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田沼意致の回想
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意致はそれから再び、自室へと戻ると、深い溜息をついた。
「やはり…、親父の言う通りだったな…」
溜息をついた意致はそう思った。いや、思っただけに留まらず、実際に口にしていた。
意致がそう思ったのにはわけがあった。それと言うのも、意致の父、意誠がその生前、ずっと一橋治済に対する危惧を口にしていたからだ。
実は意致の父、意誠もまた、一橋家老の重職にあったのだ。つまりは親子二代に亘っての一橋家老というわけで、官職名にしても、
「能登守」
やはり親子二代でその官職名を使っていた。いや、受け継いだと言うべきか。
ともあれ意致の父、意誠もまた一橋家老であったために、ここ一橋邸にて起居していた。
田沼家の屋敷は…、知行800石の旗本・田沼家の屋敷は神田橋の御門外にあるのだが、その神田橋御門内にある屋敷には妻子を残し、一人で、いや、二人でここ一橋邸内に設えられた家老専用の部屋にて起居していた。
もう一人は他でもない、嫡男であった意致である。
意致の父、意誠もまた、一橋家老を務めていたものの、しかし、意誠の場合、附人としての色彩は薄かった。
意致の父、意誠は実は一橋家の譜代、言うなれば、
「プロパー社員」
であった。
意誠は元々は治済の父、一橋宗尹に小姓として仕えていた。
それも宗尹がまだ、「小五郎」を名乗っていた時分…、元服前の享保17(1732)年の4月より仕え始めたのであった。
その頃はまだ、今のように一橋邸は存在しておらず、それゆえ宗尹は江戸城本丸の中奥にて暮らしており、意誠はその頃より、宗尹もとい小五郎に仕えていたのだ。
それが同年…、享保20(1735)年に元服を果たして宗尹と名乗るようになり、そして寛保元(1741)年に今の一橋邸へと移徙、引き移ると、それに伴い、意誠も一橋邸入りを果たし、意誠は小十人頭に任じられ、爾来、意誠は一橋邸内にて目付、用人と累進…、順調に出世を重ね、そして、宝暦9(1759)年の12月に遂に一橋家老の地位へと辿り着いたのであった。
意誠はその間、妻女との間に意致をもうけた。ちょうど、宗尹が一橋邸へと移徙…、引き移ったその年であり、意誠の妻女はお腹を大きくして主・意誠と共に、神田橋御門外にある屋敷から一橋邸へと引き移り、そこで意致を出産したのであった。
意誠は、いや、意誠・意致父子は事程左様に一橋家と「縁」があった。
いや、正確には一橋徳川家の祖・宗尹と「縁」があったと言うべきか。
意誠は宗尹を崇拝しており、宗尹もそんな意誠を大いに寵愛した。
年から言えば、意誠と宗尹はちょうど同い年であった。だからこそ、元服前の宗尹、もとい「小五郎」の小姓として、それも遊び相手の小姓として選ばれ、仕え始めたわけであるが、それでも意誠は決して、
「己の分」
つまりは小五郎、もとい宗尹の家臣としての分際を越えようとはせず、宗尹もそのような意誠に深い信頼を示した。
だからこそ、宝暦元(1751)年に治済が出生するや、治済の父となった宗尹はこの時、既に10歳となった意致に治済の伽を命じたのであった。
治済はこうして、意致や、それに他の面々に囲まれて、いや、傅かれてスクスクと育ったわけだが、成長するにつれて段々と恐ろしい一面を覗かせるようになった。
例えば、そしてこれが最大の恐ろしい一面なのだが、治済は成長するにつれ、生き物を殺すようになった。
いや、生き物を殺すこと自体、よくあることと言えば語弊があるが、一時の感情の赴くままに生き物を殺してしまうこともあるだろう。何しろ、治済は武門に生まれ、そうである以上、つい生き物を弾みで殺してしまうこともあるだろう。
だが治済の場合、一時の感情の赴くままに、或いは弾みで殺してしまったと、そういう類ではなく、生き物の生から死へと移行するその過程にどうやら興奮を覚えている様子が見受けられた。
その一例として、例えば大きな籠の中に犬なり、猫なりを閉じ込めてはその籠を池につけて、籠の中の生き物が水死するのを楽しむといった風情であり、宗尹もそうと気付くと、治済に対して訓戒を与えたものの、しかし、一向に効果がない様子であった。
そこで宗尹は意誠や意致に対して、治済を注意してくれるよう頼んだ。とりわけ意致は治済の伽であったので、
「治済も意致の言葉なれば素直に耳を傾けるに相違あるまいて…」
