167 / 197
田沼意致の回想 3
しおりを挟む
ともあれ、治済のその性癖…、「生き物殺し」の性癖が「エスカレート」するにつれ、宗尹は本気で治済の廃嫡を考えた。
宗尹にしても治済のその性癖に気付いており、そうであればこそ、治済の兄のような存在である意致に治済の教導を頼み、それが無理と分かるや、宗尹はいよいよもって治済の廃嫡を本気で考え始めた。それが宝暦10(1760)年のことであった。
そこで宗尹は一橋家の重職である、所謂、
「八役」
彼らと治済廃嫡の件につき、相談することとした。
この「八役」だが、
「家老」
「番頭」
「用人」
「旗奉行」
「長柄奉行」
「物頭」
「郡奉行」
「勘定奉行」
以上の八つのお役目であり、その当時…、宝暦10(1760)年時点では、遠藤易績と、それに田沼市左衛門改め能登守意誠の二人が家老を務めていた。
田沼意誠はそれまでは従六位相当の布衣役である番頭のお役目にあったのだが、それが宝暦9(1759)年の正月15日に、それまで家老を務めていた河野長門守通延が一橋邸から江戸城へと召還、西之丸の留守居に異動を果たしたために、そこでこの河野通延の後任の家老として、番頭であった田沼意誠が宛がわれた次第である。
尚、その他…、さしずめ「七役」についてだが、
「谷口新十郎正乗」
「石川孫太郎攻」
「高林彌兵衛明慶」
以上の3人が番頭であり、
「小宮山利助昌則」
「成田八右衛門勝豊」
「鈴木彦八郎茂正」
「末吉善左衛門利隆」
「鈴木治左衛門直裕」
以上の5人が用人であり、それから旗奉行は三田藤四郎守保、長柄奉行は矢葺三郎左衛門景與、さらに、
「杉山嘉兵衛美成」
「大村小左衛門貞韶」
「平岡喜三郎茂高」
以上の3人が物頭であり、そして郡奉行は横尾六右衛門昭平と守山八十郎房覚、勘定奉行は小倉小兵衛雅周という構成であった。
その彼ら「八役」に対して宗尹は治済廃嫡の件を持ちかけたのであった。いや、それは持ちかけたと言うよりは、
「治済を廃嫡したい…」
そう明確に意思表示をしたのであった。
それに対して彼ら「八役」の反応はと言うと、まず家老の遠藤易績と田沼意誠は慎重、いや、否定的な見解を示し、それに対して番頭はそれとは好対照であり、皆が賛意を示した。
とりわけ番頭の上首…、筆頭である谷口新十郎は真っ先に賛同したものである。
それと言うのも谷口新十郎は治済とは常々、
「そりがあわない…」
そのため、谷口新十郎は治済の廃嫡に大いに賛同してみせたのであった。
だがそこで待ったをかけたのが5人の用人であり、とりわけ末吉善左衛門は治済を廃嫡に及ぶことが如何に愚かなことであるか、それを主君・宗尹に懇々と諭したものである。
尤も、末吉善左衛門は何も純粋に治済の廃嫡に反対したわけではなく、そこには打算も含まれていた。いや、打算から治済の廃嫡に反対したと言った方が正確だろう。
それでは末吉善左衛門の打算とは何かと言うと、それはズバリ、
「谷口新十郎への対抗…」
それであった。
その当時…、宝暦10(1760)年の時点では治済こそが一橋家の世継の有力候補であった。
にもかかわらず、一橋家の番頭を務める谷口新十郎はその一橋家の世継の有力候補である治済とは常々、そりがあわず、しかしそうであれば谷口新十郎はとっくの昔に番頭の役職を解任されていてもおかしくはなかった。
何しろ、谷口新十郎が治済とそりがあわないのは昨日今日の話ではなく、宗尹が治済の廃嫡を考えるよりも前、それこそ、
「遥か前から…」
