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田沼意致の回想 2
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だが、遊歌が宗尹との間になした治済と治之がスクスク成長するにしたがい、遊歌の専横が目立ち始めた。
世継を生んだことで、屋敷内で我が者顔で振る舞い始めたのであった。
贅沢は勿論のこと、気に入らない奥女中がいれば容赦なく叱りつけ、のみならず、家臣にまで叱りつける、いや、怒鳴りつける始末であった。
驚くべきことに、家老までが遊歌のその「口害」の被害を受けた。
即ち、その頃…、治済と治之兄弟が成長した宝暦年間にかけて家老を勤めていた河野長門守通延とその相役…、同僚の遠藤伊勢守易績の二人に対しても、遊歌は容赦なく当り散らしたのであった。
「お前らは将軍・家重の手先になって、治済や治之を他家へと追いやり、この一橋家を継がせないつもりだろう…」
それが主に趣旨…、遊歌が怒鳴りつける内容であった。
宗尹も遊歌のそのように怒鳴りたくなる気持ちは分からぬではないが、しかし、家老を怒鳴ってみたところでどうにもなるまい。
いや、百歩譲って、成程、御三卿家老というポストは御三卿の家臣と言うよりは、
「お目付役」
としての色彩が強く、そうであれば将軍の手先と言えなくもないが、しかし、大番士を皮切りに、従六位に相当する布衣役である勘定吟味役へと歩を進め、更に遠国奉行である佐渡奉行、そして従五位下の諸大夫役である勘定奉行に昇進した後、一橋家老へと栄進を遂げた遠藤易績は兎も角、河野通延の場合は後に一橋家老となる田沼意誠と同様、
「プロパー社員」
つまりは一橋家の生え抜き、もっと言えば譜代の臣であった。
即ち、河野通延はかつては田沼意誠と共に、江戸城にて宗尹もとい小五郎に小姓として附属し、そして寛保元(1741)年に小五郎改め宗尹が一橋邸へと移徙…、引き移ると、河野通延もそれに従い、一橋邸に入り、そこで従六位に相当する布衣役である用人に取り立てられ、その後、延享3(1746)年にいったん一橋邸を離れて、番方…、軍事部門の要路とも言うべき先手弓頭へと異動、栄転を果たした後、それから3年後の寛延2(1749)年に再び、一橋家に、それも従五位下の諸大夫役である家老として、さしずめ、
「凱旋帰国…」
それを果たしたわけである。そうであれば河野通延は他の御三卿家老とは違い、つまりは、御三卿のお目付役としてではなく、心底から御三卿に…、宗尹に仕えていたのだ。
そのような河野通延が将軍・家重の手先である筈もなく、遊歌とて、河野通延と共に一橋邸入りを果たしたのであり、そうであれば当然、一橋家と、いや、宗尹と通延との「絆」は承知している筈であり、その河野通延が将軍・家重の手先などであろう筈がないこともまた、
「自明の理…」
というもので、遊歌とて頭では分かっていたであろうが、それでもストレスの方が理性を上回った。
即ち、宗尹との間になした治済と治之の二人までもが他家へと追いやられるのではあるまいかと、そのストレスであった。
家重は流石に治済と治之の兄弟までも他家へと追いやることを諦めた様子とは言え、いつ何が起こるか分からない。仮にどこぞの御家門…、親藩が世継に恵まれずに養嗣子を探しているとなれば、そしてその「情報」を将軍・家重が「キャッチ」したならば、その時は容赦なく、治済を、そして治之を養嗣子として宛がうに違いなく、遊歌はそのストレスを紛らわすべく、贅沢をし、或いは家臣らを怒鳴りつけることで心身のバランスを保っていた…、と言うよりは鬱憤晴らしをしてのけていた。
