天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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稲葉正明の自白

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 一方、正明まさあきらの思わぬ告白を耳にした大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくの両名は正明まさあきらに対して厳しい視線をそそいだ。いや、正明まさあきらに対してだけでなく、正存まさよしに対してもであった。

 それも無理からぬことであった。何しろこれで、大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくの主張の正しさが証明されたからだ。

 すなわち、半五郎はんごろう一學いちがくこそが正明まさあきら正存まさよし、そして善左衛門ぜんざえもんからここ本丸ほんまるにて将軍・家治につかえるおく医師いし池原いけはら良誠よしのぶ家基いえもとたかりに同行させてやれと、そう命じられたとする、半五郎はんごろう一學いちがくの主張の正しさが明らかになったわけで、それは裏を返せば、

池原いけはら良誠よしのぶ家基いえもとたかりに同行どうこうさせたいと言い出したのは大久保おおくぼ半五郎はんごろう吉川よしかわ一學いちがくの方である…」

 正存まさよし正明まさあきらては善左衛門ぜんざえもんり広げたその主張こそうそいつわりというもので、そうであればこれまでの間、正明まさあきら正存まさよし、それに善左衛門ぜんざえもんによって、

ぎぬせられた…」

 それも同然どうぜん半五郎はんごろう一學いちがくが彼らに…、今はもう善左衛門ぜんざえもんはいないので、この場に残っている正明まさあきら正存まさよしの両名に対して厳しい視線をそそいだのは至極しごく当然であった。

 家治もそんな半五郎はんごろう一學いちがく胸中きょうちゅうを十分に察することができたので、

「されば正明まさあきらよ、それに正存まさよしも…、こなたらは半五郎はんごろう一學いちがくの両名に対してぎぬを着せたも同然ぞ。されば半五郎はんごろう一學いちがくの両名に対してびぬか…」

 家治は正明まさあきら正存まさよしの両名に対して、半五郎はんごろう一學いちがくの両名に謝罪するよううながしたのであった。

 それに対して半五郎はんごろう一學いちがくの両名にとっての直属の上司とも言うべき小納戸こなんど頭取とうどりしゅうの一人でもある正存まさよしはその配下に当たる小納戸こなんど半五郎はんごろう一學いちがくの二人に対して謝罪することを流石さすがしぶった。

「何ゆえ小納戸こなんど頭取とうどりしゅうの己が…、小姓こしょう頭取とうどりしゅうよりも立場では上の己が一介いっかいの、それも小姓こしょうよりも序列じょれつが下の小納戸こなんどに対してびを入れなければならないのか…、と。

 だがそんな正存まさよし正明まさあきらおさむ格好で、

「申し訳ない…」

 正明まさあきら半五郎はんごろう一學いちがくの両名に対してびを入れ、のみならず頭を下げてみせたのであった。

 こうなると正存まさよしとて半五郎はんごろう一學いちがくに対して謝らないわけにはゆかなかった。何しろ正明まさあきら正存まさよしにとっては同じ稲葉いなば一族、それも本家ほんけすじに当たるのだ。その上、正明まさあきら御側おそば御用ごよう取次とりつぎにて、小納戸こなんど頭取とうどりしゅう正存まさよしよりもはるかに序列じょれつが上であった。

 その正明まさあきら半五郎はんごろう一學いちがくに対してびを入れているというに、それも頭まで下げているというのに、正明まさあきら分家ぶんけすじに過ぎない、しかも小納戸こなんど頭取とうどりしゅうの一人に過ぎない己はあくまでびを入れぬと、正存まさよしがそのような我意がいつらぬき通せば、正明まさあきら面子めんつつぶすのも同然であり、そうなれば、

