握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

文字の大きさ
4 / 43
引っ越しにて

しおりを挟む

「ほらほら康介、ぼーっとしてないで早く手を動かしてください」
 窓から見える青空を眺めていた康介は、松雲に急かされて慌ててドライバーを握り直した。松雲の言うとおり、まずは家具作りに専念しなければ。なにしろ今のこの新居はベッドすらないがらんどうなのだから。
 急行スケジュールとなった新居探しだったが、なんとかピンと来る部屋を見つけることができた。広さは七畳の1K、キッチンとバス・トイレ付き、日当たりが良く、階数は二階。そして角部屋。
 新居となるアパートはL字型という珍しい形をしており、その曲がった先の短い棒の方には二つの部屋が並んでいる。そのうちの内側の階段に近い方が康介の自室となる部屋だ。ちなみにもう片方である隣室にはすでに人が住んでいるらしい。家具の組み立てが終われば、騒がしくしたお詫びを兼ねて挨拶に行くつもりだ。
「さあ、頑張らないと日が暮れちゃいます。今日から君はここで暮らさなきゃならないんですから」
 パイプベッドの脚を押さえながら、松雲がぷりぷりと言う。今日は珍しくTシャツ姿である。着物の方が慣れているからむしろ動きやすいというのがいつもの彼の弁だが、さすがに着物で重労働をする気にはならなかったらしい。あまり見慣れない姿なので少し新鮮だ。
「はいはい、分かってるって」
 康介はぐりぐりとドライバーを回してネジを締めていく。反対側の脚のネジを松雲から受け取ったとき、松雲がふと「でも」と呟いた。
 手の中の小さなネジから、目の前の松雲へと視線を移す。
 松雲は、まっすぐに康介を見つめていた。
「いつでも帰ってきていいんですからね。あの家はこれからもずっと、紛れもなく君の家でもあるんですから」
 それは、いつになく神妙な声音で。
 はっとして、康介は目を見開く。


 松雲と暮らし始めたのは、康介が九歳のとき。
 交通事故で康介の両親が他界した。
 激しい雨の降る日だった。当時、康介は少し離れたところの私立小学校まで電車で通学していたのだが、その日康介は傘を持たずに出かけていた。朝、家を出たときにはまだ薄曇りだったから。
『傘、持って行かないの?』
 背中にかけられた母の声に、康介は「だいじょうぶ」と答えた。朝食を食べながらぼんやり見ていたテレビの天気予報は、夕方までずっと曇りだと告げていた。雨なんて降らないと信じきっていた。
 父と母は、駅まで迎えに来てくれようとしていたらしい。バケツをひっくり返したような雨だから、傘を持たない子どもが歩いて帰るのは可哀想だと思ったのだろう。父はその日ちょうど仕事が休みの日だったから、もしかしたらその足で夕食を食べに出かけるつもりだったのかもしれない。
 けれど、二人は来なかった。
 交差点で信号無視をしたトラックに突っ込まれたのだ。激しい雨だった。視界は悪いし、道は滑る。二人が乗っていた、康介のお気に入りだった父の黒い車は、ゴミに出された空き缶のようにペシャンと潰れていたらしい。病院で大人たちがひそひそと話しているのを、康介は少し離れた場所で聞かされた。
 父は母子家庭で育っており、その祖母はすでにこの世にいない。母は遠方から嫁いで来ていたし、年の離れた兄である叔父には四人もの子どもがいる。つまり、康介にはほとんど身寄りがなかった。
 一人になったという実感はまるでなかった。ずっと夢の中にいるような心地で、病院にいても、遠い親戚だというおばさんの家にいても、何をしていても現実味がなかった。泣くことすらできなかった。
 困ったね、可哀想に。誰もが口々にそう言うが、彼らの目には自分の領域に厄介事を持ち込みたくないという拒絶の色が透けて見えていた。冷たいとは思わない。今にして思えば、当然だとすら思う。
 けれどそんな当然は、ある青年の一声で打ち壊された。
「康介くん。よかったら、私と一緒に暮らしませんか?」
 お葬式のあと、親戚たちが集う座敷の隅で影のように立ち尽くしていた康介の前に現れたのは、黒い着物に身を包んだ男だった。歳は二十代半ばごろだろう。穏やかな瞳が印象的な男だった。
 あっ、と思わず声がもれる。その男の姿は、何度も写真で見たことがあったのだ。
 たしか、母の従兄弟で、本を書いている人。『松雲はね、すごいんだよ。いっぱい本を書いてるの。お母さんの自慢の従兄弟よ』と、さまざまな写真を見せてくれた母の声が頭によみがえる。その写真に写る男も、目の前の男と同じで着物を着ていたし、髪は赤茶けていた。
「作家の松雲?」
尋ねると、男は
「そうですよ。知っていてもらえて光栄です」
と優しく微笑んだ。その目の中には、拒絶の色も哀れみもなく、ただただ穏やかな温もりだけが感じられた。
 康介は目の前に差し出された手をおずおずととった。ふわりと包みこむそれは、とても大きくて、あたたかかった。
 そのとき、康介は両親を失ってからはじめて大声を上げて泣いたのだった。