宗尹はまるで己に言い聞かせるようにそう頼んだのであった。いや、実を言えば、宗尹もこの時点で息・治済のその性癖は、
「矯正し難い…」
そう見切っていたものの、それでも尚、
「一縷の望みをかけて…」
意致に頼んだわけだが、実を言えば、意致もまた、それも宗尹以上に治済のその性癖は、
「矯正し難し…」
そう見切っていたのだ。
それでも主君とも言うべき宗尹の命である以上、家臣の分際で否やはあり得なかった。
いや、正確には意致の父、意誠の主君こそ確かに宗尹ではあるものの、しかし、意致の主君はあくまで宗尹の息・治済であった。
それでも宗尹はその意致が仕える治済の実父である以上、意致としても父、意誠同様、断ることなど出来よう筈もなく、そこで意致は内心、無駄であると見切りをつけつつも、それでも一応、治済に対して訓戒を与えたのであった。
だが結果は芳しいものではなかった。いや、はっきり言って無駄足であった。
「お前は誰に仕えておるのだ?」
意致の訓戒に対して、それが治済の反応であった。その時、治済はまだ10歳に過ぎなかった。にもかかわらず、大人顔負けのこの反応であり、意致もこれ以上の訓戒は無駄と悟ると、あっさりと引き下がり、意致はその上で、告げ口するようで気が引けたものの、それでも治済の反応をそのまま宗尹に伝えた。
「そなたの訓戒に対して治済が如何な反応を示したか、包み隠さずに申せ…」
意致は宗尹からそのようにも命じられていたからだ。
その結果、宗尹は本気で治済の廃嫡を考えた。治済9歳の時、即ち、宝暦10(1760)年の、それも年の瀬であった。
その頃、宗尹には新しい側妾を置いていた。それまでは宗尹は遊歌なる唯一人の側妾を置いており、この遊歌が宗尹との間に治済は元より、治済の兄で後に越前福井藩主の松平重昌の養嗣子として迎えられることになる重富や、或いは重富・治済兄弟の姉に当たる、後に薩摩藩主の島津重豪の室として迎えられることとなる保姫、更にはやはり後に福岡藩主の黒田継高の養嗣子として迎えられることとなる、末弟の治之ら姉兄弟をなしたのであった。
それがここへきて、宗尹は新たに善菊なる側妾を置くに至った。
遊歌は我が子・治済が一橋徳川家の世子に定められるや、正に、
「我が物顔…」
そのような態度を取り始め、それが宗尹には疎ましく感じられた。
宗尹が善菊に手をつけたのはそのような時…、正確には宝暦8(1758)年の時であった。
善菊は船手を務めた美濃部一學茂好の娘であり、宗尹がまだ江戸城にて暮らしていた折には…、寛保元(1741)年の11月まではその善菊は本丸の大奥にて、宗尹附の御客会釈を務めていた。
尤も、御客会釈とは言っても、将軍に附属する御客会釈とは違い、宗尹と同年代であった。
その善菊は宗尹が寛保元(1741)年の11月に江戸城より一橋邸へと移徙…、引き移るのに伴い、他の奥女中…、善菊と同じく宗尹に附属する本丸の大奥の奥女中で、例えば年寄であった岩田や、それに善菊と同じく御客会釈であった松野や崎野といった奥女中らであり、彼女らも善菊と同じく、一橋邸へと引き移ったのであった。
実を言えば宗尹は遊歌に手をつける前から善菊のことが気になっていたのだ。
年齢面で言えば、善菊の方が宗尹よりも一つ上であり、それゆえ宗尹にとってこの善菊はさしずめ姉のような存在であった。
そして善菊にしても宗尹のその視線、その気持ちに気付いていた。
だが、善菊はそれでも御客会釈としての、
「矩」
それを決して越えようとはしなかった。
善菊は大奥時代と同じく、ここ一橋邸においても御客会釈としての職務を続け、そうである以上、主君とも言うべき宗尹から好意を寄せられたとしても、そしてそれに善菊が気付きつつも、善菊はあえて宗尹の想いに応えることはなかった。
尤も、世継は必要である。
宗尹には俊姫顕子という御簾中…、正室がいた。
俊姫顕子は太政大臣まで上りつめた一条兼香の娘であり、宗尹の許へと嫁いだのは寛保2(1742)年の11月、それも25日と、宗尹が一橋邸へと移徙…、引き移ってからちょうど丸1年後のことであった。
それからまた1年後の寛保3(1743)年、宗尹は正室となった俊姫顕子との間に待望の男子を、つまりは嫡男をなしたのであった。
後に重昌となったその嫡男はしかし、一橋徳川家を相続することはなく、何と越前福井藩主であった松平宗矩の許に養嗣子と定められたのであった。それは重昌がまだ、父・宗尹と同じく、
「小五郎…」
