天明繚乱 ~次期将軍の座~

品川の東海寺にて家基が口にした茶菓子の毒見を担った小納戸の三浦と石場、給仕を担った大久保への「疑惑」

　だがそれから家治はすぐに真顔まがおに戻もどると、

「それでもまだ、分からぬことがある…」

　難しい顔付きでそう告げたのであった。

「そは一体、何でござりましょうや…」

　準松のりとしが尋ねた。

「されば治済はるさだが池原いけはら長仙院ちょうせんいんを家基いえもとが鷹たか狩がりに従したがわせしめようと図はかった真まことの理由ぞ…」

　家治がそう告げると、「畏おそれながら…」と意知おきともが声を上げた。

「何だ?」

　家治はやはり穏おだやかな口調で促うながした。

「万が一に備そなえてではござりますまいか…」

「万が一、とな?」

「御意ぎょい」

「詳くわしく申してみよ」

「されば…、これよりは一橋ひとつばし殿が畏おそれ多くも大納言だいなごん様を害がいし奉たてまつりしと、その前提ぜんていにて申し上げますことに…」

　一橋ひとつばし治済はるさだこそが家基いえもとを殺した下手人げしゅにん、黒幕くろまくであると、その前提で推理を展開するがそれでも良いかと、意知おきともは家治に対してその許しを求めたのであった。

　すると家治はそれに対して、「許す」と即答そくとうしたものである。のみならず、

「今や…、事ことここに至いたりては一橋ひとつばし治済はるさだ、いや、民部みんぶこそが家基いえもとを死に追いやりし下手人げしゅにんであろうことは最早もはや、論ろんを俟またぬであろうぞ…」

　家治は遂ついにそう言い放った。

　そしてそれに対して異いを唱となえる者は誰一人としていなかった。

　家治の言う通り、治済はるさだは正明まさあきらに対して目付めつけの末吉すえよし善左衛門ぜんざえもんが供とも番を兼務けんむできるよう、若年寄を通じて目付めつけへと、

「天の声」

　を降らせることを求め、そして、池原いけはら良誠よしのぶを家基いえもとの最期さいごの鷹たか狩がりに従したがわせることに成功したのだ。

　このような怪あやしげな動きだけでも十分に家基いえもとを殺した下手人げしゅにん、黒幕くろまくだと認定して一向いっこうに差さし支つかえないだろう。

　ともあれ意知おきともは家治より一橋ひとつばし治済はるさだが家基いえもと殺しの下手人げしゅにん、黒幕くろまくとの前提で推理を展開することの許しが出たので、「さればでござる」と切り出した。

「一橋ひとつばし殿はこの意知おきともが父、意次が寵愛ちょうあいせし池原いけはら長仙院ちょうせんいんを畏おそれ多くも大納言だいなごん様がご放鷹ほうように従したがわせしむることにより、大納言だいなごん様が薨去こうきょにつき…、仮にその死について不審ふしんな点これありと、調べられし場合に備そなえてのことではないかと…」

「つまり…、池原いけはら長仙院ちょうせんいんは潔白けっぱくにもかかわらず、さも、長仙院ちょうせんいんが家基いえもとを害がいしたように…、この場合は一服いっぷく盛もったとそう考えるべきであろうが…、そのように見せかけるため、とな?家基いえもとが死について疑いを持たれた場合に備そなえて、と…、正に今の場合のように…」

　家治が確かめるように尋ねたので意知おきともは、「御意ぎょい…」と答えた。

「されば民部みんぶ…、いや治済はるさだめは家基いえもとが放鷹ほうよう時…、家基いえもとにとりて最期さいごの放鷹ほうよう時に家基いえもとが死ぬることを予期よきしていたということになりはしまいか?」

　家治は薄々うすうす、そうではないかと勘かん付づいてはいたものの、それでも念ねんの為にそう尋ねたのであった。

「御意ぎょい…、されば畏おそれ多くも大納言だいなごん様におかせられましては、ご放鷹ほうようの帰途きと、お立たち寄よりあそばされし品川の東海寺にてご発病とのこと、されば…」

「東海寺にて一服いっぷく盛もられたと?」

「御意ぎょい。されば当日の日記によりますれば、畏おそれ多くも大納言だいなごん様におかせられましては東海寺にて茶ちゃ菓子がしをお召めし上あがりに…、されば宇治うじの抹茶まっちゃ、それに団子だんごと田楽でんがくを…」

　意知おきともがそう告げた途端とたん、家治の目に少し光るものが見えた。それと言うのも鷹たか狩がりの折、団子だんごと田楽でんがくを食する…、それは何を隠そう将軍、いや、父・家治の鷹たか狩がり時における、

「スタイル」

　のようなものであったからだ。家基いえもとは父・家治に倣ならい、もっと言うならば父に近付こうとして、父と同じものを、つまりは団子だんごと田楽でんがくを食したのかと、家治はそう思うと、そのような家基いえもとのいじらしさについ、涙腺るいせんが緩ゆるんでしまったのだ。