谷口新十郎は治済とはそりがあわず、また、治済も谷口新十郎を疎ましく思っており、いや、嫌っており、そうであれば治済が父・宗尹に頼んで、谷口新十郎を番頭より解任、それが無理ならせめて上首…、筆頭よりヒラの番頭へと降格させて欲しいと、そう望むところであり、実際、治済は父・宗尹にそう頼んだ。
その頃はまだ、宗尹も治済の廃嫡を考えてはおらず、そうであれば息・治済のその、
「ワガママ」
も聞いてやってもおかしくはなかったのだが、しかし、宗尹は倅のその「ワガママ」に対して首を縦に振ることはなかった。
「番頭は家老と並ぶ附人…、公儀より派されし者なれば、如何にわしとて、どうにもならぬ…」
宗尹は倅の「ワガママ」に対して首を縦に振らなかった理由として、倅の治済にそう挙げてみせたものの、しかし、それはあくまで、
「表向きの理由…」
それに過ぎなかった。成程、確かに宗尹の言う通り、ご公儀…、幕府より派される附人のその任免権は御三卿にはなく、それゆえ宗尹の一存ではその附人である谷口新十郎を上首…、筆頭の番頭からヒラの番頭へと降格させることも出来なければ、ましてやクビにすることなど出来よう筈がなかった。
尤もそれは、
「建前」
に過ぎず、確かに従五位下の諸大夫役の家老であれば成程、その理屈通りであるが、しかし、従六位相当の布衣役である番頭であれば、御三卿の意向がその任免に大分、反映される。
それゆえこの場合で言えば、宗尹が谷口新十郎の番頭上首よりの解任、或いはヒラの番頭への降格を望めば、かなりの確率で宗尹のその意思が人事に反映され、谷口新十郎は一橋家より追われるか、或いはそこまでいかなくとも、ヒラの番頭へと降格させられることになる。
宗尹にしても谷口新十郎の人事につき、己の一存でどうとでもなるということは勿論、承知していたものの、それでも宗尹が谷口新十郎の馘首は勿論のこと、降格さえも拒絶したのは他でもない、
「宗尹が谷口新十郎に対して遠慮があったから…」
それに尽きた。
天下の御三卿ともあろう者がその御三卿のたかだか陪臣に過ぎぬ者に対して遠慮があるとは何ともおかしな話のようにも思えるが、しかし、こと宗尹と谷口新十郎との関係で言えばそれも無理からぬところであった。
それと言うのも谷口新十郎は宗尹の叔父に当たるからだ。
即ち、八代将軍・吉宗が側室・久こと深心院との間に生まれた男児こそ宗尹であり、宗尹の実母である久こと深心院の実弟こそが谷口新十郎であった。
谷口新十郎が一橋家の番頭、それも筆頭である上首に取り立てられたのも、ひとえに甥に当たる一橋家の初代当主となった宗尹の強い「ヒキ」があればこそ、であった。
そのため宗尹としても己が取り立てたその谷口新十郎をヒラの番頭へと降格させることには抵抗感があり、ましてやクビにするなど到底、不可能であった。
谷口新十郎もそんな宗尹の胸のうちを見透かし、いや、足下を見て、一橋邸内においてそれこそ、我が物顔で振る舞っていた。
無論、遊歌のように傍若無人に振る舞っていたわけではないが、それでも威勢が強く、治済と治之の兄弟に対しても強く出る始末であった。
何しろ治済・治之兄弟は宗尹の子…、谷口新十郎の甥に当たる宗尹の子ということで、そうであれば谷口新十郎にとって治済・治之兄弟は、
「姪孫」
に当たり、それゆえ谷口新十郎も治済・治之兄弟にも当然、遠慮するところがなかった。
いや、治済・治之兄弟のみならず、宗尹の嫡男…、正室の俊姫顕子との間にもうけた、初めての嫡男の重昌や、さらに遊歌との間にもうけた長女の保姫やそのすぐ下の弟の重富に対してもそうであった。
重昌は母・俊姫顕子譲りのおっとりとした性格で、それゆえ谷口新十郎から強く出られたところで、何とも思わなかったが、しかし、勝気な遊歌の血を引く保姫・重富の姉弟はそんな谷口新十郎の態度に猛反発したものである。
