天明繚乱 ~次期将軍の座~

ご隠居

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田沼意致の回想

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 意致おきむねはそれからふたたび、自室じしつへともどると、深い溜息ためいきをついた。

「やはり…、親父おやじの言う通りだったな…」

 溜息ためいきをついた意致おきむねはそう思った。いや、思っただけにとどまらず、実際に口にしていた。

 意致おきむねがそう思ったのにはわけがあった。それと言うのも、意致おきむねの父、意誠おきのぶがその生前せいぜん、ずっと一橋ひとつばし治済はるさだに対する危惧きぐを口にしていたからだ。

 実は意致おきむねの父、意誠おきのぶもまた、一橋ひとつばし家老かろう重職じゅうしょくにあったのだ。つまりは親子二代にわたっての一橋ひとつばし家老かろうというわけで、官職かんしょく名にしても、

能登守のとのかみ

 やはり親子二代でその官職かんしょく名を使っていた。いや、いだと言うべきか。

 ともあれ意致おきむねの父、意誠おきのぶもまた一橋ひとつばし家老かろうであったために、ここ一橋ひとつばし邸にて起居ききょしていた。

 田沼家の屋敷やしきは…、知行ちぎょう800石の旗本・田沼家の屋敷やしき神田かんだばし門外もんそとにあるのだが、その神田かんだばし門内もんないにある屋敷やしきにはさいのこし、一人で、いや、二人でここ一橋ひとつばし邸内ていないしつらえられた家老かろう専用の部屋にて起居ききょしていた。

 もう一人は他でもない、嫡男ちゃくなんであった意致おきむねである。

 意致おきむねの父、意誠おきのぶもまた、一橋ひとつばし家老かろうつとめていたものの、しかし、意誠おきのぶの場合、附人つけびととしての色彩しきさいうすかった。

 意致おきむねの父、意誠おきのぶは実は一橋ひとつばし家の譜代ふだい、言うなれば、

「プロパー社員」

 であった。

 意誠おきのぶ元々もともと治済はるさだの父、一橋ひとつばし宗尹むねただ小姓こしょうとしてつかえていた。

 それも宗尹むねただがまだ、「小五郎こごろう」を名乗なのっていた時分じぶん…、元服げんぷく前の享保きょうほう17(1732)年の4月よりつかえ始めたのであった。

 その頃はまだ、今のように一橋ひとつばし邸は存在そんざいしておらず、それゆえ宗尹むねただは江戸城本丸ほんまる中奥なかおくにてらしており、意誠おきのぶはその頃より、宗尹むねただもとい小五郎こごろうつかえていたのだ。

 それが同年…、享保きょうほう20(1735)年に元服げんぷくたして宗尹むねただ名乗なのるようになり、そして寛保かんぽう元(1741)年に今の一橋ひとつばし邸へと移徙いし、引き移ると、それにともない、意誠おきのぶ一橋ひとつばし邸入りをたし、意誠おきのぶじゅうにんがしらにんじられ、爾来じらい意誠おきのぶ一橋ひとつばし邸内ていないにて目付めつけ用人ようにん累進るいしん…、順調じゅんちょうに出世をかさね、そして、宝暦ほうれき9(1759)年の12月につい一橋ひとつばし家老かろうの地位へと辿たどいたのであった。

 意誠おきのぶはその間、妻女さいじょとの間に意致おきむねをもうけた。ちょうど、宗尹むねただ一橋ひとつばし邸へと移徙いし…、引き移ったその年であり、意誠おきのぶ妻女さいじょはお腹を大きくしてあるじ意誠おきのぶと共に、神田かんだばし門外もんそとにある屋敷やしきから一橋ひとつばし邸へと引き移り、そこで意致おきむね出産しゅっさんしたのであった。