御役おやく御免ごめん…」

 正存まさよしに対しては間違いなく、「ツケ」としてそのようにかえってくるであろう。

 それを防ぐためには正存まさよし正明まさあきらならい、半五郎はんごろう一學いちがくの二人に対して頭を下げて許しをうより他に道はなかった。

 そこで正存まさよしは内心、嫌々いやいやではあったが、「申し訳ない…」と半五郎はんごろう一學いちがくの二人に対して頭を下げてびの言葉を口にしたのであった。

 さて家治は正明まさあきら正存まさよしの二人が半五郎はんごろう一學いちがくの両名に対して頭を下げてみせたところで、

半五郎はんごろうよ、それに一學いちがくも…、これにて許してはもらえまいか…」

 家治は半五郎はんごろう一學いちがくに対してそう頼んでみせたのであった。それに対して半五郎はんごろう一學いちがくもそれまで胸にくすぶっていた正明まさあきら正存まさよしに対する怒りの炎が嘘のように消え去り、

滅相めっそうももござりませぬ」

 半五郎はんごろう一學いちがくはそう声をそろえると、二人もまた叩頭こうとうしてみせることで、正明まさあきら正存まさよしの謝罪を受け入れたのであった。

 正明まさあきらにしろ正存まさよしにしろ、半五郎はんごろう一學いちがくの二人に対して、こうしてびを入れる機会きかいめぐまれたことは幸運と言えた。それと言うのも、それとは正反対に、びを入れる機会きかいめぐまれなかった末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんはさしずめ、

「これでまた一歩、破滅はめつへと近付いた…」

 それも同然だからだ。

 さてそれから半五郎はんごろうたちが頭を上げたところで泰行やすゆきが、

末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんめはこのままに、いてもかまわぬので?」

 家治にそう尋ねた。もっともな疑問であった。何しろ末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんもっと公平こうへい中立ちゅうりつが要求される目付めつけというポストにありながら、御三卿ごさんきょう一橋ひとつばし徳川家と縁があり、のみならず、その縁を「バック」にして目付めつけとして、それもとも番としての職務の遂行すいこうに関してこれを故意こいゆがえた可能性があるからだ。

 早い話、本丸ほんまるにて将軍につかえるおく医師いし西之丸にしのまる盟主めいしゅとも言うべき次期将軍のたかりに同行どうこうした前例ぜんれいがないにもかかわらず、あるいはロクに調べもしないで、前例ぜんれいはあると、御膳ごぜん番の小納戸こなんどである半五郎はんごろう一學いちがくに対して虚偽きょぎ、あるいは完全かんぜん答申とうしんを行った疑いがある。それもこれもひとえに、一橋ひとつばし徳川家の当主たる治済はるさだが望んだからであろう。

 そして一橋ひとつばし徳川家と縁があるらしい末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんもそんな治済はるさだ意向いこうを…、本丸ほんまるおく医師いし池原いけはら良誠よしのぶ家基いえもとたかりに同行どうこうさせたいと、その意向いこうみ取ったからこそ、そのようにおく医師いし差配さはいする御膳ごぜん番の小納戸こなんど半五郎はんごろう一學いちがくに対して虚偽きょぎ、あるいは完全かんぜん答申とうしんを行ったものと考えられる。

 そうであれば末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんはその目付めつけとして、何よりも公平こうへい中立ちゅうりつが要求される職務遂行すいこうにおいて故意こいにこれにそむいたと、そう考えてつかえないだろう。

 そうであれば末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんは「背任はいにん」の罪を犯した疑いがあり、泰行やすゆきの言う通り、このまま済ませて良いわけはなかった。

 だが家治は、

「今しばらくの間はおよがせておこうぞ…」

 ただちに末吉すえよし善左衛門ぜんざえもん糾問きゅうもんすることには否定的な見解けんかいを示した。それと言うのも、

末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんめはが先ほど、機嫌きげん良く送り出してやったゆえに、己が説明を…、半五郎はんごろう一學いちがくこそが池原いけはら長仙院ちょうせんいん家基いえもとたかりへの同行どうこうを望んだと、その己の説明をがすっかり信じたものと、すっかりそう信じんでおる様子ようすにて、これを利用せぬ手はあるまいて…」