この時…、宝暦10(1760)年の時点においては既に重富は一橋邸を出ており、それゆえ一橋邸に残っている宗尹の子女は治済・治之兄弟の他には長女の保姫であり、この時点でも、保姫は実弟の治済と共に、それこそ、
「タッグを組んで…」
谷口新十郎の態度に猛反発していた。
それとは対照的なのが末っ子の治之であり、谷口新十郎のその態度に対して、保姫や治済のように反発を覚えるどころか、新鮮さを感じ、そんな谷口新十郎に懐き、谷口新十郎もそんな姪孫である治之を大いに可愛がったものである。
さて、これらの事情は用人である末吉善左衛門も良く承知しているところであり、そうであれば、
「保姫・治済姉弟…、とりわけ治済の味方をする…」
末吉善左衛門にはその選択肢しかなかった。何しろ、末吉善左衛門にしてもまた、一橋邸内にて我が物顔で振る舞う谷口新十郎に対して嫌悪感を抱いていたからだ。
その谷口新十郎が治済の廃嫡に賛同したとあらば、谷口新十郎をライバル視する末吉善左衛門としては逆に、治済こそが一橋家の世継に相応しいと、そう論陣を張ったのは至極当然の展開であり、そこへ、末吉善左衛門と同じく、谷口新十郎に対して…、その専横ぶりにかねて猛反発していた小宮山利助たちも…、他の用人たちも末吉善左衛門に味方した。
一方、その他の「八役」、即ち、旗奉行や長柄奉行、物頭や郡奉行、そして勘定奉行といった面々…、さしずめ「五役はこの時点ではまだ、どっちつかずの態度に終始した。
いや、谷口新十郎と共に、治済の廃嫡に賛同した、谷口新十郎と同じく番頭を務める石川孫太郎や高林彌兵衛にしても本音では治済を廃嫡することには内心、極めて懐疑的であったのだが、それでも上首…、筆頭である谷口新十郎に対する遠慮から引きずられるようにして治済の廃嫡に賛同したに過ぎず、心底、賛同したわけではなかった。
そのことは谷口新十郎も勿論、良く把握しているところであり、そうであれば谷口新十郎としては「外部」に助けを求めることにした。即ち、「大奥」である。
谷口新十郎には久…、宗尹の母堂である久という姉の他、竹という妹がおり、この妹はかつては姉の久と共に大奥にて暮らし、のみならず、年寄の外山によって育てられたのであった。
谷口新十郎はその「ツテ」を頼りに、大奥に治済の廃嫡の件を頼むつもりでいた。
大奥より将軍サイドへと治済の廃嫡を猛プッシュしてもらおうとの魂胆であり、谷口新十郎のその目の付け所は悪くはなかった。
だが谷口新十郎にとって不運だったのはこの時点…、宝暦10(1760)年の時点では年寄の外山は既に亡く、頼みの綱とも言うべき妹の竹にしても同様に、既に亡かった。
これでは大奥における足場を失ったも同然であった。
いや、これで「御三卿潰し」に狂奔する家重が将軍でいたならば、或いは治済の廃嫡もうまくことが運んだやも知れぬが、こちらも生憎と、将軍職は家重から家治へと代替わりしており、将軍職に就任当初の家治は父・家重とは違い、それ程、御三卿に対して悪感情を持ってはおらず、と言うよりは関心がなく、それゆえ一橋家に波風を立てるような治済の廃嫡には家治は乗り気でなく、その点でも谷口新十郎は不運と言えた。
一方、それとは好対照なのが末吉善左衛門であり、末吉善左衛門は一橋邸にて年寄を務める岩田と連携を取りつつ、中立派である郡奉行の横尾六右衛門を真っ先に仲間に引き入れた。
末吉善左衛門は谷口新十郎が大奥を動かして将軍に対して治済の廃嫡を働きかけてもらおうと、そういう魂胆であることを当初より見抜いており、そうであればこちらもと、先手を打つ格好で、一橋邸にて年寄を務める岩田を仲間に…、