 意誠おきのぶは、いや、意誠おきのぶ意致おきむね父子ふし事程ことほどよう一橋ひとつばし家と「縁」があった。

 いや、正確には一橋ひとつばし徳川家の祖・宗尹むねただと「縁」があったと言うべきか。

 意誠おきのぶ宗尹むねただ崇拝すうはいしており、宗尹むねただもそんな意誠おきのぶを大いに寵愛ちょうあいした。

 年から言えば、意誠おきのぶ宗尹むねただはちょうどおなどしであった。だからこそ、元服げんぷく前の宗尹むねただ、もとい「小五郎こごろう」の小姓こしょうとして、それも遊び相手の小姓こしょうとして選ばれ、つかえ始めたわけであるが、それでも意誠おきのぶは決して、

おのれぶん

 つまりは小五郎こごろう、もとい宗尹むねただ家臣かしんとしての分際ぶんざいえようとはせず、宗尹むねただもそのような意誠おきのぶに深い信頼しんらいを示した。

 だからこそ、宝暦ほうれき元(1751)年に治済はるさだ出生しゅっしょうするや、治済はるさだの父となった宗尹むねただはこの時、すでに10歳となった意致おきむね治済はるさだとぎを命じたのであった。

 治済はるさだはこうして、意致おきむねや、それに他の面々めんめんかこまれて、いや、かしずかれてスクスクと育ったわけだが、成長するにつれて段々だんだんと恐ろしい一面いちめんのぞかせるようになった。

 例えば、そしてこれが最大の恐ろしい一面いちめんなのだが、治済はるさだは成長するにつれ、生き物を殺すようになった。

 いや、生き物を殺すこと自体じたい、よくあることと言えば語弊ごへいがあるが、一時いっときの感情のおもむくままに生き物を殺してしまうこともあるだろう。何しろ、治済はるさだ武門ぶもんに生まれ、そうである以上、つい生き物をはずみで殺してしまうこともあるだろう。

 だが治済はるさだの場合、一時いっときの感情のおもむくままに、あるいははずみで殺してしまったと、そういうたぐいではなく、生き物の生から死へと移行いこうするその過程かていにどうやら興奮こうふんを覚えている様子が見受みうけられた。

 その一例として、例えば大きなかごの中に犬なり、猫なりを閉じ込めてはそのかごを池につけて、かごの中の生き物が水死するのを楽しむといった風情ふぜいであり、宗尹むねただもそうと気付くと、治済はるさだに対して訓戒くんかいを与えたものの、しかし、一向いっこう効果こうかがない様子であった。

 そこで宗尹むねただ意誠おきのぶ意致おきむねに対して、治済はるさだを注意してくれるようたのんだ。とりわけ意致おきむね治済はるさだとぎであったので、

治済はるさだ意致おきむねの言葉なれば素直すなおに耳をかたむけるに相違そういあるまいて…」

 宗尹むねただはまるで己に言い聞かせるようにそうたのんだのであった。いや、実を言えば、宗尹むねただもこの時点じてんそく治済はるさだのその性癖せいへきは、

矯正きょうせいがたい…」

 そう見切みきっていたものの、それでもなお

一縷いちるのぞみをかけて…」

 意致おきむねたのんだわけだが、実を言えば、意致おきむねもまた、それも宗尹むねただ以上に治済はるさだのその性癖せいへきは、

矯正きょうせいがたし…」

 そう見切みきっていたのだ。

 それでもしゅくんとも言うべき宗尹むねただの命である以上、家臣かしん分際ぶんざいいなやはありなかった。

 いや、正確せいかくには意致おきむねの父、意誠おきのぶしゅくんこそ確かに宗尹むねただではあるものの、しかし、意致おきむねしゅくんはあくまで宗尹むねただそく治済はるさだであった。

 それでも宗尹むねただはその意致おきむねつかえる治済はるさだ実父じっぷである以上、意致おきむねとしても父、意誠おきのぶ同様どうよう、断ることなど出来できようはずもなく、そこで意致おきむね内心ないしん無駄むだであると見切みきりをつけつつも、それでも一応いちおう治済はるさだに対して訓戒くんかいあたえたのであった。