だが、遊歌はそれで心身のバランスを保てるとしても、怒鳴られる方からすれば、即ち、家臣たちは堪らない。
遂に、家老の河野通延と遠藤易績の二人が宗尹に泣きつく始末であった。
河野通延にしろ、遠藤易績にしろ、遊歌の「口害」の被害者ではあるものの、それでも遊歌も流石にこの二人に対しては、家老ということも手伝って、それ程、
「あたり」
はきつくはなかった。
だが遊歌はその代わりに…、家老に対しては思う存分、当たり散らすことが出来ないその代わりに、番頭や用人、旗奉行や長柄奉行を始めとする家臣たち、或いは奥女中に当たり散らしたものであった。この辺り、遊歌の姑息さが如実にあらわれていた。
御三卿…、宗尹の「お目付役」としての色彩を帯びている家老の河野通延と遠藤易績まで遠慮なしに怒鳴りつければ、それこそ将軍・家重に告げ口でもされて、最悪、我が子・治済やそれにそのすぐ下の治之が他家へと養子として追いやられ、一橋家を継がせぬ格好の口実を将軍・家重に与えるやも知れぬと、遊歌はそんな計算が働いたからこそ、家老の河野通延と遠藤易績の二人に対してはそれ程、怒鳴りつけたりはしなかった。
いや、そこまでの理性が働くのなら、そもそも当たり散らし、怒鳴り散らしたりしないでもらいたいところだが、生憎、遊歌はそこまでの理性は働かなかった、と言うよりは感情に負けてしまった。
いや、遊歌の姑息さはそれに止まらず、二人の家老の他にも、番頭の田沼意誠もまた、家老と並んで、それこそ、「あたり」はきつくはなかった。
その理由だが、やはり姑息なものであった。
即ち、その当時…、治済と治之の兄弟が成長期にあった宝暦年間、田沼意誠はまだ、
「田沼市左衛門意誠…」
そう名乗っていたのだが、その時、本家筋に当たる意次はと言うと、既に御側御用取次として頭角をあらわしており、その意次の縁者に当たる田沼市左衛門こと意誠まで怒鳴り散らそうものなら、やはり田沼市左衛門こと意誠から意次へとそれが伝わり、さらに意次から将軍・家重へと伝わることが予想されたので、そこで遊歌は当時はまだ番頭であった田沼市左衛門こと意誠に対しても、それ程、
「あたり」
をきつくしたりはしなかった。尤も、少しは怒鳴ったが。
ともあれ遊歌から遠慮なく罵倒される末端の家臣や奥女中にしてみれば堪ったものではなく、遂に彼らは家老の河野通延と遠藤易績の二人に対して、
「何とかして欲しい…」
そう泣きつき、そこで泣きつかれた河野通延と遠藤易績も、これは何とかせねばと、そこで彼らの主である宗尹に対して、彼らの苦情をそのまま伝えたのであった。
宗尹にしても遊歌の専横…、などとそのような「お上品」なものではない、単なる罵声には眉を顰めていたので、そこで宗尹は遊歌に対して一本、釘を刺すことにしたのであった。
と言っても、ただ釘を刺すだけでは効果が薄いものと思われ、そこで宗尹は遊歌の泣き所を突くことにした。
即ち、これ以上、末端の家臣や奥女中を怒鳴ろうものなら最悪、治済は元より、治之までもが一橋家を相続できないやも知れぬぞと、宗尹は遊歌をそう脅したのであった。
宗尹のこの窘め、もとい脅しの効果は大きく、爾来、遊歌が末端の家臣や奥女中を怒鳴る回数は大幅に減った。
それでも、それでは遊歌としては別の「ストレス解消法」を見つけねばならず、それこそが贅沢であった。
遊歌は末端の家臣や奥女中らを怒鳴る代わりに、贅沢をすることでストレスを発散させたのであり、これには奥女中も大歓迎であった。それと言うのも、遊歌の贅沢に付き合う格好で奥女中も思う存分、贅沢が出来たからだ。
そんな中、御客会釈の善菊のみは贅沢には見向きもせずに、御客会釈として日々の職務をこなし、それは正しく、