その幼名を名乗っていた延享4(1747)年の6月12日のことであった。
これで重昌が次男坊、三男坊と、嫡男でなかったならば、極めて自然な縁組とも言えようが、しかし、小五郎もとい重昌は嫡男、それも正室の生んだ初めての男子であり、そうであれば御家を…、一橋徳川家を継ぐことこそが自然であった。
ところが小五郎もとい重昌にはそれが許されなかった。それもこれもひとえに九代将軍・家重の所為、いや、お蔭であった。
宗尹の実兄に当たる九代将軍・家重が小五郎もとい重昌を越前福井藩主の松平宗矩の養嗣子にと、そう定めたためであった。
それでは家重は何ゆえにそのような不自然極まりない養子縁組を宗尹と、何よりとうの本人とも言うべきその息・重昌に命じたのかと言うと、それはズバリ、
「御三卿潰し…」
その一環であった。いや、正確には、
「一橋家潰し…」
であった。
御三卿…、正確には田安家と一橋家は八代将軍・吉宗が創設した御家であり、尾張、紀州、水戸の御三家に代わる役割を担わされていた。
即ち、将軍家…、それも吉宗の家族として、次期将軍を輩出する家柄として位置づけられ、仮に吉宗の嫡流が絶えた場合にはこの御三卿…、正確には田安家と一橋家のさしずめ、
「御二卿…」
吉宗の傍流であるその二つの御家から次期将軍を輩出することになっていた。
しかし、家重は父・吉宗が創設したこの田安家と一橋家のさしずめ、
「御二卿…」
その二家に対して重大な警戒感を持っていた。
それと言うのも、家重はかつて、弟にして田安家の祖となった宗武に将軍位を狙われたことがあったからだ。
結果として吉宗の「英断」により、何とか家重が九代将軍の座に就くことが叶ったものの、仮に吉宗の「英断」がなければ、どうなっていたか分からなかった。
吉宗としては宗武には将軍位を諦めさせる代わりに、御三家に代わる、その田安家を創設して、その祖…、初代当主に宛がうことにより、将軍になれずに不満に思っているであろう宗武のその不満を和らげたつもりであり、その際、家重、宗武のさらにその下、末弟の宗尹にも一橋家を創設、その祖…、初代当主に据えてやることで、宗尹をも満足させてやったわけだが、しかし、家重からすれば、
「冗談ではない…」
というのが偽らざる心境であった。
吉宗の「情」は結果として、吉宗の嫡流、いや、家重の嫡流を脅かすものだからだ。
当時…、寛保元(1741)年には既に家重には家治という立派な嫡男がいたものの、しかし、これで仮に家治が夭折でもすれば、田安家や、或いは一橋家にも、
「将軍になれるチャンス…」
それが巡ってくるというものであり、家重はそれを警戒していたのだ。
もっと言えば、田安家、或いは一橋家が次期将軍の座を狙って、家治を害そうとするのではあるまいかと、家重はそれを案じており、そこで家重はそれを…、田安家や、或いは一橋家のその「野望」を未然に防止すべく、まず、一橋家に照準を合わせたのであった。
家重が田安家ではなく、一橋家に照準を合わせたのは他でもない、その当時…、延享4(1747)年頃にはまだ、田安家には世継がおらず、一方、一橋家には重昌という世継がいたからで、仮に、田安家と一橋家のうち、どちらが家治を亡き者にして、家治に代わって次期将軍の座を狙うかと言えば、それはやはり、一橋家の方がその可能性があった。
そこで家重はまず、一橋家を継ぐ筈の、ひいては次期将軍になれる「チャンス」に恵まれることになるその重昌を他家へと養子に追いやることで、その芽を潰すことにしたのだ。
御三卿…、この頃はまだ田安家と一橋家の「御二卿」しか存在しておらず、清水家はまだ創立前であったが、ともあれ御三卿は他の大名や旗本、御家人とは違い、例え、世継がいなくとも、
「潰れない…」
という特権を有していたのだ。無嗣…、世継がいない場合には断絶が基本の江戸幕府においては、これは極めて例外的と言えた。
ともあれ、御三卿は各々、その御家を継ぐ者がおらずとも存続し、その場合には御三卿の屋敷も、
「明屋形…」
として存続することとなり、引き続き、幕府より御三卿家老がその屋敷…、明屋形へと派されることとなる。
ともあれそのため、家重も遠慮なく、一橋家を、
「明屋形…」
それに出来るというもので、そこでまず、一橋家を継ぐ筈であった重昌を他家へと…、越前福井へと追いやることで、その「第一歩」としたのであった。