 だが結果はかんばしいものではなかった。いや、はっきり言って無駄むだあしであった。

「お前は誰につかえておるのだ?」

 意致おきむね訓戒くんかいに対して、それが治済はるさだ反応はんのうであった。その時、治済はるさだはまだ10歳に過ぎなかった。にもかかわらず、大人顔負けのこの反応はんのうであり、意致おきむねもこれ以上の訓戒くんかい無駄むださとると、あっさりと引き下がり、意致おきむねはその上で、告げ口するようで気が引けたものの、それでも治済はるさだ反応はんのうをそのまま宗尹むねただに伝えた。

「そなたの訓戒くんかいに対して治済はるさだ如何いか反応はんのうを示したか、つつかくさずに申せ…」

 意致おきむね宗尹むねただからそのようにも命じられていたからだ。

 その結果、宗尹むねただは本気で治済はるさだ廃嫡はいちゃくを考えた。治済はるさだ9歳の時、すなわち、宝暦ほうれき10(1760)年の、それもとしであった。

 その頃、宗尹むねただには新しいそくしょうを置いていた。それまでは宗尹むねただ遊歌ゆかなるただ一人ひとりそくしょうを置いており、この遊歌ゆか宗尹むねただとの間に治済はるさだは元より、治済はるさだの兄で後に越前福井藩主の松平まつだいら重昌しげまさよう嗣子ししとしてむかえられることになる重富しげとみや、あるいは重富しげとみ治済はるさだ兄弟の姉に当たる、後に薩摩さつま藩主の島津しまづ重豪しげひでしつとしてむかえられることとなる保姫やすひめさらにはやはり後に福岡ふくおか藩主の黒田くろだ継高つぐたかよう嗣子ししとしてむかえられることとなる、末弟まってい治之はるゆきら姉兄弟をなしたのであった。

 それがここへきて、宗尹むねただは新たに善菊ぜんぎくなるそくしょうを置くにいたった。

 遊歌ゆかは我が子・治済はるさだ一橋ひとつばし徳川家の世子せいしさだめられるや、まさに、

物顔ものがお…」

 そのような態度を取り始め、それが宗尹むねただにはうとましく感じられた。

 宗尹むねただ善菊ぜんぎくに手をつけたのはそのような時…、正確せいかくには宝暦ほうれき8(1758)年の時であった。

 善菊ぜんぎくふなつとめた美濃部みのべ一學いちがく茂好しげよしの娘であり、宗尹むねただがまだ江戸城にてらしていたおりには…、寛保かんぽう元(1741)年の11月まではその善菊ぜんぎく本丸ほんまるの大奥にて、宗尹むねただづき御客おきゃく会釈あしらいつとめていた。

 もっとも、御客おきゃく会釈あしらいとは言っても、将軍に附属ふぞくする御客おきゃく会釈あしらいとは違い、宗尹むねただと同年代であった。

 その善菊ぜんぎく宗尹むねただ寛保かんぽう元(1741)年の11月に江戸城より一橋ひとつばし邸へと移徙いし…、引き移るのにともない、他の奥女おくじょちゅう…、善菊ぜんぎくと同じく宗尹むねただ附属ふぞくする本丸ほんまるの大奥の奥女おくじょちゅうで、例えば年寄としよりであった岩田いわたや、それに善菊ぜんぎくと同じく御客おきゃく会釈あしらいであった松野まつの崎野さきのといった奥女おくじょちゅうらであり、彼女らも善菊ぜんぎくと同じく、一橋ひとつばし邸へと引き移ったのであった。

 実を言えば宗尹むねただ遊歌ゆかに手をつける前から善菊ぜんぎくのことが気になっていたのだ。

 年齢面で言えば、善菊ぜんぎくの方が宗尹むねただよりも一つ上であり、それゆえ宗尹むねただにとってこの善菊ぜんぎくはさしずめ姉のような存在そんざいであった。

 そして善菊ぜんぎくにしても宗尹むねただのその視線しせん、その気持ちに気付いていた。

 だが、善菊ぜんぎくはそれでも御客おきゃく会釈あしらいとしての、

のり

 それを決してえようとはしなかった。

 善菊ぜんぎくは大奥時代と同じく、ここ一橋ひとつばし邸においても御客おきゃく会釈あしらいとしての職務を続け、そうである以上、主君しゅくんとも言うべき宗尹むねただから好意こういせられたとしても、そしてそれに善菊ぜんぎくが気付きつつも、善菊ぜんぎくはあえて宗尹むねただおもいにこたえることはなかった。