 あのときと何ひとつ変わらない穏やかな温もりを湛えた瞳を、康介もまっすぐに見つめ返す。
「うん。分かってるよ」
 康介は、こっくりと大きく頷いた。
 その言葉があれば、大丈夫だ。そんな言葉をくれるこの人がいるから、大丈夫だ。
 今は何もないこの部屋だけれど、きっとここでも暮らしてゆける。
「ならよかった」
 にっこりと目を細めて笑う松雲を見ながら、康介はそれを確信していた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

契約満了につき

makase
BL
仮初めの恋人として契約を結んだ二人の、最後の夜。

執着

紅林
BL
聖緋帝国の華族、瀬川凛は引っ込み思案で特に目立つこともない平凡な伯爵家の三男坊。だが、彼の婚約者は違った。帝室の血を引く高貴な公爵家の生まれであり帝国陸軍の将校として目覚しい活躍をしている男だった。

後宮の男妃

紅林
BL
碧凌帝国には年老いた名君がいた。 もう間もなくその命尽きると噂される宮殿で皇帝の寵愛を一身に受けていると噂される男妃のお話。

心からの愛してる

マツユキ
BL
転入生が来た事により一人になってしまった結良。仕事に追われる日々が続く中、ついに体力の限界で倒れてしまう。過労がたたり数日入院している間にリコールされてしまい、あろうことか仕事をしていなかったのは結良だと噂で学園中に広まってしまっていた。 全寮制男子校 嫌われから固定で溺愛目指して頑張ります ※話の内容は全てフィクションになります。現実世界ではありえない設定等ありますのでご了承ください

発情期のタイムリミット

なの
BL
期末試験を目前に控えた高校2年のΩ・陸。 抑制剤の効きが弱い体質のせいで、発情期が試験と重なりそうになり大パニック! 「絶対に赤点は取れない!」 「発情期なんて気合で乗り越える!」 そう強がる陸を、幼なじみでクラスメイトのα・大輝が心配する。 だが、勉強に必死な陸の周りには、ほんのり漂う甘いフェロモン……。 「俺に頼れって言ってんのに」 「頼ったら……勉強どころじゃなくなるから!」 試験か、発情期か。 ギリギリのタイムリミットの中で、二人の関係は一気に動き出していく――! ドタバタと胸きゅんが交錯する、青春オメガバース・ラブコメディ。 *一般的なオメガバースは、発情期中はアルファとオメガを隔離したり、抑制剤や隔離部屋が管理されていたりしていますが、この物語は、日常ラブコメにオメガバース要素を混ぜた世界観になってます。

貧乏Ωが御曹司αの将来のために逃げた話。

ミカン
BL
オメガバース

処理中です...