだったら、助けなきゃあ良かった…)

 鷲巣わしのす益五郎ますごろうは地べたにいつくばりながら、心の中でそんな愚痴ぐちをこぼしていた。益五郎ますごろうが「こんな目」にあったのもひとえに持ち前の義侠心ぎきょうしんゆえであった。

 益五郎ますごろういつくばっている地べた、そこは深川であり、深川と言えば江戸でも指折りの「悪所」で知られていた。それゆえ、喧嘩も絶えず、だからこそ三度の飯より喧嘩が好きな益五郎ますごろうも深川へと足を伸ばしたわけだが、その際、人気ひとけのなくなった場所で数人の無頼ぶらいの徒が一組の男女に絡んでいる様子が益五郎ますごろうの目に留まった。大方おおかた仲睦まかむつまじげに歩いていた男女が無頼ぶらいの徒には目障めざわりだったのであろう。

 ともあれ益五郎ますごろうとしては喧嘩けんかができる絶好の機会とばかり、割って入った。いや、実際には後先も考えずに無頼ぶらいの徒の一人の背中に飛び蹴りを食らわしたのであった。

 だがそれが間違いの元だったことに益五郎ますごろうが気付くのにそう時間はかからなかった。無頼ぶらいの徒は仲間の一人がやられたと知るや、懐から匕首あいくちを取り出し、それまでからんでいた男女のうち、女の方の首筋にその匕首あいくちを突き立てて、益五郎ますごろうの動きを封じたのであった。

 益五郎ますごろうとしてもまさかに無頼ぶらいの徒が女を人質に取るとは思わなかった。それが誤算であった。誤算と言えばもう一つ、からまれていた男は何と、すきを見てその場より逃げ出したのであった。

 てめぇ、それでも男かっ…、益五郎ますごろうは逃げる男の後姿にそう罵声ばせいを浴びせたものの、それで男が引き返してくるはずもなく、益五郎ますごろうのその叫び声は空にむなしく響くだけであった。

 あとはもう、一方的にやられ放題であった。正しく、「サンドバッグ」であった。益五郎ますごろうはまず最初に膝蹴りを食らわされた。膝蹴りをお見舞いしてくれたのは益五郎ますごろうによって飛び蹴りを食らわされた男であり、膝蹴りはその「お礼」であった。

 そうして益五郎ますごろうはせきこみながら腹を押さえて地面に両膝をつくと、今度は顔面を蹴り上げられ、頭からぶっ倒された。

 そしてその後はさしずめ、サッカーボールのように体の至るところを蹴り上げられた。その中には女を人質に取っていた野郎もおり、どうやら益五郎ますごろうを袋叩きにしようと、その一味に加わるべく、女は解放したらしい。

 結局、益五郎ますごろうは男女の身代わりとなる格好でボコボコにされたわけだ。正に人身ひとみ御供ごくう生贄いけにえといったところか。しかも助けた男女はもういない。感謝されずじまいであった。

(まぁ、でも、てめぇで望んだことなんだから…)

 無論、ボコボコにされるのは益五郎ますごろうの本意ではなかったが、しかし、喧嘩というものは負けるケースの方が圧倒的に多かった。喧嘩で連戦連勝など到底、あり得ず、そんなことを自慢げに吹聴ふいちょうするやからはただのほら吹きである。

 ともあれ、益五郎ますごろうは痛む体を引きずるようにして屋敷へと帰って行った。
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