一方、御家を…、一橋徳川家を継げるものとばかり思っていた小五郎もとい重昌は大いに落胆した。いや、この時はまだ、重昌は小五郎を名乗っており、それも延享4(1747)年の6月12日の時点ではまだ、3歳に過ぎなかったので、御家云々は分からなかったやも知れぬが、重昌の実母にして、宗尹の正室の俊姫顕子は大いに落胆したものであった。
何しろ折角、お腹を痛めた我が子・重昌が行く行くは一橋徳川家を相続出来るものとばかり思っていたのが、それが御家門…、親藩とは言え、所詮は越前福井の、それこそ辺鄙な片田舎の許へと追いやられることになったわけだから、俊姫顕子は大いに落胆し、そして落胆の余り、遂に心労に斃れてしまった。
宗尹にしても、兄・家重の思惑は分かっていた。だがそうかと言って、むざむざ兄の思惑通りにさせてなるものかとの思いがわき上がってきた。それは正室の俊姫顕子が心労の余り、斃れたことにより、一層、その思いを強くした。
そこで宗尹は兄・家重のその思惑を打ち砕くべく、更に子作りに励むこととした。
だが、俊姫顕子には最早、夫である宗尹との間に子をなすだけの力が残っておらず、しかし、俊姫顕子とて、思いは夫・宗尹と同じであった。即ち、
「このまま、むざむざと家重の思惑通りになってなるものか…」
俊姫顕子は家重に対して、「リベンジ」を誓い、そこで俊姫顕子は夫・宗尹に側室を持つよう、強くすすめたのであった。正室である己が子を作れない以上、これは止むを得ないことであった。いや、むしろ当然のすすめと言えた。
そこで宗尹としては一橋邸においても、大奥時代と同じく、御客会釈を務めていた善菊を側室にと、そう考えたものの、しかし善菊は宗尹のその想いに気付きつつも、巧みにかわし、年寄の岩田を通じて、遊歌を側室にすすめたのであった。
遊歌は大番士の細田助右衛門時義の娘として、その父・細田助右衛門を宿元として大奥勤めをしており、その際、宗尹もとい小五郎附の奥女中…、中臈に取り立てられ、その小五郎改め宗尹が寛保元(1741)年に江戸城より一橋邸へと移徙…、引き移る際には遊歌も勿論、それに従い、一橋邸においても遊歌は引き続き、中臈を務めることとなり、そうであれば遊歌こそが側室に相応しいと言えた。何しろ側室と言えば、中臈から輩出されるのが不文律であるからだ。
尤も、正室の俊姫顕子が病に斃れるまでは遊歌の出番はなかった。
それが俊姫顕子が病に斃れたことで、それも夫である宗尹との間で子を作るだけの力が最早、残されていないとなってから、漸くに遊歌の出番が巡ってきたというわけだ。
ともあれ遊歌は俊姫顕子の期待に応える格好で、翌年の寛延元(1748)年の6月にはまず保姫を、次いで同年…、5ヶ月後の11月には待望の男児を…、後の重富をなしたのであった。
だが宗尹としては、それ以上に正室の俊姫顕子としてはそれでもまだ安心できなかった。
それと言うのも家重はきっと、重富までも他家へと追いやることで一橋家を継がせないことが予期されたからであり、そしてその予期は…、宗尹・俊姫顕子夫妻のその予期はズバリ正しく、家重はこの重富をも、一橋家を継がせずに他家に追いやる腹積もりであり、実際、宝暦8(1758)年に越前福井へと追いやられた重昌が夭折すると、重富は何と、その重昌の養嗣子として定められたのであった。つまりは兄の養嗣子となったわけだ。
無論、その時点では…、重富が生まれた寛延元(1748)年の時点では宗尹にしろ、俊姫顕子にしろ、そこまでは流石に予期できなかったものの、それでも重富までもが家重によって他家へと追いやられるに違いないと、そこで俊姫顕子は夫・宗尹に対して側室の遊歌との間で更に子を、それも男児をなすよう頼んだのであった。
正室が夫に対して、側室との間で子をなすよう求める光景はこの時代…、江戸時代の武家においてはさして珍しい光景ではなかったが、それでも俊姫顕子の場合は我が子が…、腹を痛めた我が子が御家を継げずに他家へと養子に、要は追いやられたその恨み…、そのように取り計らった九代将軍・家重に対する恨みが何よりも優っていた。
ともあれ夫である宗尹もそんな俊姫顕子の想いを汲み取る格好で、側室の遊歌との間で更に子作りに励み、結果、それから3年後の宝暦元(1751)年には治済を、そして更にその翌年には治之を、それぞれなしたのであった。
尚、その間…、重富が生まれた翌年、即ち、治済が生まれる2年前の寛延2(1749)年に俊姫顕子は病没してしまったが、それでも俊姫顕子が望んだ通り、結果的には治済が一橋家を継ぐことが出来、
「一橋家を明屋形にしてやる…」
家重のその思惑は破れたことになる。