「治済こそが一橋家の正統なる世継である…」
その仲間に引き入れることにしたのであった。それと言うのも、岩田はここ一橋邸へと引き移る前は江戸城本丸の大奥にて、宗尹もとい小五郎附の年寄を務めていたのだが、その際、岩田は将軍・家重附の御客会釈の松島と親しく付き合っており、そして、将軍が家重から家治へと代替わりを果たすと、その松島が新たに将軍となった家治附の年寄となり、そこで末吉善左衛門としては、岩田、松島のルートで新将軍・家治に対してその旨…、
「治済こそが一橋家の正統なる世継である…」
そう働きかえてもらうこととし、しかしそのためには、
「先立つもの…」
それが必要不可欠であり、そこで末吉善左衛門はその「先立つもの」を用立てるべく、郡奉行の横尾六右衛門をも仲間に引き入れることとした。
郡奉行とは徴税などを担うトップであり、それゆえ、先立つものを用立ててもらうのに、
「極めて都合の良いポスト…」
そう言え、だからこそ末吉善左衛門もその郡奉行を務める横尾六右衛門を仲間に引き入れようとしたのであったが、しかし、それだけに留まらない。
それと言うのも、郡奉行の横尾六右衛門を仲間に引き入れることが出来れば、勘定奉行の小倉小兵衛をも仲間に引き入れられることが期待できるからだ。
どういうことかと言うと、横尾六右衛門の息・藤次郎宅平は小倉小兵衛の妹を娶っていたからだ。
末吉善左衛門は勿論、横尾六右衛門と小倉小兵衛とのその関係を把握しており、それゆえ横尾六右衛門を仲間に引き入れることに腐心し、結果、横尾六右衛門を仲間に引き入れることに成功するや、末吉善左衛門が期待した通り、小倉小兵衛までも仲間に引き入れることに成功した。
いや、小倉小兵衛の場合は末吉善左衛門がわざわざ仲間に引き入れるまでもなく、小倉小兵衛自身が横尾六右衛門の後を追う格好で末吉善左衛門の陣営入りを望んだのであった。
ともあれこれで末吉善左衛門は郡奉行の横尾六右衛門と勘定奉行の小倉小兵衛を仲間に引き入れたことで、
「豊富な軍資金」
それを得ると、その金を元手に、大奥に対しては岩田、松島ルートで働きかけを行い、一方、中奥サイドに対しても、新たに家老となった、そして、治済の廃嫡に反対とまではゆかずとも、慎重な姿勢を見せる田沼意誠を介して、本家筋にして、御側御用取次として将軍の御側近くに仕える意次より将軍へと、
「一橋家の正統なる世継は治済である…」
それを再確認してもらうべく、末吉善左衛門は意誠よりその旨、意次へと伝えてもらい、結果、将軍は…、新将軍・家治は大奥と中奥の両サイドより、
「一橋家の正統なる世継は治済である…」
その旨、刷り込まれたために、家治は改めて、一橋家の正統なる世継は治済であると、そう宣したのであった。
宗尹にしても治済のその性癖に気付いており、そうであればこそ、治済の兄のような存在である意致に治済の教導を頼み、それが無理と分かるや、宗尹はいよいよもって治済の廃嫡を本気で考え始めた。それが宝暦10(1760)年のことであった。
そこで宗尹は一橋家の重職である、所謂、
「八役」
彼らと治済廃嫡の件につき、相談することとした。
この「八役」だが、
「家老」
「番頭」
「用人」
「旗奉行」
「長柄奉行」
「物頭」
「郡奉行」
「勘定奉行」
以上の八つのお役目であり、その当時…、宝暦10(1760)年時点では、遠藤易績と、それに田沼市左衛門改め能登守意誠の二人が家老を務めていた。
