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鷲巣益五郎という男 2
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益五郎の住まう屋敷は小川丁の二番火除地の向かい側にあった。それだけに、と言っては変だが、益五郎は幼い頃より火消し、それも纏持に憧れたものであり、実際、家督を継ぐ前までは同じ小川丁にある定火消の役屋敷で寝泊りしていたものである。
益五郎は仮にも旗本の嫡男である。それも家禄が千石と、中級以上、あるいは上の下に属する旗本の嫡男である。それが定火消の役屋敷で暮らすとは、本来なれば到底、考えられないことであった。
だが、益五郎の父、銕三郎清貞という人物は中々に豪傑であった。
益五郎がまだ十歳の折、元服も済ませていないにもかかわらず、益五郎は火消しと一緒に暮らしたいと言い出したのであった。今から8年前の安永2(1773)年の正月のことであった。
その時、父・銕三郎は中奥番士から小十人頭へと昇進、それも大出世を遂げたばかりであり、それゆえ、家中は皆、益五郎の蛮挙を止めさせようとした。いや、元より相手にする者は誰一人としていなかった。それはそうだろう。旗本の嫡男が火消しと暮らし始めたことが幕府の知るところとなれば、
「旗本の子弟の所業にあらず…」
ということで、鷲巣家に何らかのお咎めがあるやも知れなかったからだ。
だが、意外にも父・銕三郎が倅の蛮挙を認めたのであった。
「若い折には家を出るのも悪くはあるまいて…」
だが家臣は猛反対した。とりわけ家老の上野左大夫はそうであった。
「せっかく御小十人頭に取り立てられたと申しますのに…、そのような折に、若君様がご出奔あそばされれば…、あまつさえ、下賤なる火消しと起居せしことがご公儀の耳にでも届きますれば、お咎めを受けるは必定…、されば殿様は最悪、御役御免の上、差控小普請入りを命ぜられるやも知れず…」
せっかくの大出世もふいにしかねない…、左大夫はそれを案じていたのだ。左大夫がそう案じるのも無理はなく、銕三郎としても己のためにそこまで案じてくれる家臣の意見を無視するわけにはゆかなかった。
そこで銕三郎は妥協案を提示した。
「されば定火消の役屋敷にでも住まわせてはどうだ?定火消の人足…、ガエンなれば下賤ではあるまい?」
なるほど、町火消に比べれば確かにそうかも知れない。定火消とは旗本が任じられ、その旗本の下で消火作業に当たる火消し、いわゆるガエンともなれば、町火消に比べれば下賤ではないやも知れぬが、それはあくまで比較の問題に過ぎず、ガエンと言えども所詮はあくまで火消しに過ぎなかった。とても旗本の子弟が暮らして良い相手ではない。
すると銕三郎は、己のその妥協案に尚も難色を示す左大夫に対して、
「このままでは益五郎はまこと、この屋敷を出奔いたし、町火消どころか、ヤクザの下にわらじを脱ぐやも知れぬぞ?」
脅すような口調でそう告げた。いや、それは脅し文句ではなく、実際の可能性に触れたのであった。益五郎が、「火消しと一緒に暮らしたい…」と一度、そう決めたからには益五郎の性格からして例え親兄弟が反対したところで、ましてや家臣が反対したところで、屋敷を抜け出してでも実行するに違いなかった。
そうなれば火消しと一緒に暮らすどころか、銕三郎が危惧する通り、ヤクザの下にわらじを脱ぐ可能性もあり得た。なるほど、ヤクザも悪くないと、益五郎は傍で聞いてそう思ったものである。
ともあれ、旗本の子弟がヤクザの下にわらじを脱いだりすれば、その時こそ、幕府よりのお咎めは避けられないであろう。御役御免、差控小普請入りどころか、鷲巣家そのものが潰れるやも知れなかった。そうなれば左大夫ら家臣は失業である。
それよりはまだ、定火消の下で暮らさせる方が良いだろうと、左大夫はそう思い直すと、「承知いたしました…」と渋々ではあったが、主君・銕三郎の「妥協案」を承知したのであった。
益五郎は仮にも旗本の嫡男である。それも家禄が千石と、中級以上、あるいは上の下に属する旗本の嫡男である。それが定火消の役屋敷で暮らすとは、本来なれば到底、考えられないことであった。
だが、益五郎の父、銕三郎清貞という人物は中々に豪傑であった。
益五郎がまだ十歳の折、元服も済ませていないにもかかわらず、益五郎は火消しと一緒に暮らしたいと言い出したのであった。今から8年前の安永2(1773)年の正月のことであった。
その時、父・銕三郎は中奥番士から小十人頭へと昇進、それも大出世を遂げたばかりであり、それゆえ、家中は皆、益五郎の蛮挙を止めさせようとした。いや、元より相手にする者は誰一人としていなかった。それはそうだろう。旗本の嫡男が火消しと暮らし始めたことが幕府の知るところとなれば、
「旗本の子弟の所業にあらず…」
ということで、鷲巣家に何らかのお咎めがあるやも知れなかったからだ。
だが、意外にも父・銕三郎が倅の蛮挙を認めたのであった。
「若い折には家を出るのも悪くはあるまいて…」
だが家臣は猛反対した。とりわけ家老の上野左大夫はそうであった。
「せっかく御小十人頭に取り立てられたと申しますのに…、そのような折に、若君様がご出奔あそばされれば…、あまつさえ、下賤なる火消しと起居せしことがご公儀の耳にでも届きますれば、お咎めを受けるは必定…、されば殿様は最悪、御役御免の上、差控小普請入りを命ぜられるやも知れず…」
せっかくの大出世もふいにしかねない…、左大夫はそれを案じていたのだ。左大夫がそう案じるのも無理はなく、銕三郎としても己のためにそこまで案じてくれる家臣の意見を無視するわけにはゆかなかった。
そこで銕三郎は妥協案を提示した。
「されば定火消の役屋敷にでも住まわせてはどうだ?定火消の人足…、ガエンなれば下賤ではあるまい?」
なるほど、町火消に比べれば確かにそうかも知れない。定火消とは旗本が任じられ、その旗本の下で消火作業に当たる火消し、いわゆるガエンともなれば、町火消に比べれば下賤ではないやも知れぬが、それはあくまで比較の問題に過ぎず、ガエンと言えども所詮はあくまで火消しに過ぎなかった。とても旗本の子弟が暮らして良い相手ではない。
すると銕三郎は、己のその妥協案に尚も難色を示す左大夫に対して、
「このままでは益五郎はまこと、この屋敷を出奔いたし、町火消どころか、ヤクザの下にわらじを脱ぐやも知れぬぞ?」
脅すような口調でそう告げた。いや、それは脅し文句ではなく、実際の可能性に触れたのであった。益五郎が、「火消しと一緒に暮らしたい…」と一度、そう決めたからには益五郎の性格からして例え親兄弟が反対したところで、ましてや家臣が反対したところで、屋敷を抜け出してでも実行するに違いなかった。
そうなれば火消しと一緒に暮らすどころか、銕三郎が危惧する通り、ヤクザの下にわらじを脱ぐ可能性もあり得た。なるほど、ヤクザも悪くないと、益五郎は傍で聞いてそう思ったものである。
ともあれ、旗本の子弟がヤクザの下にわらじを脱いだりすれば、その時こそ、幕府よりのお咎めは避けられないであろう。御役御免、差控小普請入りどころか、鷲巣家そのものが潰れるやも知れなかった。そうなれば左大夫ら家臣は失業である。
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