家重にしても如何に将軍と言えども、宗尹が側室の遊歌との間で更になした治済と治之の二人をも他家へと養子として追いやることは無理と悟ったようだった。
「やはり…、親父の言う通りだったな…」
溜息をついた意致はそう思った。いや、思っただけに留まらず、実際に口にしていた。
意致がそう思ったのにはわけがあった。それと言うのも、意致の父、意誠がその生前、ずっと一橋治済に対する危惧を口にしていたからだ。
実は意致の父、意誠もまた、一橋家老の重職にあったのだ。つまりは親子二代に亘っての一橋家老というわけで、官職名にしても、
「能登守」
やはり親子二代でその官職名を使っていた。いや、受け継いだと言うべきか。
ともあれ意致の父、意誠もまた一橋家老であったために、ここ一橋邸にて起居していた。
田沼家の屋敷は…、知行800石の旗本・田沼家の屋敷は神田橋の御門外にあるのだが、その神田橋御門内にある屋敷には妻子を残し、一人で、いや、二人でここ一橋邸内に設えられた家老専用の部屋にて起居していた。
もう一人は他でもない、嫡男であった意致である。
意致の父、意誠もまた、一橋家老を務めていたものの、しかし、意誠の場合、附人としての色彩は薄かった。
意致の父、意誠は実は一橋家の譜代、言うなれば、
「プロパー社員」
であった。
意誠は元々は治済の父、一橋宗尹に小姓として仕えていた。
それも宗尹がまだ、「小五郎」を名乗っていた時分…、元服前の享保17(1732)年の4月より仕え始めたのであった。
その頃はまだ、今のように一橋邸は存在しておらず、それゆえ宗尹は江戸城本丸の中奥にて暮らしており、意誠はその頃より、宗尹もとい小五郎に仕えていたのだ。
それが同年…、享保20(1735)年に元服を果たして宗尹と名乗るようになり、そして寛保元(1741)年に今の一橋邸へと移徙、引き移ると、それに伴い、意誠も一橋邸入りを果たし、意誠は小十人頭に任じられ、爾来、意誠は一橋邸内にて目付、用人と累進…、順調に出世を重ね、そして、宝暦9(1759)年の12月に遂に一橋家老の地位へと辿り着いたのであった。
意誠はその間、妻女との間に意致をもうけた。ちょうど、宗尹が一橋邸へと移徙…、引き移ったその年であり、意誠の妻女はお腹を大きくして主・意誠と共に、神田橋御門外にある屋敷から一橋邸へと引き移り、そこで意致を出産したのであった。
意誠は、いや、意誠・意致父子は事程左様に一橋家と「縁」があった。
いや、正確には一橋徳川家の祖・宗尹と「縁」があったと言うべきか。
意誠は宗尹を崇拝しており、宗尹もそんな意誠を大いに寵愛した。
年から言えば、意誠と宗尹はちょうど同い年であった。だからこそ、元服前の宗尹、もとい「小五郎」の小姓として、それも遊び相手の小姓として選ばれ、仕え始めたわけであるが、それでも意誠は決して、
「己の分」
つまりは小五郎、もとい宗尹の家臣としての分際を越えようとはせず、宗尹もそのような意誠に深い信頼を示した。
だからこそ、宝暦元(1751)年に治済が出生するや、治済の父となった宗尹はこの時、既に10歳となった意致に治済の伽を命じたのであった。
治済はこうして、意致や、それに他の面々に囲まれて、いや、傅かれてスクスクと育ったわけだが、成長するにつれて段々と恐ろしい一面を覗かせるようになった。
例えば、そしてこれが最大の恐ろしい一面なのだが、治済は成長するにつれ、生き物を殺すようになった。
いや、生き物を殺すこと自体、よくあることと言えば語弊があるが、一時の感情の赴くままに生き物を殺してしまうこともあるだろう。何しろ、治済は武門に生まれ、そうである以上、つい生き物を弾みで殺してしまうこともあるだろう。
だが治済の場合、一時の感情の赴くままに、或いは弾みで殺してしまったと、そういう類ではなく、生き物の生から死へと移行するその過程にどうやら興奮を覚えている様子が見受けられた。
その一例として、例えば大きな籠の中に犬なり、猫なりを閉じ込めてはその籠を池につけて、籠の中の生き物が水死するのを楽しむといった風情であり、宗尹もそうと気付くと、治済に対して訓戒を与えたものの、しかし、一向に効果がない様子であった。
そこで宗尹は意誠や意致に対して、治済を注意してくれるよう頼んだ。とりわけ意致は治済の伽であったので、
「治済も意致の言葉なれば素直に耳を傾けるに相違あるまいて…」
宗尹はまるで己に言い聞かせるようにそう頼んだのであった。いや、実を言えば、宗尹もこの時点で息・治済のその性癖は、
「矯正し難い…」
そう見切っていたものの、それでも尚、