「精励恪勤…」
そう呼ぶに相応しく、宗尹はそんな善菊を遂に押し倒す格好で強引に結んだ。それが宝暦8(1758)年のことであった。
善菊は宗尹にとって初めての「女」と言えた。いや、宗尹にはそれ以前にも正室の俊姫顕子や、或いは側室の遊歌がいたものの、所詮は自らの意思で抱いた「女」ではなく、周囲から、
「お膳立て…」
そうされて抱いたに過ぎず、いや、それでも正室の俊姫顕子に対しては宗尹も「愛情」があったものの、しかし、側室の遊歌に対しては「愛情」の欠片さえもなかった。
宗尹としては周囲が「お膳立て」してくれた遊歌を義務的に抱いたに過ぎず、そこには愛情の欠片もなかった。
それが…、そんな遊歌が宗尹との間に治済と治之の兄弟までもなすと、遊歌の「ストレス」はピークに達し、その発散のためにまずは家臣や奥女中に当たり散らし、次いで贅沢に走りと、そのようなことがあって宗尹はいよいよもって遊歌から気持ちが離れた。
いや、そもそも宗尹は遊歌を愛したことなど、ただの一度もなかったので、気持ちが離れたと言うのは正確性に欠けるであろう。そもそも遊歌には何ら特別な感情を抱いてはいなかったからだ。
そえゆえ、正確には疎ましく感じられたと言うべきであろう。
それに比べて善菊はと言うと、宗尹が愛し、そして自らの意思により半ば強引に抱いた初めての「女」であった。
そしてこのことは、治済も敏感に感じ取った。治済は残虐さと共に聡明さをも持ち合わせており、父・宗尹と善菊との関係にすぐに気付いたものである。
父・宗尹は他の女に手をつけ、一方、母・遊歌は贅沢に走る…、そんな中で宗尹と遊歌との間に生まれた治済がまともに育つ筈がなく、治済の性癖…、
「生き物殺し…」
その性癖がいよいよもって酷くなったのも、父・宗尹が他の女に…、善菊に手をつけたその直後であった。
いや、治済の実弟である治之も兄・治済と境遇は同じであるにもかかわらず、こちらの方は正に、
「スクスク…」
育ったわけだから、これは治済の資質によるものやも知れなかった。
世継を生んだことで、屋敷内で我が者顔で振る舞い始めたのであった。
贅沢は勿論のこと、気に入らない奥女中がいれば容赦なく叱りつけ、のみならず、家臣にまで叱りつける、いや、怒鳴りつける始末であった。
驚くべきことに、家老までが遊歌のその「口害」の被害を受けた。
即ち、その頃…、治済と治之兄弟が成長した宝暦年間にかけて家老を勤めていた河野長門守通延とその相役…、同僚の遠藤伊勢守易績の二人に対しても、遊歌は容赦なく当り散らしたのであった。
「お前らは将軍・家重の手先になって、治済や治之を他家へと追いやり、この一橋家を継がせないつもりだろう…」
それが主に趣旨…、遊歌が怒鳴りつける内容であった。
宗尹も遊歌のそのように怒鳴りたくなる気持ちは分からぬではないが、しかし、家老を怒鳴ってみたところでどうにもなるまい。
いや、百歩譲って、成程、御三卿家老というポストは御三卿の家臣と言うよりは、
「お目付役」
としての色彩が強く、そうであれば将軍の手先と言えなくもないが、しかし、大番士を皮切りに、従六位に相当する布衣役である勘定吟味役へと歩を進め、更に遠国奉行である佐渡奉行、そして従五位下の諸大夫役である勘定奉行に昇進した後、一橋家老へと栄進を遂げた遠藤易績は兎も角、河野通延の場合は後に一橋家老となる田沼意誠と同様、
「プロパー社員」
つまりは一橋家の生え抜き、もっと言えば譜代の臣であった。