田沼意誠はそれまでは従六位相当の布衣役である番頭のお役目にあったのだが、それが宝暦9(1759)年の正月15日に、それまで家老を務めていた河野長門守通延が一橋邸から江戸城へと召還、西之丸の留守居に異動を果たしたために、そこでこの河野通延の後任の家老として、番頭であった田沼意誠が宛がわれた次第である。
尚、その他…、さしずめ「七役」についてだが、
「谷口新十郎正乗」
「石川孫太郎攻」
「高林彌兵衛明慶」
以上の3人が番頭であり、
「小宮山利助昌則」
「成田八右衛門勝豊」
「鈴木彦八郎茂正」
「末吉善左衛門利隆」
「鈴木治左衛門直裕」
以上の5人が用人であり、それから旗奉行は三田藤四郎守保、長柄奉行は矢葺三郎左衛門景與、さらに、
「杉山嘉兵衛美成」
「大村小左衛門貞韶」
「平岡喜三郎茂高」
以上の3人が物頭であり、そして郡奉行は横尾六右衛門昭平と守山八十郎房覚、勘定奉行は小倉小兵衛雅周という構成であった。
その彼ら「八役」に対して宗尹は治済廃嫡の件を持ちかけたのであった。いや、それは持ちかけたと言うよりは、
「治済を廃嫡したい…」
そう明確に意思表示をしたのであった。
それに対して彼ら「八役」の反応はと言うと、まず家老の遠藤易績と田沼意誠は慎重、いや、否定的な見解を示し、それに対して番頭はそれとは好対照であり、皆が賛意を示した。
とりわけ番頭の上首…、筆頭である谷口新十郎は真っ先に賛同したものである。
それと言うのも谷口新十郎は治済とは常々、
「そりがあわない…」
そのため、谷口新十郎は治済の廃嫡に大いに賛同してみせたのであった。
だがそこで待ったをかけたのが5人の用人であり、とりわけ末吉善左衛門は治済を廃嫡に及ぶことが如何に愚かなことであるか、それを主君・宗尹に懇々と諭したものである。
尤も、末吉善左衛門は何も純粋に治済の廃嫡に反対したわけではなく、そこには打算も含まれていた。いや、打算から治済の廃嫡に反対したと言った方が正確だろう。
それでは末吉善左衛門の打算とは何かと言うと、それはズバリ、
「谷口新十郎への対抗…」
それであった。
その当時…、宝暦10(1760)年の時点では治済こそが一橋家の世継の有力候補であった。
にもかかわらず、一橋家の番頭を務める谷口新十郎はその一橋家の世継の有力候補である治済とは常々、そりがあわず、しかしそうであれば谷口新十郎はとっくの昔に番頭の役職を解任されていてもおかしくはなかった。
何しろ、谷口新十郎が治済とそりがあわないのは昨日今日の話ではなく、宗尹が治済の廃嫡を考えるよりも前、それこそ、
「遥か前から…」
谷口新十郎は治済とはそりがあわず、また、治済も谷口新十郎を疎ましく思っており、いや、嫌っており、そうであれば治済が父・宗尹に頼んで、谷口新十郎を番頭より解任、それが無理ならせめて上首…、筆頭よりヒラの番頭へと降格させて欲しいと、そう望むところであり、実際、治済は父・宗尹にそう頼んだ。
その頃はまだ、宗尹も治済の廃嫡を考えてはおらず、そうであれば息・治済のその、
「ワガママ」
も聞いてやってもおかしくはなかったのだが、しかし、宗尹は倅のその「ワガママ」に対して首を縦に振ることはなかった。
「番頭は家老と並ぶ附人…、公儀より派されし者なれば、如何にわしとて、どうにもならぬ…」
宗尹は倅の「ワガママ」に対して首を縦に振らなかった理由として、倅の治済にそう挙げてみせたものの、しかし、それはあくまで、
「表向きの理由…」
それに過ぎなかった。成程、確かに宗尹の言う通り、ご公儀…、幕府より派される附人のその任免権は御三卿にはなく、それゆえ宗尹の一存ではその附人である谷口新十郎を上首…、筆頭の番頭からヒラの番頭へと降格させることも出来なければ、ましてやクビにすることなど出来よう筈がなかった。