「一縷の望みをかけて…」
意致に頼んだわけだが、実を言えば、意致もまた、それも宗尹以上に治済のその性癖は、
「矯正し難し…」
そう見切っていたのだ。
それでも主君とも言うべき宗尹の命である以上、家臣の分際で否やはあり得なかった。
いや、正確には意致の父、意誠の主君こそ確かに宗尹ではあるものの、しかし、意致の主君はあくまで宗尹の息・治済であった。
それでも宗尹はその意致が仕える治済の実父である以上、意致としても父、意誠同様、断ることなど出来よう筈もなく、そこで意致は内心、無駄であると見切りをつけつつも、それでも一応、治済に対して訓戒を与えたのであった。
だが結果は芳しいものではなかった。いや、はっきり言って無駄足であった。
「お前は誰に仕えておるのだ?」
意致の訓戒に対して、それが治済の反応であった。その時、治済はまだ10歳に過ぎなかった。にもかかわらず、大人顔負けのこの反応であり、意致もこれ以上の訓戒は無駄と悟ると、あっさりと引き下がり、意致はその上で、告げ口するようで気が引けたものの、それでも治済の反応をそのまま宗尹に伝えた。
「そなたの訓戒に対して治済が如何な反応を示したか、包み隠さずに申せ…」
意致は宗尹からそのようにも命じられていたからだ。
その結果、宗尹は本気で治済の廃嫡を考えた。治済9歳の時、即ち、宝暦10(1760)年の、それも年の瀬であった。
その頃、宗尹には新しい側妾を置いていた。それまでは宗尹は遊歌なる唯一人の側妾を置いており、この遊歌が宗尹との間に治済は元より、治済の兄で後に越前福井藩主の松平重昌の養嗣子として迎えられることになる重富や、或いは重富・治済兄弟の姉に当たる、後に薩摩藩主の島津重豪の室として迎えられることとなる保姫、更にはやはり後に福岡藩主の黒田継高の養嗣子として迎えられることとなる、末弟の治之ら姉兄弟をなしたのであった。
それがここへきて、宗尹は新たに善菊なる側妾を置くに至った。
遊歌は我が子・治済が一橋徳川家の世子に定められるや、正に、
「我が物顔…」
そのような態度を取り始め、それが宗尹には疎ましく感じられた。
宗尹が善菊に手をつけたのはそのような時…、正確には宝暦8(1758)年の時であった。
善菊は船手を務めた美濃部一學茂好の娘であり、宗尹がまだ江戸城にて暮らしていた折には…、寛保元(1741)年の11月まではその善菊は本丸の大奥にて、宗尹附の御客会釈を務めていた。
尤も、御客会釈とは言っても、将軍に附属する御客会釈とは違い、宗尹と同年代であった。
その善菊は宗尹が寛保元(1741)年の11月に江戸城より一橋邸へと移徙…、引き移るのに伴い、他の奥女中…、善菊と同じく宗尹に附属する本丸の大奥の奥女中で、例えば年寄であった岩田や、それに善菊と同じく御客会釈であった松野や崎野といった奥女中らであり、彼女らも善菊と同じく、一橋邸へと引き移ったのであった。
実を言えば宗尹は遊歌に手をつける前から善菊のことが気になっていたのだ。
年齢面で言えば、善菊の方が宗尹よりも一つ上であり、それゆえ宗尹にとってこの善菊はさしずめ姉のような存在であった。
そして善菊にしても宗尹のその視線、その気持ちに気付いていた。
だが、善菊はそれでも御客会釈としての、
「矩」
それを決して越えようとはしなかった。
善菊は大奥時代と同じく、ここ一橋邸においても御客会釈としての職務を続け、そうである以上、主君とも言うべき宗尹から好意を寄せられたとしても、そしてそれに善菊が気付きつつも、善菊はあえて宗尹の想いに応えることはなかった。
尤も、世継は必要である。
宗尹には俊姫顕子という御簾中…、正室がいた。
俊姫顕子は太政大臣まで上りつめた一条兼香の娘であり、宗尹の許へと嫁いだのは寛保2(1742)年の11月、それも25日と、宗尹が一橋邸へと移徙…、引き移ってからちょうど丸1年後のことであった。
それからまた1年後の寛保3(1743)年、宗尹は正室となった俊姫顕子との間に待望の男子を、つまりは嫡男をなしたのであった。
後に重昌となったその嫡男はしかし、一橋徳川家を相続することはなく、何と越前福井藩主であった松平宗矩の許に養嗣子と定められたのであった。それは重昌がまだ、父・宗尹と同じく、
「小五郎…」
その幼名を名乗っていた延享4(1747)年の6月12日のことであった。
これで重昌が次男坊、三男坊と、嫡男でなかったならば、極めて自然な縁組とも言えようが、しかし、小五郎もとい重昌は嫡男、それも正室の生んだ初めての男子であり、そうであれば御家を…、一橋徳川家を継ぐことこそが自然であった。