即ち、河野通延はかつては田沼意誠と共に、江戸城にて宗尹もとい小五郎に小姓として附属し、そして寛保元(1741)年に小五郎改め宗尹が一橋邸へと移徙…、引き移ると、河野通延もそれに従い、一橋邸に入り、そこで従六位に相当する布衣役である用人に取り立てられ、その後、延享3(1746)年にいったん一橋邸を離れて、番方…、軍事部門の要路とも言うべき先手弓頭へと異動、栄転を果たした後、それから3年後の寛延2(1749)年に再び、一橋家に、それも従五位下の諸大夫役である家老として、さしずめ、
「凱旋帰国…」
それを果たしたわけである。そうであれば河野通延は他の御三卿家老とは違い、つまりは、御三卿のお目付役としてではなく、心底から御三卿に…、宗尹に仕えていたのだ。
そのような河野通延が将軍・家重の手先である筈もなく、遊歌とて、河野通延と共に一橋邸入りを果たしたのであり、そうであれば当然、一橋家と、いや、宗尹と通延との「絆」は承知している筈であり、その河野通延が将軍・家重の手先などであろう筈がないこともまた、
「自明の理…」
というもので、遊歌とて頭では分かっていたであろうが、それでもストレスの方が理性を上回った。
即ち、宗尹との間になした治済と治之の二人までもが他家へと追いやられるのではあるまいかと、そのストレスであった。
家重は流石に治済と治之の兄弟までも他家へと追いやることを諦めた様子とは言え、いつ何が起こるか分からない。仮にどこぞの御家門…、親藩が世継に恵まれずに養嗣子を探しているとなれば、そしてその「情報」を将軍・家重が「キャッチ」したならば、その時は容赦なく、治済を、そして治之を養嗣子として宛がうに違いなく、遊歌はそのストレスを紛らわすべく、贅沢をし、或いは家臣らを怒鳴りつけることで心身のバランスを保っていた…、と言うよりは鬱憤晴らしをしてのけていた。
だが、遊歌はそれで心身のバランスを保てるとしても、怒鳴られる方からすれば、即ち、家臣たちは堪らない。
遂に、家老の河野通延と遠藤易績の二人が宗尹に泣きつく始末であった。
河野通延にしろ、遠藤易績にしろ、遊歌の「口害」の被害者ではあるものの、それでも遊歌も流石にこの二人に対しては、家老ということも手伝って、それ程、
「あたり」
はきつくはなかった。
だが遊歌はその代わりに…、家老に対しては思う存分、当たり散らすことが出来ないその代わりに、番頭や用人、旗奉行や長柄奉行を始めとする家臣たち、或いは奥女中に当たり散らしたものであった。この辺り、遊歌の姑息さが如実にあらわれていた。
御三卿…、宗尹の「お目付役」としての色彩を帯びている家老の河野通延と遠藤易績まで遠慮なしに怒鳴りつければ、それこそ将軍・家重に告げ口でもされて、最悪、我が子・治済やそれにそのすぐ下の治之が他家へと養子として追いやられ、一橋家を継がせぬ格好の口実を将軍・家重に与えるやも知れぬと、遊歌はそんな計算が働いたからこそ、家老の河野通延と遠藤易績の二人に対してはそれ程、怒鳴りつけたりはしなかった。
いや、そこまでの理性が働くのなら、そもそも当たり散らし、怒鳴り散らしたりしないでもらいたいところだが、生憎、遊歌はそこまでの理性は働かなかった、と言うよりは感情に負けてしまった。
いや、遊歌の姑息さはそれに止まらず、二人の家老の他にも、番頭の田沼意誠もまた、家老と並んで、それこそ、「あたり」はきつくはなかった。
その理由だが、やはり姑息なものであった。
即ち、その当時…、治済と治之の兄弟が成長期にあった宝暦年間、田沼意誠はまだ、
「田沼市左衛門意誠…」
そう名乗っていたのだが、その時、本家筋に当たる意次はと言うと、既に御側御用取次として頭角をあらわしており、その意次の縁者に当たる田沼市左衛門こと意誠まで怒鳴り散らそうものなら、やはり田沼市左衛門こと意誠から意次へとそれが伝わり、さらに意次から将軍・家重へと伝わることが予想されたので、そこで遊歌は当時はまだ番頭であった田沼市左衛門こと意誠に対しても、それ程、