尤もそれは、
「建前」
に過ぎず、確かに従五位下の諸大夫役の家老であれば成程、その理屈通りであるが、しかし、従六位相当の布衣役である番頭であれば、御三卿の意向がその任免に大分、反映される。
それゆえこの場合で言えば、宗尹が谷口新十郎の番頭上首よりの解任、或いはヒラの番頭への降格を望めば、かなりの確率で宗尹のその意思が人事に反映され、谷口新十郎は一橋家より追われるか、或いはそこまでいかなくとも、ヒラの番頭へと降格させられることになる。
宗尹にしても谷口新十郎の人事につき、己の一存でどうとでもなるということは勿論、承知していたものの、それでも宗尹が谷口新十郎の馘首は勿論のこと、降格さえも拒絶したのは他でもない、
「宗尹が谷口新十郎に対して遠慮があったから…」
それに尽きた。
天下の御三卿ともあろう者がその御三卿のたかだか陪臣に過ぎぬ者に対して遠慮があるとは何ともおかしな話のようにも思えるが、しかし、こと宗尹と谷口新十郎との関係で言えばそれも無理からぬところであった。
それと言うのも谷口新十郎は宗尹の叔父に当たるからだ。
即ち、八代将軍・吉宗が側室・久こと深心院との間に生まれた男児こそ宗尹であり、宗尹の実母である久こと深心院の実弟こそが谷口新十郎であった。
谷口新十郎が一橋家の番頭、それも筆頭である上首に取り立てられたのも、ひとえに甥に当たる一橋家の初代当主となった宗尹の強い「ヒキ」があればこそ、であった。
そのため宗尹としても己が取り立てたその谷口新十郎をヒラの番頭へと降格させることには抵抗感があり、ましてやクビにするなど到底、不可能であった。
谷口新十郎もそんな宗尹の胸のうちを見透かし、いや、足下を見て、一橋邸内においてそれこそ、我が物顔で振る舞っていた。
無論、遊歌のように傍若無人に振る舞っていたわけではないが、それでも威勢が強く、治済と治之の兄弟に対しても強く出る始末であった。
何しろ治済・治之兄弟は宗尹の子…、谷口新十郎の甥に当たる宗尹の子ということで、そうであれば谷口新十郎にとって治済・治之兄弟は、
「姪孫」
に当たり、それゆえ谷口新十郎も治済・治之兄弟にも当然、遠慮するところがなかった。
いや、治済・治之兄弟のみならず、宗尹の嫡男…、正室の俊姫顕子との間にもうけた、初めての嫡男の重昌や、さらに遊歌との間にもうけた長女の保姫やそのすぐ下の弟の重富に対してもそうであった。
重昌は母・俊姫顕子譲りのおっとりとした性格で、それゆえ谷口新十郎から強く出られたところで、何とも思わなかったが、しかし、勝気な遊歌の血を引く保姫・重富の姉弟はそんな谷口新十郎の態度に猛反発したものである。
この時…、宝暦10(1760)年の時点においては既に重富は一橋邸を出ており、それゆえ一橋邸に残っている宗尹の子女は治済・治之兄弟の他には長女の保姫であり、この時点でも、保姫は実弟の治済と共に、それこそ、
「タッグを組んで…」
谷口新十郎の態度に猛反発していた。
それとは対照的なのが末っ子の治之であり、谷口新十郎のその態度に対して、保姫や治済のように反発を覚えるどころか、新鮮さを感じ、そんな谷口新十郎に懐き、谷口新十郎もそんな姪孫である治之を大いに可愛がったものである。
さて、これらの事情は用人である末吉善左衛門も良く承知しているところであり、そうであれば、
「保姫・治済姉弟…、とりわけ治済の味方をする…」
末吉善左衛門にはその選択肢しかなかった。何しろ、末吉善左衛門にしてもまた、一橋邸内にて我が物顔で振る舞う谷口新十郎に対して嫌悪感を抱いていたからだ。