 もっとも、世継よつぎは必要である。

 宗尹むねただには俊姫としひめあきというれんじゅう…、正室せいしつがいた。

 俊姫としひめあき太政だじょう大臣まで上りつめた一条いちじょう兼香かねかの娘であり、宗尹むねただもとへととついだのは寛保かんぽう2(1742)年の11月、それも25日と、宗尹むねただ一橋ひとつばし邸へと移徙いし…、引き移ってからちょうど丸1年後のことであった。

 それからまた1年後の寛保かんぽう3(1743)年、宗尹むねただ正室せいしつとなった俊姫としひめあきとの間に待望たいぼうの男子を、つまりは嫡男ちゃくなんをなしたのであった。

 のち重昌しげまさとなったそのちゃくなんはしかし、一橋ひとつばし徳川家を相続することはなく、何と越前えちぜん福井藩主であった松平まつだいら宗矩むねのりもとよう嗣子ししと定められたのであった。それは重昌しげまさがまだ、父・宗尹むねただと同じく、

小五郎こごろう…」

 そのようみょう名乗なのっていた延享えんきょう4(1747)年の6月12日のことであった。

 これで重昌しげまさが次男坊、三男坊と、ちゃくなんでなかったならば、きわめて自然な縁組えんぐみとも言えようが、しかし、小五郎こごろうもとい重昌しげまさちゃくなん、それも正室せいしつの生んだ初めての男子であり、そうであればいえを…、一橋ひとつばし徳川家をぐことこそが自然であった。

 ところが小五郎こごろうもとい重昌しげまさにはそれが許されなかった。それもこれもひとえに九代将軍・家重いえしげ所為せい、いや、おかげであった。

 宗尹むねただ実兄じっけいに当たる九代将軍・家重が小五郎こごろうもとい重昌しげまさ越前えちぜん福井藩主の松平まつだいら宗矩むねのりよう嗣子ししにと、そう定めたためであった。

 それでは家重いえしげは何ゆえにそのような不自ふしぜんきわまりないよう縁組えんぐみ宗尹むねただと、何よりとうの本人とも言うべきそのそく重昌しげまさに命じたのかと言うと、それはズバリ、

さんきょうつぶし…」

 その一環いっかんであった。いや、正確せいかくには、

一橋ひとつばしつぶし…」

 であった。

 さんきょう…、正確せいかくには田安たやす家と一橋ひとつばし家は八代将軍・吉宗が創設そうせつしたいえであり、尾張おわり紀州きしゅう水戸みとさんわる役割をになわされていた。

 すなわち、将軍家…、それも吉宗の家族として、次期将軍をはいしゅつする家柄いえがらとして位置いちづけられ、仮に吉宗の嫡流ちゃくりゅうえた場合にはこのさんきょう…、正確せいかくには田安たやす家と一橋ひとつばし家のさしずめ、

きょう…」

 吉宗のぼうりゅうであるその二つのいえから次期将軍をはいしゅつすることになっていた。

 しかし、家重いえしげは父・吉宗が創設そうせつしたこの田安たやす家と一橋ひとつばし家のさしずめ、

きょう…」

 その二家にけに対して重大な警戒けいかい感を持っていた。

 それと言うのも、家重いえしげはかつて、弟にして田安たやす家のとなった宗武むねたけに将軍位をねらわれたことがあったからだ。

 結果として吉宗の「英断えいだん」により、何とか家重いえしげが九代将軍の座にくことがかなったものの、仮に吉宗の「英断えいだん」がなければ、どうなっていたか分からなかった。