ところが小五郎もとい重昌にはそれが許されなかった。それもこれもひとえに九代将軍・家重の所為、いや、お蔭であった。
宗尹の実兄に当たる九代将軍・家重が小五郎もとい重昌を越前福井藩主の松平宗矩の養嗣子にと、そう定めたためであった。
それでは家重は何ゆえにそのような不自然極まりない養子縁組を宗尹と、何よりとうの本人とも言うべきその息・重昌に命じたのかと言うと、それはズバリ、
「御三卿潰し…」
その一環であった。いや、正確には、
「一橋家潰し…」
であった。
御三卿…、正確には田安家と一橋家は八代将軍・吉宗が創設した御家であり、尾張、紀州、水戸の御三家に代わる役割を担わされていた。
即ち、将軍家…、それも吉宗の家族として、次期将軍を輩出する家柄として位置づけられ、仮に吉宗の嫡流が絶えた場合にはこの御三卿…、正確には田安家と一橋家のさしずめ、
「御二卿…」
吉宗の傍流であるその二つの御家から次期将軍を輩出することになっていた。
しかし、家重は父・吉宗が創設したこの田安家と一橋家のさしずめ、
「御二卿…」
その二家に対して重大な警戒感を持っていた。
それと言うのも、家重はかつて、弟にして田安家の祖となった宗武に将軍位を狙われたことがあったからだ。
結果として吉宗の「英断」により、何とか家重が九代将軍の座に就くことが叶ったものの、仮に吉宗の「英断」がなければ、どうなっていたか分からなかった。
吉宗としては宗武には将軍位を諦めさせる代わりに、御三家に代わる、その田安家を創設して、その祖…、初代当主に宛がうことにより、将軍になれずに不満に思っているであろう宗武のその不満を和らげたつもりであり、その際、家重、宗武のさらにその下、末弟の宗尹にも一橋家を創設、その祖…、初代当主に据えてやることで、宗尹をも満足させてやったわけだが、しかし、家重からすれば、
「冗談ではない…」
というのが偽らざる心境であった。
吉宗の「情」は結果として、吉宗の嫡流、いや、家重の嫡流を脅かすものだからだ。
当時…、寛保元(1741)年には既に家重には家治という立派な嫡男がいたものの、しかし、これで仮に家治が夭折でもすれば、田安家や、或いは一橋家にも、
「将軍になれるチャンス…」
それが巡ってくるというものであり、家重はそれを警戒していたのだ。
もっと言えば、田安家、或いは一橋家が次期将軍の座を狙って、家治を害そうとするのではあるまいかと、家重はそれを案じており、そこで家重はそれを…、田安家や、或いは一橋家のその「野望」を未然に防止すべく、まず、一橋家に照準を合わせたのであった。
家重が田安家ではなく、一橋家に照準を合わせたのは他でもない、その当時…、延享4(1747)年頃にはまだ、田安家には世継がおらず、一方、一橋家には重昌という世継がいたからで、仮に、田安家と一橋家のうち、どちらが家治を亡き者にして、家治に代わって次期将軍の座を狙うかと言えば、それはやはり、一橋家の方がその可能性があった。
そこで家重はまず、一橋家を継ぐ筈の、ひいては次期将軍になれる「チャンス」に恵まれることになるその重昌を他家へと養子に追いやることで、その芽を潰すことにしたのだ。
御三卿…、この頃はまだ田安家と一橋家の「御二卿」しか存在しておらず、清水家はまだ創立前であったが、ともあれ御三卿は他の大名や旗本、御家人とは違い、例え、世継がいなくとも、
「潰れない…」
という特権を有していたのだ。無嗣…、世継がいない場合には断絶が基本の江戸幕府においては、これは極めて例外的と言えた。
ともあれ、御三卿は各々、その御家を継ぐ者がおらずとも存続し、その場合には御三卿の屋敷も、
「明屋形…」
として存続することとなり、引き続き、幕府より御三卿家老がその屋敷…、明屋形へと派されることとなる。
ともあれそのため、家重も遠慮なく、一橋家を、
「明屋形…」
それに出来るというもので、そこでまず、一橋家を継ぐ筈であった重昌を他家へと…、越前福井へと追いやることで、その「第一歩」としたのであった。
一方、御家を…、一橋徳川家を継げるものとばかり思っていた小五郎もとい重昌は大いに落胆した。いや、この時はまだ、重昌は小五郎を名乗っており、それも延享4(1747)年の6月12日の時点ではまだ、3歳に過ぎなかったので、御家云々は分からなかったやも知れぬが、重昌の実母にして、宗尹の正室の俊姫顕子は大いに落胆したものであった。