「あたり」
をきつくしたりはしなかった。尤も、少しは怒鳴ったが。
ともあれ遊歌から遠慮なく罵倒される末端の家臣や奥女中にしてみれば堪ったものではなく、遂に彼らは家老の河野通延と遠藤易績の二人に対して、
「何とかして欲しい…」
そう泣きつき、そこで泣きつかれた河野通延と遠藤易績も、これは何とかせねばと、そこで彼らの主である宗尹に対して、彼らの苦情をそのまま伝えたのであった。
宗尹にしても遊歌の専横…、などとそのような「お上品」なものではない、単なる罵声には眉を顰めていたので、そこで宗尹は遊歌に対して一本、釘を刺すことにしたのであった。
と言っても、ただ釘を刺すだけでは効果が薄いものと思われ、そこで宗尹は遊歌の泣き所を突くことにした。
即ち、これ以上、末端の家臣や奥女中を怒鳴ろうものなら最悪、治済は元より、治之までもが一橋家を相続できないやも知れぬぞと、宗尹は遊歌をそう脅したのであった。
宗尹のこの窘め、もとい脅しの効果は大きく、爾来、遊歌が末端の家臣や奥女中を怒鳴る回数は大幅に減った。
それでも、それでは遊歌としては別の「ストレス解消法」を見つけねばならず、それこそが贅沢であった。
遊歌は末端の家臣や奥女中らを怒鳴る代わりに、贅沢をすることでストレスを発散させたのであり、これには奥女中も大歓迎であった。それと言うのも、遊歌の贅沢に付き合う格好で奥女中も思う存分、贅沢が出来たからだ。
そんな中、御客会釈の善菊のみは贅沢には見向きもせずに、御客会釈として日々の職務をこなし、それは正しく、
「精励恪勤…」
そう呼ぶに相応しく、宗尹はそんな善菊を遂に押し倒す格好で強引に結んだ。それが宝暦8(1758)年のことであった。
善菊は宗尹にとって初めての「女」と言えた。いや、宗尹にはそれ以前にも正室の俊姫顕子や、或いは側室の遊歌がいたものの、所詮は自らの意思で抱いた「女」ではなく、周囲から、
「お膳立て…」
そうされて抱いたに過ぎず、いや、それでも正室の俊姫顕子に対しては宗尹も「愛情」があったものの、しかし、側室の遊歌に対しては「愛情」の欠片さえもなかった。
宗尹としては周囲が「お膳立て」してくれた遊歌を義務的に抱いたに過ぎず、そこには愛情の欠片もなかった。
それが…、そんな遊歌が宗尹との間に治済と治之の兄弟までもなすと、遊歌の「ストレス」はピークに達し、その発散のためにまずは家臣や奥女中に当たり散らし、次いで贅沢に走りと、そのようなことがあって宗尹はいよいよもって遊歌から気持ちが離れた。
いや、そもそも宗尹は遊歌を愛したことなど、ただの一度もなかったので、気持ちが離れたと言うのは正確性に欠けるであろう。そもそも遊歌には何ら特別な感情を抱いてはいなかったからだ。
そえゆえ、正確には疎ましく感じられたと言うべきであろう。
それに比べて善菊はと言うと、宗尹が愛し、そして自らの意思により半ば強引に抱いた初めての「女」であった。
そしてこのことは、治済も敏感に感じ取った。治済は残虐さと共に聡明さをも持ち合わせており、父・宗尹と善菊との関係にすぐに気付いたものである。
父・宗尹は他の女に手をつけ、一方、母・遊歌は贅沢に走る…、そんな中で宗尹と遊歌との間に生まれた治済がまともに育つ筈がなく、治済の性癖…、
「生き物殺し…」
その性癖がいよいよもって酷くなったのも、父・宗尹が他の女に…、善菊に手をつけたその直後であった。
いや、治済の実弟である治之も兄・治済と境遇は同じであるにもかかわらず、こちらの方は正に、
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