その谷口新十郎が治済の廃嫡に賛同したとあらば、谷口新十郎をライバル視する末吉善左衛門としては逆に、治済こそが一橋家の世継に相応しいと、そう論陣を張ったのは至極当然の展開であり、そこへ、末吉善左衛門と同じく、谷口新十郎に対して…、その専横ぶりにかねて猛反発していた小宮山利助たちも…、他の用人たちも末吉善左衛門に味方した。
一方、その他の「八役」、即ち、旗奉行や長柄奉行、物頭や郡奉行、そして勘定奉行といった面々…、さしずめ「五役はこの時点ではまだ、どっちつかずの態度に終始した。
いや、谷口新十郎と共に、治済の廃嫡に賛同した、谷口新十郎と同じく番頭を務める石川孫太郎や高林彌兵衛にしても本音では治済を廃嫡することには内心、極めて懐疑的であったのだが、それでも上首…、筆頭である谷口新十郎に対する遠慮から引きずられるようにして治済の廃嫡に賛同したに過ぎず、心底、賛同したわけではなかった。
そのことは谷口新十郎も勿論、良く把握しているところであり、そうであれば谷口新十郎としては「外部」に助けを求めることにした。即ち、「大奥」である。
谷口新十郎には久…、宗尹の母堂である久という姉の他、竹という妹がおり、この妹はかつては姉の久と共に大奥にて暮らし、のみならず、年寄の外山によって育てられたのであった。
谷口新十郎はその「ツテ」を頼りに、大奥に治済の廃嫡の件を頼むつもりでいた。
大奥より将軍サイドへと治済の廃嫡を猛プッシュしてもらおうとの魂胆であり、谷口新十郎のその目の付け所は悪くはなかった。
だが谷口新十郎にとって不運だったのはこの時点…、宝暦10(1760)年の時点では年寄の外山は既に亡く、頼みの綱とも言うべき妹の竹にしても同様に、既に亡かった。
これでは大奥における足場を失ったも同然であった。
いや、これで「御三卿潰し」に狂奔する家重が将軍でいたならば、或いは治済の廃嫡もうまくことが運んだやも知れぬが、こちらも生憎と、将軍職は家重から家治へと代替わりしており、将軍職に就任当初の家治は父・家重とは違い、それ程、御三卿に対して悪感情を持ってはおらず、と言うよりは関心がなく、それゆえ一橋家に波風を立てるような治済の廃嫡には家治は乗り気でなく、その点でも谷口新十郎は不運と言えた。
一方、それとは好対照なのが末吉善左衛門であり、末吉善左衛門は一橋邸にて年寄を務める岩田と連携を取りつつ、中立派である郡奉行の横尾六右衛門を真っ先に仲間に引き入れた。
末吉善左衛門は谷口新十郎が大奥を動かして将軍に対して治済の廃嫡を働きかけてもらおうと、そういう魂胆であることを当初より見抜いており、そうであればこちらもと、先手を打つ格好で、一橋邸にて年寄を務める岩田を仲間に…、
「治済こそが一橋家の正統なる世継である…」
その仲間に引き入れることにしたのであった。それと言うのも、岩田はここ一橋邸へと引き移る前は江戸城本丸の大奥にて、宗尹もとい小五郎附の年寄を務めていたのだが、その際、岩田は将軍・家重附の御客会釈の松島と親しく付き合っており、そして、将軍が家重から家治へと代替わりを果たすと、その松島が新たに将軍となった家治附の年寄となり、そこで末吉善左衛門としては、岩田、松島のルートで新将軍・家治に対してその旨…、
「治済こそが一橋家の正統なる世継である…」
そう働きかえてもらうこととし、しかしそのためには、
「先立つもの…」
それが必要不可欠であり、そこで末吉善左衛門はその「先立つもの」を用立てるべく、郡奉行の横尾六右衛門をも仲間に引き入れることとした。
郡奉行とは徴税などを担うトップであり、それゆえ、先立つものを用立ててもらうのに、
「極めて都合の良いポスト…」