　尤もっとも、そこは流石さすがに八代将軍・吉宗の血を受け継いでいる家治である。すぐに武門ぶもんの棟梁とうりょうたる征夷大将軍としての顔を取り戻したものであった。

「して、それな宇治うじの抹茶まっちゃか、あるいは団子だんご、若もしくは田楽でんがくに毒が仕込しこまれていたと申すか?」

「恐らくは…、さればそれら全すべて…、宇治うじの抹茶まっちゃ、団子だんご、そして田楽でんがくに至いたるまで鷹たか狩かりに従したがい奉たてまつりし二人の小納戸こなんどがまず毒見どくみを済ませましたる後、やはり同じく鷹たか狩がりに従したがい奉たてまつりし小姓こしょう…、一人の小姓こしょうが茶ちゃ菓子がしを給仕きゅうじ致いたしましたとのこと…」

「成程なるほど…、仮に茶ちゃ菓子がしに…、宇治うじの抹茶まっちゃか、あるいは団子だんご、若もしくは田楽でんがくの中に毒が仕込しこまれていたのであれば、奥おく医いの池原いけはら長仙院ちょうせんいんが出る幕まくはないのう…、何しろ毒見どくみは小納戸こなんど、給仕きゅうじは小姓こしょうが致いたしたとのことなれば…」

「御意ぎょい…」

「にもかかわらず、池原いけはら長仙院ちょうせんいんがその場にて適切てきせつなる療治りょうちを行い得ず、それゆえさも、池原いけはら長仙院ちょうせんいんが家基いえもとに一服いっぷく盛もったかのように装よそおうた…、治済はるさだは左様さように姦計かんけいを巡めぐらしたと申すのだな?」

「御意ぎょい…、それはひいてはその池原いけはら長仙院ちょうせんいんを寵愛ちょうあいせし愚父ぐふ・意次にも疑いが…」

「何と…、治済はるさだめは意次が池原いけはら長仙院ちょうせんいんを使嗾しそうして家基いえもとを殺させたと、左様さように見せかけようと図はかったと申すか?」

　家治は流石さすがに驚いた様子を覗のぞかせた。さしもの家治もそこまでは読めなかったからだ。

「無論むろん、確かくたる証あかしは何もござりませぬ…、なれど一橋ひとつばし殿が奥おく医いの中でもとりわけ池原いけはら長仙院ちょうせんいんにこだわりし背景はいけいにはやはり…」

「池原いけはら長仙院ちょうせんいんが意次が寵愛ちょうあいを受けし者…、それゆえにこだわったと申すのだな?」

「恐らくは…」

「されば毒見どくみをせし小納戸こなんどか、あるいは給仕きゅうじをせし小姓こしょうが怪あやしいのう…」

　家治がそう考えるのも当然であった。何しろ家基いえもとが口にした茶ちゃ菓子がしに毒が…、何らかの毒が仕込しこまれていたとして、そうであればその茶ちゃ菓子がしに毒を仕込しこむことが出来る者と言えば、毒見どくみ役の小納戸こなんどか、あるいは給仕きゅうじ役の小姓こしょう以外にはあり得なかった。

　だがそこで意知おきともは意外にも難しい顔付きとなった。

「実はそこで一つ問題が…」

　意知おきともは難しい表情でそう切り出した。

　それに対して家治は、「問題とは?」と首をかしげつつ、問い返した。

「されば…、小納戸こなんど…、畏おそれ多くも大納言だいなごん様がお最期さいごのご放鷹ほうように従したがい奉たてまつりし二人の小納戸こなんどは三浦みうら左膳さぜん義和よしかずと石場いしば弾正だんじょう政恒まさつねにて…、同じく小姓こしょうは大久保おおくぼ靱負ゆきえにて…」

　意知おきともがその名を、とりわけ三浦みうら左膳さぜんと大久保おおくぼ靱負ゆきえ、この二人の名を出した途端とたん、皆、驚愕きょうがくの表情を浮かべた。

「大久保おおくぼ靱負ゆきえって…、確かあんた…、稲葉いなば正明まさあきらだっけか?そのあんたが口にした、宮内くない…、重好しげよし殿か…、その重好しげよし殿に仕つかえる叔父おじがいるって、あの大久保おおくぼ靱負ゆきえか?」

　やはり驚愕きょうがくの表情を浮かべた益五郎ますごろうがそう尋ねた。それにしても、

「泣く子も黙る…」

　それ程ほどまでに恐れられている天下の御側おそば御用ごよう取次とりつぎである稲葉いなば正明まさあきらに対して、これを呼び捨ての上、あんた呼ばわりするとは、「バサラ」な益五郎ますごろうにしか出来ない、それも到底とうてい、不可能な芸当げいとうと言えた。

　ともあれ正明まさあきらとしては余あまり思い出したくない過去ではあったものの、それでも事実、その通りであったので、「確か左様さようであったのう…」と実に苦々にがにがしげな表情でそう答えた。

　いや、正明まさあきらが答えるまでもなかった。それと言うのも今、ここには靱負ゆきえの実父じっぷにして、この本丸ほんまるにて御膳ごぜん番の小納戸こなんどとして将軍・家治の御側おそば近くに勤める大久保おおくぼ半五郎はんごろうがいたのだ。正明まさあきらも指摘してきした通り、清水重好しげよしに仕つかえる弟を持つ半五郎はんごろうが…。

　一方、三浦みうら左膳さぜん義和よしかずについては益五郎ますごろうはピンと来こず、あくまで大久保おおくぼ靱負ゆきえの名に驚いたに過ぎなかった。