何しろ折角、お腹を痛めた我が子・重昌が行く行くは一橋徳川家を相続出来るものとばかり思っていたのが、それが御家門…、親藩とは言え、所詮は越前福井の、それこそ辺鄙な片田舎の許へと追いやられることになったわけだから、俊姫顕子は大いに落胆し、そして落胆の余り、遂に心労に斃れてしまった。
宗尹にしても、兄・家重の思惑は分かっていた。だがそうかと言って、むざむざ兄の思惑通りにさせてなるものかとの思いがわき上がってきた。それは正室の俊姫顕子が心労の余り、斃れたことにより、一層、その思いを強くした。
そこで宗尹は兄・家重のその思惑を打ち砕くべく、更に子作りに励むこととした。
だが、俊姫顕子には最早、夫である宗尹との間に子をなすだけの力が残っておらず、しかし、俊姫顕子とて、思いは夫・宗尹と同じであった。即ち、
「このまま、むざむざと家重の思惑通りになってなるものか…」
俊姫顕子は家重に対して、「リベンジ」を誓い、そこで俊姫顕子は夫・宗尹に側室を持つよう、強くすすめたのであった。正室である己が子を作れない以上、これは止むを得ないことであった。いや、むしろ当然のすすめと言えた。
そこで宗尹としては一橋邸においても、大奥時代と同じく、御客会釈を務めていた善菊を側室にと、そう考えたものの、しかし善菊は宗尹のその想いに気付きつつも、巧みにかわし、年寄の岩田を通じて、遊歌を側室にすすめたのであった。
遊歌は大番士の細田助右衛門時義の娘として、その父・細田助右衛門を宿元として大奥勤めをしており、その際、宗尹もとい小五郎附の奥女中…、中臈に取り立てられ、その小五郎改め宗尹が寛保元(1741)年に江戸城より一橋邸へと移徙…、引き移る際には遊歌も勿論、それに従い、一橋邸においても遊歌は引き続き、中臈を務めることとなり、そうであれば遊歌こそが側室に相応しいと言えた。何しろ側室と言えば、中臈から輩出されるのが不文律であるからだ。
尤も、正室の俊姫顕子が病に斃れるまでは遊歌の出番はなかった。
それが俊姫顕子が病に斃れたことで、それも夫である宗尹との間で子を作るだけの力が最早、残されていないとなってから、漸くに遊歌の出番が巡ってきたというわけだ。
ともあれ遊歌は俊姫顕子の期待に応える格好で、翌年の寛延元(1748)年の6月にはまず保姫を、次いで同年…、5ヶ月後の11月には待望の男児を…、後の重富をなしたのであった。
だが宗尹としては、それ以上に正室の俊姫顕子としてはそれでもまだ安心できなかった。
それと言うのも家重はきっと、重富までも他家へと追いやることで一橋家を継がせないことが予期されたからであり、そしてその予期は…、宗尹・俊姫顕子夫妻のその予期はズバリ正しく、家重はこの重富をも、一橋家を継がせずに他家に追いやる腹積もりであり、実際、宝暦8(1758)年に越前福井へと追いやられた重昌が夭折すると、重富は何と、その重昌の養嗣子として定められたのであった。つまりは兄の養嗣子となったわけだ。
無論、その時点では…、重富が生まれた寛延元(1748)年の時点では宗尹にしろ、俊姫顕子にしろ、そこまでは流石に予期できなかったものの、それでも重富までもが家重によって他家へと追いやられるに違いないと、そこで俊姫顕子は夫・宗尹に対して側室の遊歌との間で更に子を、それも男児をなすよう頼んだのであった。
正室が夫に対して、側室との間で子をなすよう求める光景はこの時代…、江戸時代の武家においてはさして珍しい光景ではなかったが、それでも俊姫顕子の場合は我が子が…、腹を痛めた我が子が御家を継げずに他家へと養子に、要は追いやられたその恨み…、そのように取り計らった九代将軍・家重に対する恨みが何よりも優っていた。
ともあれ夫である宗尹もそんな俊姫顕子の想いを汲み取る格好で、側室の遊歌との間で更に子作りに励み、結果、それから3年後の宝暦元(1751)年には治済を、そして更にその翌年には治之を、それぞれなしたのであった。
尚、その間…、重富が生まれた翌年、即ち、治済が生まれる2年前の寛延2(1749)年に俊姫顕子は病没してしまったが、それでも俊姫顕子が望んだ通り、結果的には治済が一橋家を継ぐことが出来、
「一橋家を明屋形にしてやる…」
家重のその思惑は破れたことになる。
家重にしても如何に将軍と言えども、宗尹が側室の遊歌との間で更になした治済と治之の二人をも他家へと養子として追いやることは無理と悟ったようだった。
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