そう言え、だからこそ末吉善左衛門もその郡奉行を務める横尾六右衛門を仲間に引き入れようとしたのであったが、しかし、それだけに留まらない。
それと言うのも、郡奉行の横尾六右衛門を仲間に引き入れることが出来れば、勘定奉行の小倉小兵衛をも仲間に引き入れられることが期待できるからだ。
どういうことかと言うと、横尾六右衛門の息・藤次郎宅平は小倉小兵衛の妹を娶っていたからだ。
末吉善左衛門は勿論、横尾六右衛門と小倉小兵衛とのその関係を把握しており、それゆえ横尾六右衛門を仲間に引き入れることに腐心し、結果、横尾六右衛門を仲間に引き入れることに成功するや、末吉善左衛門が期待した通り、小倉小兵衛までも仲間に引き入れることに成功した。
いや、小倉小兵衛の場合は末吉善左衛門がわざわざ仲間に引き入れるまでもなく、小倉小兵衛自身が横尾六右衛門の後を追う格好で末吉善左衛門の陣営入りを望んだのであった。
ともあれこれで末吉善左衛門は郡奉行の横尾六右衛門と勘定奉行の小倉小兵衛を仲間に引き入れたことで、
「豊富な軍資金」
それを得ると、その金を元手に、大奥に対しては岩田、松島ルートで働きかけを行い、一方、中奥サイドに対しても、新たに家老となった、そして、治済の廃嫡に反対とまではゆかずとも、慎重な姿勢を見せる田沼意誠を介して、本家筋にして、御側御用取次として将軍の御側近くに仕える意次より将軍へと、
「一橋家の正統なる世継は治済である…」
それを再確認してもらうべく、末吉善左衛門は意誠よりその旨、意次へと伝えてもらい、結果、将軍は…、新将軍・家治は大奥と中奥の両サイドより、
「一橋家の正統なる世継は治済である…」
その旨、刷り込まれたために、家治は改めて、一橋家の正統なる世継は治済であると、そう宣したのであった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
もし石田三成が島津義弘の意見に耳を傾けていたら
俣彦
歴史・時代
慶長5年9月14日。
赤坂に到着した徳川家康を狙うべく夜襲を提案する宇喜多秀家と島津義弘。
史実では、これを退けた石田三成でありましたが……。
もしここで彼らの意見に耳を傾けていたら……。
世界はあるべき姿へ戻される 第二次世界大戦if戦記
颯野秋乃
歴史・時代
1929年に起きた、世界を巻き込んだ大恐慌。世界の大国たちはそれからの脱却を目指し、躍起になっていた。第一次世界大戦の敗戦国となったドイツ第三帝国は多額の賠償金に加えて襲いかかる恐慌に国の存続の危機に陥っていた。援助の約束をしたアメリカは恐慌を理由に賠償金の支援を破棄。フランスは、自らを救うために支払いの延期は認めない姿勢を貫く。
ドイツ第三帝国は自らの存続のために、世界に隠しながら軍備の拡張に奔走することになる。
また、極東の国大日本帝国。関係の悪化の一途を辿る日米関係によって受ける経済的打撃に苦しんでいた。
その解決法として提案された大東亜共栄圏。東南アジア諸国及び中国を含めた大経済圏、生存圏の構築に力を注ごうとしていた。
この小説は、ドイツ第三帝国と大日本帝国の2視点で進んでいく。現代では有り得なかった様々なイフが含まれる。それを楽しんで貰えたらと思う。
またこの小説はいかなる思想を賛美、賞賛するものでは無い。
この小説は現代とは似て非なるもの。登場人物は史実には沿わないので悪しからず…
大日本帝国視点は都合上休止中です。気分により再開するらもしれません。
【重要】
不定期更新。超絶不定期更新です。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる