天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

文字の大きさ
88 / 197

稲葉正明、遂に偽証を認める 2

しおりを挟む
「されば池原いけはら長仙院ちょうせんいんに恩を売れば、それがめぐめぐりて、意次にも恩を売ることにつながると、その理屈りくつは分からぬではないが…、何しろ池原いけはら長仙院ちょうせんいんは意次が寵愛ちょうあいせしおくであるのは周知しゅうちの事実だからのう…、その池原いけはら長仙院ちょうせんいんに恩を売れば、長仙院ちょうせんいんの口よりその事が…、正明まさあきらより格別かくべつ配慮はいりょを…、本丸ほんまるおくの身にて、西之丸にしのまるに住まう家基いえもとたかりに同行どうこうすることがかなうことになった、その配慮はいりょたまわったと、そのことが意次の耳に入り、されば意次も正明まさあきら尽力じんりょくとするであろう…、己が寵愛ちょうあいせし池原いけはら長仙院ちょうせんいんのためによく骨を折ってくれたと…」

御意ぎょい…」

「なれど分からぬ…、正明まさあきらよ、何ゆえにそなたはそうまでして意次に恩を売ろうと思うたのだ?」

 家治は勿論もちろん、その理由に察しがついていたものの、しかし、今この場においてはその理由が分からぬ者もいるやも知れず、それゆえ尋ねないわけにはゆかなかったのだ。

「されば…、それがしは御側おそば御用ごよう取次とりつぎとして相役あいやくよりも…、相役あいやく横田よこた筑後ちくごよりも深く、おそれ多くも上様がご寵愛ちょうあいを得たいと、いえ、深くどころか、ひといたしたいと…」

「それをねごうて、まずは意次に恩を売り、次いで意次よりに対して、正明まさあきらがことを…、さしずめ正明まさあきら如何いかに役に立つ者か…、大方おおかたかることをんでもらえるに相違そういないと、左様さように思うて、治済はるさだが話を信じたのか?」

 家治が尋ねると、正明まさあきらは「御意ぎょい」と答え、その上で、

田沼たぬま主殿とのももまた、おそれ多くも上様がご寵愛ちょうあいが厚いゆえ…」

 そう補足ほそくしたのであった。すぐそばでそれを聞いていた意知おきともは気恥ずかしさにおそわれた。

「ふむ…、なれど本丸ほんまるおく池原いけはら長仙院ちょうせんいん家基いえもとたかりにしたがわせしめようと思えば、おく差配さはいせし御膳ごぜん番の小納戸こなんどにそのむね、取り計らわせなければなるまい?」

御意ぎょい。なれど今の御膳ごぜん番の小納戸こなんど大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくにて…、両名とも何よりも前例を重んじる傾向けいこうこれありそうろう…」

「その二人を…、前例を重んじる半五郎はんごろう一學いちがくに対して、たかりの監督かんとくをも勤めしとも番の目付めつけより、前例があると回答させる腹積もりで、そこで末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとも番を兼務けんむさせようと思い立ったわけか?」

御意ぎょい…、いえ、それを思い立ちましたのは一橋ひとつばし殿にて…、それと申しますのも、一橋ひとつばし殿いわく、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんは一橋家と縁があり、それゆえ治済はるさだが申すことなれば何でも聞くと…」

「何と…、治済はるさだ左様さようなことを申したのか?」

御意ぎょい。さればその末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんに対してとも番を兼務けんむさせ、その上で、御膳ごぜん番の小納戸こなんどの、前例を重んじる半五郎はんごろう一學いちがくの両名に、本丸ほんまるおくおそれ多くも大納言だいなごん様…、西之丸にしのまるにおわします大納言だいなごん様がご放鷹ほうようしたがたてまつりし前例ならあると、左様さように答えさせることぐらいわけないとも…」

治済はるさだ左様さようなことまで申したのか?」

御意ぎょい。さればそれがしも一橋ひとつばし殿がそこまで末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんなる目付めつけ影響えいきょう力を行使できるのであればと、それで…」

治済はるさだが話を信じたそなたは若年寄に対して、天の声を降らせたと、そういうわけだな?」

御意ぎょい。いえ、それだけではなく、そこにおります同族どうぞく稲葉いなば主計かずえに対しましても…」

稲葉いなば正存まさよし小納戸こなんど頭取とうどりしゅうとしてその当時より半五郎はんごろう一學いちがくが直属の上司にて、されば正存まさよしにそれな末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん共々ともども半五郎はんごろう一學いちがくへの説得を思い立ったというわけだな?本丸ほんまるおく差配さはいえし御膳ごぜん番の小納戸こなんどとして、本丸ほんまるおく池原いけはら長仙院ちょうせんいん家基いえもとたかりに同行どうこうできるよう取りはからえ、と…」