 家治にしてはめずらしく口元くちもとゆがめてそこ意地いじの悪いみを浮かべた。

 一方、皆は家治のその老獪ろうかいな作戦にひざを打ったものである。

「もしかして…、すっかり上様は俺のうその説明を…、ほんとは治済はるさだが池原の野郎の同行を…、家基いえもと様のたかりを望んだことなのに、そうじゃないという俺のうその説明を信じてくだすった…、そう治済はるさだつなぎを取るかも知れねぇ、ってことですかい?」

 益五郎ますごろうはやはりくだけた調子で、そしてつい治済はるさだと呼び捨てにしたので、これには家治をのぞいた|誰もが度肝どぎもいたものであった。

 やはり意知おきとも益五郎ますごろうのそのあまりな「バサラぶり…」に注意しようとしたのだが、しかし、家治はそんな意知おきともを制するかのように、

如何いかにも益五郎ますごろうが申す通りぞ…」

 そう益五郎ますごろうの主張を認めた上で、呵呵かか大笑たいしょうしてみせた。

「何しろ治済はるさだ重好しげよし殿と同じようにそのおやしきにて一連の事件…、家基いえもと様殺人事件と、それから派生はせいした池原いけはら斬殺ざんさつ事件…、これらの事件が解決するまでの間は、家老なんかと一緒いっしょにそのおやしきにて蟄居ちっきょ謹慎きんしんの身…、だがやしき監視かんしすんのは目付めつけ、つまりは善左衛門ぜんざえもんたちの配下であるかち目付めつけたちだから、目付めつけが…、ぶっちゃけると善左衛門ぜんざえもんが例えば、これからは俺も見張みはりに加わろうとか何とか、適当な口実をつけて邸内ていないに入り込み、そして治済はるさだに…、ってな具合ぐあいつなぎを取るかも知れねぇし…」

 益五郎ますごろうがそう言うと、家治はうなずいてみせ、

「されば末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんめは今しばらくの間、およがえることといたす。それで良いな?」

 家治は改めて皆にそう言い聞かせ、皆もそれに対して平伏へいふくしてこれをりょうとした。これはあん一橋ひとつばし治済はるさだこそが家基いえもと殺し、さらには池原いけはら良誠よしのぶ斬殺ざんさつ事件の下手人げしゅにん黒幕くろまくだと言っているに等しかった。

 それから家治は、「ところで…」と話題を転じた。

正明まさあきらよ。そなたは池原いけはら長仙院ちょうせんいんじかに確かめなんだか?」

まことおそれ多くも大納言だいなごん様がご放鷹ほうようしたがたてまつらんと、それを望んでいるのか、でござりまするな?」

 正明まさあきらは先回りしてそう尋ねた。

左様さよう…」

「されば一橋ひとつばし殿に止められましてござりまする…」

「この池原いけはら長仙院ちょうせんいん一々いちいち、確かめぬ方が良い、とでも?」

御意ぎょい池原いけはら長仙院ちょうせんいん一々いちいち、確かめるような真似まねいたさば、池原いけはら長仙院ちょうせんいんにはおんせがましゅう思われ、されば正明まさあきら折角せっかく尽力じんりょくだいしになると申すものにて、されば正明まさあきら尽力じんりょくにつきてはこの一橋ひとつばし治済はるさだより池原いけはら長仙院ちょうせんいんへと、あるいは直接に田沼主殿とのもに対して申し伝えると…」

 正明まさあきらがそう治済はるさだ口上こうじょうを伝えるや、家治ははなしろんだ。

如何いかにももっともらしい言い分ではあるが、要は正明まさあきらに事実を…、まこと池原いけはら長仙院ちょうせんいん家基いえもとたかりにしたがうことを望んでおるのか、それをそなたに確かめさせたくなかったからであろうよ…」

 家治はそうき捨てた。それに対して正明まさあきらは、「御意ぎょい」と認めつつも、

「さりながら、おそれ多くも大納言だいなごん様がご放鷹ほうようしたがたてまつりしはこの上なき名誉めいよにて、されば池原いけはら長仙院ちょうせんいん自身は喜び申し上げましたるに相違そういなく…」

 そのような「やすめ」を口にしたので、これには家治も苦笑させられ、「やすめを申すでない」と冗談じょうだんめかしてそう言ったものである。
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