 吉宗としては宗武むねたけには将軍位をあきらめさせるわりに、御三家にわる、その田安たやす家を創設そうせつして、その…、初代当主にあてがうことにより、将軍になれずにまんに思っているであろう宗武むねたけのそのまんやわらげたつもりであり、その際、家重いえしげ宗武むねたけのさらにその下、末弟まってい宗尹むねただにも一橋ひとつばし家を創設そうせつ、その…、初代当主にえてやることで、宗尹むねただをも満足まんぞくさせてやったわけだが、しかし、家重いえしげからすれば、

じょうだんではない…」

 というのがいつわらざるしんきょうであった。

 吉宗の「なさけ」は結果として、吉宗の嫡流ちゃくりゅう、いや、家重いえしげ嫡流ちゃくりゅうおびやかすものだからだ。

 当時とうじ…、寛保かんぽう元(1741)年にはすで家重いえしげには家治という立派な嫡男ちゃくなんがいたものの、しかし、これで仮に家治が夭折ようせつでもすれば、田安たやす家や、あるいは一橋ひとつばし家にも、

「将軍になれるチャンス…」

 それがめぐってくるというものであり、家重いえしげはそれを警戒けいかいしていたのだ。

 もっと言えば、田安たやす家、あるいは一橋ひとつばし家が次期将軍の座をねらって、家治をがいそうとするのではあるまいかと、家重いえしげはそれを案じており、そこで家重いえしげはそれを…、田安たやす家や、あるいは一橋ひとつばし家のその「ぼう」を未然みぜんぼうすべく、まず、一橋ひとつばし家に照準しょうじゅんわせたのであった。

 家重いえしげ田安たやす家ではなく、一橋ひとつばし家に照準しょうじゅんわせたのは他でもない、その当時…、えんきょう4(1747)年頃にはまだ、田安たやす家には世継よつぎがおらず、一方、一橋ひとつばし家には重昌しげまさという世継よつぎがいたからで、かりに、田安たやす家と一橋ひとつばし家のうち、どちらが家治をものにして、家治にわって次期将軍の座をねらうかと言えば、それはやはり、一橋ひとつばし家の方がその可能性があった。

 そこで家重いえしげはまず、一橋ひとつばし家をはずの、ひいては次期将軍になれる「チャンス」にめぐまれることになるその重昌しげまさ他家たけへとように追いやることで、そのつぶすことにしたのだ。

 さんきょう…、この頃はまだ田安たやす家と一橋ひとつばし家の「きょう」しか存在そんざいしておらず、清水家はまだ創立そうりつ前であったが、ともあれさんきょうは他の大名や旗本、御家人とは違い、例え、世継よつぎがいなくとも、

つぶれない…」

 という特権を有していたのだ。無嗣むし…、世継よつぎがいない場合には断絶だんぜつほんの江戸幕府においては、これはきわめて例外れいがい的と言えた。

 ともあれ、さんきょう各々おのおの、そのいえぐ者がおらずとも存続そんぞくし、その場合にはさんきょうしきも、

あきかた…」

 として存続そんぞくすることとなり、引き続き、幕府よりさんきょう家老かろうがそのしき…、あきかたへとされることとなる。

 ともあれそのため、家重いえしげ遠慮えんりょなく、一橋ひとつばし家を、

あきかた…」

 それに出来できるというもので、そこでまず、一橋ひとつばし家をはずであった重昌しげまさ他家たけへと…、越前えちぜん福井へと追いやることで、その「第一歩」としたのであった。

 一方、いえを…、一橋ひとつばし徳川家をげるものとばかり思っていた小五郎こごろうもとい重昌しげまさは大いに落胆らくたんした。いや、この時はまだ、重昌しげまさ小五郎こごろうを名乗っており、それも延享えんきょう4(1747)年の6月12日のてんではまだ、3歳に過ぎなかったので、いえ云々うんぬんは分からなかったやも知れぬが、重昌しげまさ実母じつぼにして、宗尹むねただ正室せいしつ俊姫としひめ顕子あきこは大いに落胆らくたんしたものであった。