御意ぎょい…」

「それも治済はるさだ知恵ぢえか?」

「いえ…、これはそれがしの思いつきにて…」

「左様か…、なれど末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんがことを…、前例ぜんれいおもんじる半五郎はんごろう一學いちがくに対して、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんより…、一橋ひとつばし家と縁があり、ゆえに治済はるさだが申し条なれば何でも聞くらしいその、目付めつけである末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんより、前例ぜんれいなれば…、本丸ほんまるおく大納言だいなごんたかりにしたがいしその前例ぜんれいなればあると、そう答えさせるべく、そのためにはたかりをも監督かんとくせしとも番を末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん兼務けんむさせる必要があると、治済はるさだ左様さように申して、正明まさあきらよ、そなたに天の声を…、末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんとも番を兼務けんむさせよと、かる天の声を若年寄を通じて目付めつけに降らせたのであろう?されば治済はるさだは当然、半五郎はんごろう一學いちがくの性格…、前例ぜんれいおもんじると、その性格を把握はあくしていたことにはならぬか?」

 家治は一応、そう尋ねた。一応とは他でもない。治済はるさだが何ゆえにここ中奥なかおくにて将軍たる己につかえる小納戸こなんどの事情にそこまでくわしいのか、その理由に思い当たるふしがあったからだ。

 それでも一応、家治は知らぬ風をよそおい、正明まさあきらに尋ねたのであった。

 果たして正明まさあきらは家治の予想した通りの答えをよこした。

「されば岩本いわもと正五郎しょうごろう正倫まさともがここ中奥なかおくにて小納戸こなんどとしておそれ多くも上様の御側おそば近くにつかたてまつりしゆえに…」

 正明まさあきらがそう答えると、やはりそうかと、家治はそう思った。いや、家治のみならず、誰もがそう思った。それと言うのも数ある小納戸こなんどの中でも岩本いわもと正五郎しょうごろう別格べっかくであったからだ。

 それと言うのも岩本いわもと正五郎しょうごろうの姉こそが治済はるさだ側妾そくしょうにして、豊千代とよちよの実母だからだ。

 そうであれば岩本いわもと正五郎しょうごろうより治済はるさだへと中奥なかおくの事情がそれこそ、

つつけ…」

 その状態であっただろう。そしてその中には勿論もちろん御膳ごぜん番の小納戸こなんどに冠する情報もふくまれていたに違いない。すなわち、今のおく医師いし差配さはいする御膳ごぜん番を兼務けんむする小納戸こなんど大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくの両名が前例ぜんれいおもんじる性格の持ち主であることも当然、治済はるさだつつであっただろう。

 そこで治済はるさだはそんな前例ぜんれいおもんじる、言ってみれば、

前例ぜんれい好き」

 その大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくの両名に対して、本丸ほんまるにて将軍・家治につかえるおく医師いし池原いけはら良誠よしのぶ西之丸にしのまる盟主めいしゅとも言うべき次期将軍の家基いえもとたかりへと同行どうこうさせることを了承りょうしょうさせ、そのように取りはからわせるべく、治済はるさだの言うことであれば何でも聞く目付めつけ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんたかりの監督かんとくをも行うとも番を兼務けんむさせ、その善左衛門ぜんざえもんより半五郎はんごろう一學いちがくに対して、本丸ほんまるおく医師いし西之丸にしのまる盟主めいしゅとも言うべき次期将軍のたかりにしたがった前例ぜんれいならばあると答えさせ、池原いえはら良誠よしのぶ家基いえもとたかりに同行どうこうさせることを認めさせようと、治済はるさだはそう考えたに違いなく、実際、その通りに事を運ぶべく、稲葉いなば正明まさあきらに対して「天の声」を降らせることを陳情ちんじょうしたに違いない。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【時代小説】 黄昏夫婦

蔵屋
歴史・時代
 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

【架空戦記】狂気の空母「浅間丸」逆境戦記

糸冬
歴史・時代
開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし

かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし 長屋シリーズ一作目。 第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。 十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。 頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。 一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。

裏長屋の若殿、限られた自由を満喫する

克全
歴史・時代
貧乏人が肩を寄せ合って暮らす聖天長屋に徳田新之丞と名乗る人品卑しからぬ若侍がいた。月のうち数日しか長屋にいないのだが、いる時には自ら竈で米を炊き七輪で魚を焼く小まめな男だった。

仇討浪人と座頭梅一

克全
歴史・時代
「アルファポリス」「カクヨム」「ノベルバ」に同時投稿しています。 旗本の大道寺長十郎直賢は主君の仇を討つために、役目を辞して犯人につながる情報を集めていた。盗賊桜小僧こと梅一は、目が見えるのに盗みの技の為に盲人といして育てられたが、悪人が許せずに暗殺者との二足の草鞋を履いていた。そんな二人が出会う事で将軍家の陰謀が暴かれることになる。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

処理中です...