握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

文字の大きさ
5 / 43
引っ越しにて

しおりを挟む


「随分と部屋らしくなりましたねぇ」
 完成した家具をそれぞれの場所に配置し終わったばかりの、できたての部屋を二人でぐるりと見回す。顎に手を当てながら松雲が感心したような声を上げた。
「うん。手伝ってくれてありがとな」
「おや、君が素直だと不気味ですね」
 くすくすと笑われ、きまりが悪くて康介は唇を尖らせた。
 窓から射し込んでくるオレンジ色の夕陽が、できたばかりの部屋を柔らかに照らす。西日がきついわけでもなく、ちょうどいい塩梅だ。オレンジ色の光に包まれた部屋は、なんだかこれまで暮らしてきた実家のように安心感があった。
 外からは家に帰る途中であろう子どもたちの元気な声が聞こえてくる。もうすっかり日が暮れてしまっていた。
「さっ、私はもう帰りますね。帰ってまた原稿を書かなくちゃ」
 松雲はうーんと伸びをしながら腰を上げた。テレビボードに置いた時計を見ると、時刻は五時を少し過ぎたところであった。
「締切、破らないように気をつけるんだぞ」
 書けない書けないと言って喚く松雲を叱咤していたこれまでの日々を思い返して忠告する。すると松雲は「耳が痛いことを言いますね」と渋い表情で両耳を押さえた。
「体調管理に気をつけて。春とは言えまだまだ寒いですから。ゴミの日を種類ごとにきちんと覚えてゴミ出しするのですよ。それと食事はきちんと摂るように。まあ、君は料理が得意だから大丈夫でしょうけれど」
 玄関を出てからも小言を連ねる松雲に、康介は苦笑をもらす。心配してくれていることをきちんと理解しているぶん、気恥ずかしさがこみ上げてくる。
「松雲こそ、カップ麺ばっかり食べてちゃダメだからな」
「善処します」
「じゃ、またな」
「はい。いつでも待ってますからね」
 優しく微笑む松雲に、康介もまたにっこりと笑ってみせた。
 去っていく後ろ姿を見送って、ドアを閉める。

 さて、そろそろ夕食の準備をしようか。いやその前に、お隣さんに挨拶をしに行かなくては。あまり時間が遅くなってはいけないし。
 そう考えて、康介は部屋の隅に置いていた、手土産の入った紙袋を手に取る。中身はベタに洗剤だ。ずしりとした重さを指に引っ掛けながら、さっき閉めたばかりのドアをガチャリと開ける。そしてたった数歩の距離にある隣の部屋のドアの前に立った。
 康介は人見知りではないし、初対面の人と話すのもそんなに抵抗はない方だ。図太い、と言われる神経は人間関係においても発揮されている。
 なんの迷いもなく康介はポチッとインターホンを押した。気の抜けたような音が響く。
 しばらくして、ドアの向こうから人が歩いてくる音がした。足音がすぐ近くになって、ガチャリとドアが開かれる。
「……はい」
 ぶっきらぼうな声とともに、男がのそりと顔を覗かせた。
 その顔を見て、康介はハッと息を飲む。
 そこにいたのは、入試のときに一目惚れしたあの綺麗な黒髪の彼だった。 
 思わず「あっ」と声を上げる。びっくりして、頭がフリーズしてしまう。まさか、こんなところで再会するなんて。言葉が出ずに、康介は口を開けたまま立ち尽くした。
 すると彼は怪訝そうに形の良い眉をひそめた。そのまま半歩後退りする彼に、康介は慌てて声を発した。
「あっ、えっと、隣に越してきた芝崎です。これ、粗品ですけどよかったら貰ってください」
「どうも」
 ろくに目も合わさずに告げられる。
 あまりに素っ気ない対応。でも、きっと当然だろう。入試のときにたった一回会っただけで、言葉だって満足に交わしていない人間なんて覚えているはずがない。落胆しつつも、それを表に出さないように慎重に表情を繕う。
 おずおずと差し出した紙袋を、彼の長い指が受け取る──寸前で、ドサリと紙袋が落下した。
「あっ、すんません!」
 指先が震えていたせいで上手く受け渡しができなかった。康介は慌てて身をかがめて、二人の真ん中に落ちた紙袋を拾い上げようとする。
「いや、大丈夫です」
 けれど、サッと手を伸ばした彼が康介よりも先ににそれを掴み取った。
 そのとき、かがんだ彼の丸い背中がぴくりと揺れた。顔を上げた彼は、その涼しげな瞳を見開いていた。
 どうしたのだろう。康介は小さく顎を引く。
 すると、桜色の唇をニヤリとゆがめて彼が笑った。
「落としてばっかりなのに、大学は受かって良かったじゃん」
「えっ!」
 告げられたのは、思いもよらない言葉だった。

しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

学院のモブ役だったはずの青年溺愛物語

紅林
BL
『桜田門学院高等学校』 日本中の超金持ちの子息子女が通うこの学校は東京都内に位置する幼少中高大院までの一貫校だ。しかし学校の規模に見合わず生徒数は一学年300人程の少人数の学院で、他とは少し違う校風の学院でもある。 そんな学院でモブとして役割を果たすはずだった青年の物語

【完結】『ルカ』

瀬川香夜子
BL
―――目が覚めた時、自分の中は空っぽだった。 倒れていたところを一人の老人に拾われ、目覚めた時には記憶を無くしていた。 クロと名付けられ、親切な老人―ソニーの家に置いて貰うことに。しかし、記憶は一向に戻る気配を見せない。 そんなある日、クロを知る青年が現れ……? 貴族の青年×記憶喪失の青年です。 ※自サイトでも掲載しています。 2021年6月28日 本編完結

フードコートの天使

美浪
BL
西山暁には本気の片思いをして告白をする事も出来ずに音信不通になってしまった相手がいる。 あれから5年。 大手ファストフードチェーン店SSSバーガーに就職した。今は店長でブルーローズショッピングモール店に勤務中。 そんなある日・・・。あの日の君がフードコートに居た。 それは間違いなく俺の大好きで忘れられないジュンだった。 ・・・・・・・・・・・・ 大濠純、食品会社勤務。 5年前に犯した過ちから自ら疎遠にしてしまった片思いの相手。 ずっと忘れない人。アキラさん。 左遷先はブルーローズショッピングモール。そこに彼は居た。 まだ怒っているかもしれない彼に俺は意を決して挨拶をした・・・。 ・・・・・・・・・・・・ 両片思いを2人の視点でそれぞれ展開して行こうと思っています。

オレに触らないでくれ

mahiro
BL
見た目は可愛くて綺麗なのに動作が男っぽい、宮永煌成(みやなが こうせい)という男に一目惚れした。 見た目に反して声は低いし、細い手足なのかと思いきや筋肉がしっかりとついていた。 宮永の側には幼なじみだという宗方大雅(むなかた たいが)という男が常におり、第三者が近寄りがたい雰囲気が漂っていた。 高校に入学して環境が変わってもそれは変わらなくて。 『漫画みたいな恋がしたい!』という執筆中の作品の登場人物目線のお話です。所々リンクするところが出てくると思います。

僕の部下がかわいくて仕方ない

まつも☆きらら
BL
ある日悠太は上司のPCに自分の画像が大量に保存されているのを見つける。上司の田代は悪びれることなく悠太のことが好きだと告白。突然のことに戸惑う悠太だったが、田代以外にも悠太に想いを寄せる男たちが現れ始め、さらに悠太を戸惑わせることに。悠太が選ぶのは果たして誰なのか?

漫画みたいな恋がしたい!

mahiro
BL
僕の名前は杉本葵。少女漫画が大好きでクラスの女の子たちと一緒にその話をしたり、可愛い小物やメイク、洋服の話をするのが大好きな男の子だよ。 そんな僕の夢は少女漫画の主人公みたいな素敵な恋をすること! そんな僕が高校の入学式を迎えたときに漫画に出てくるような男の子が登場して…。

【完結】毎日きみに恋してる

藤吉めぐみ
BL
青春BLカップ1次選考通過しておりました! 応援ありがとうございました! ******************* その日、澤下壱月は王子様に恋をした―― 高校の頃、王子と異名をとっていた楽(がく)に恋した壱月(いづき)。 見ているだけでいいと思っていたのに、ちょっとしたきっかけから友人になり、大学進学と同時にルームメイトになる。 けれど、恋愛模様が派手な楽の傍で暮らすのは、あまりにも辛い。 けれど離れられない。傍にいたい。特別でありたい。たくさんの行きずりの一人にはなりたくない。けれど―― このまま親友でいるか、勇気を持つかで揺れる壱月の切ない同居ライフ。

ショコラとレモネード

鈴川真白
BL
幼なじみの拗らせラブ クールな幼なじみ × 不器用な鈍感男子

処理中です...