 何しろ折角せっかく、お腹を痛めた我が子・重昌しげまさくは一橋ひとつばし徳川家を相続そうぞく出来できるものとばかり思っていたのが、それが御家ごかもん…、親藩しんぱんとは言え、所詮しょせん越前えちぜん福井の、それこそへんかた田舎いなかもとへと追いやられることになったわけだから、俊姫としひめあきは大いに落胆らくたんし、そして落胆らくたんあまり、つい心労しんろうたおれてしまった。

 宗尹むねただにしても、兄・家重いえしげ思惑おもわくは分かっていた。だがそうかと言って、むざむざ兄の思惑おもわくどおりにさせてなるものかとの思いがわき上がってきた。それは正室せいしつ俊姫としひめあき心労しんろうあまり、たおれたことにより、一層いっそう、その思いを強くした。

 そこで宗尹むねただは兄・家重いえしげのその思惑おもわくを打ちくだくべく、さらづくりにはげむこととした。

 だが、俊姫としひめあきにははや、夫である宗尹むねただとの間に子をなすだけの力が残っておらず、しかし、俊姫としひめあきとて、思いは夫・宗尹むねただと同じであった。すなわち、

「このまま、むざむざと家重いえしげ思惑おもわくどおりになってなるものか…」

 俊姫としひめあき家重いえしげに対して、「リベンジ」をちかい、そこで俊姫としひめあきは夫・宗尹むねただ側室そくしつを持つよう、強くすすめたのであった。正室せいしつである己が子を作れない以上、これはむをないことであった。いや、むしろ当然とうぜんのすすめと言えた。

 そこで宗尹むねただとしては一橋ひとつばし邸においても、大奥時代と同じく、御客おきゃく会釈あしらいつとめていた善菊ぜんぎく側室そくしつにと、そう考えたものの、しかし善菊ぜんぎく宗尹むねただのそのおもいに気付きつつも、たくみにかわし、年寄としより岩田いわたを通じて、遊歌ゆか側室そくしつにすすめたのであった。

 遊歌ゆか大番おおばん細田ほそだ助右衛門すけえもん時義ときよしの娘として、その父・細田ほそだ助右衛門すけえもん宿元やどもととして大奥勤めをしており、その際、宗尹むねただもとい小五郎こごろうづき奥女おくじょちゅう…、中臈ちゅうろうに取り立てられ、その小五郎こごろう改め宗尹むねただ寛保かんぽう元(1741)年に江戸城より一橋ひとつばし邸へと移徙いし…、引き移る際には遊歌ゆか勿論もちろん、それにしたがい、一橋ひとつばし邸においても遊歌ゆかは引き続き、中臈ちゅうろうつとめることとなり、そうであれば遊歌ゆかこそが側室そくしつ相応ふさわしいと言えた。何しろ側室そくしつと言えば、中臈ちゅうろうからはいしゅつされるのが文律ぶんりつであるからだ。

 もっとも、正室せいしつ俊姫としひめあきやまいたおれるまでは遊歌ゆかばんはなかった。

 それが俊姫としひめあきやまいたおれたことで、それも夫である宗尹むねただとの間で子を作るだけの力がはやのこされていないとなってから、ようやくに遊歌ゆかばんめぐってきたというわけだ。

 ともあれ遊歌ゆか俊姫としひめあきたいこたえる格好かっこうで、翌年よくねん寛延かんえん元(1748)年の6月にはまず保姫やすひめを、いで同年…、5ヶ月後の11月には待望たいぼう男児だんじを…、のち重富しげとみをなしたのであった。

 だが宗尹むねただとしては、それ以上に正室せいしつ俊姫としひめあきとしてはそれでもまだ安心できなかった。

 それと言うのも家重いえしげはきっと、重富しげとみまでも他家たけへと追いやることで一橋ひとつばし家をがせないことが予期よきされたからであり、そしてその予期よきは…、宗尹むねただ俊姫としひめあきさいのその予期よきはズバリ正しく、家重いえしげはこの重富しげとみをも、一橋ひとつばし家をがせずに他家たけに追いやる腹積もりであり、実際、宝暦ほうれき8(1758)年に越前えちぜん福井へと追いやられた重昌しげまさ夭折ようせつすると、重富しげとみは何と、その重昌しげまさよう嗣子ししとして定められたのであった。つまりは兄のよう嗣子ししとなったわけだ。

 無論むろん、その時点では…、重富しげとみが生まれた寛延かんえん元(1748)年の時点では宗尹むねただにしろ、俊姫としひめあきにしろ、そこまでは流石さすが予期よきできなかったものの、それでも重富しげとみまでもが家重いえしげによって他家たけへと追いやられるに違いないと、そこで俊姫としひめあきは夫・宗尹むねただに対して側室そくしつ遊歌ゆかとの間でさらに子を、それもだんをなすようたのんだのであった。

 正室せいしつが夫に対して、側室そくしつとの間で子をなすよう求める光景こうけいはこの時代…、江戸時代の武家においてはさしてめずらしい光景こうけいではなかったが、それでも俊姫としひめあきの場合は我が子が…、腹を痛めた我が子がいえげずに他家たけへと養子ようしに、ようは追いやられたそのうらみ…、そのように取りはからった九代将軍・家重いえしげに対するうらみが何よりもまさっていた。

 ともあれ夫である宗尹むねただもそんな俊姫としひめあきおもいをみ取る格好かっこうで、側室そくしつ遊歌ゆかとの間でさらに子作りにはげみ、結果、それから3年後の宝暦ほうれき元(1751)年には治済はるさだを、そしてさらにその翌年よくねんには治之はるゆきを、それぞれなしたのであった。

 なお、その間…、重富しげとみが生まれた翌年よくねんすなわち、治済はるさだが生まれる2年前の寛延かんえん2(1749)年に俊姫としひめあき病没びょぼつしてしまったが、それでも俊姫としひめあきのぞんだ通り、結果的には治済はるさだ一橋ひとつばし家をぐことが出来でき

一橋ひとつばし家をあきかたにしてやる…」

 家重いえしげのその思惑おもわくやぶれたことになる。

 家重いえしげにしても如何いかに将軍と言えども、宗尹むねただ側室そくしつ遊歌ゆかとの間でさらになした治済はるさだ治之はるゆきの二人をも他家たけへとようとして追いやることは無理とさとったようだった。
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開戦劈頭の真珠湾攻撃にて、日本海軍は第三次攻撃によって港湾施設と燃料タンクを破壊し、さらには米空母「エンタープライズ」を撃沈する上々の滑り出しを見せた。 それから半年が経った昭和十七年(一九四二年)六月。三菱長崎造船所第三ドックに、一隻のフネが傷ついた船体を横たえていた。 かつて、「太平洋の女王」と称された、海軍輸送船「浅間丸」である。 ドーリットル空襲によってディーゼル機関を損傷した「浅間丸」は、史実においては船体が旧式化したため凍結された計画を復活させ、特設航空母艦として蘇ろうとしていたのだった。 ※過去作「炎立つ真珠湾」と世界観を共有した内容となります。

仇討浪人と座頭梅一

克全
歴史・時代
「アルファポリス」「カクヨム」「ノベルバ」に同時投稿しています。 旗本の大道寺長十郎直賢は主君の仇を討つために、役目を辞して犯人につながる情報を集めていた。盗賊桜小僧こと梅一は、目が見えるのに盗みの技の為に盲人といして育てられたが、悪人が許せずに暗殺者との二足の草鞋を履いていた。そんな二人が出会う事で将軍家の陰謀が暴かれることになる。

わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...

MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。 ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。 さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか? そのほかに外伝も綴りました。

If太平洋戦争        日本が懸命な判断をしていたら

みにみ
歴史・時代
もし、あの戦争で日本が異なる選択をしていたら? 国力の差を直視し、無謀な拡大を避け、戦略と外交で活路を開く。 真珠湾、ミッドウェー、ガダルカナル…そして終戦工作 分水嶺で下された「if」の決断。 破滅回避し、国家存続をかけたもう一つの終戦 そしてそこから繋がる新たな近代史へ

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