握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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引っ越しにて

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「随分と部屋らしくなりましたねぇ」
 完成した家具をそれぞれの場所に配置し終わったばかりの、できたての部屋を二人でぐるりと見回す。顎に手を当てながら松雲が感心したような声を上げた。
「うん。手伝ってくれてありがとな」
「おや、君が素直だと不気味ですね」
 くすくすと笑われ、きまりが悪くて康介は唇を尖らせた。
 窓から射し込んでくるオレンジ色の夕陽が、できたばかりの部屋を柔らかに照らす。西日がきついわけでもなく、ちょうどいい塩梅だ。オレンジ色の光に包まれた部屋は、なんだかこれまで暮らしてきた実家のように安心感があった。
 外からは家に帰る途中であろう子どもたちの元気な声が聞こえてくる。もうすっかり日が暮れてしまっていた。
「さっ、私はもう帰りますね。帰ってまた原稿を書かなくちゃ」
 松雲はうーんと伸びをしながら腰を上げた。テレビボードに置いた時計を見ると、時刻は五時を少し過ぎたところであった。
「締切、破らないように気をつけるんだぞ」
 書けない書けないと言って喚く松雲を叱咤していたこれまでの日々を思い返して忠告する。すると松雲は「耳が痛いことを言いますね」と渋い表情で両耳を押さえた。
「体調管理に気をつけて。春とは言えまだまだ寒いですから。ゴミの日を種類ごとにきちんと覚えてゴミ出しするのですよ。それと食事はきちんと摂るように。まあ、君は料理が得意だから大丈夫でしょうけれど」
 玄関を出てからも小言を連ねる松雲に、康介は苦笑をもらす。心配してくれていることをきちんと理解しているぶん、気恥ずかしさがこみ上げてくる。
「松雲こそ、カップ麺ばっかり食べてちゃダメだからな」
「善処します」
「じゃ、またな」
「はい。いつでも待ってますからね」
 優しく微笑む松雲に、康介もまたにっこりと笑ってみせた。
 去っていく後ろ姿を見送って、ドアを閉める。

 さて、そろそろ夕食の準備をしようか。いやその前に、お隣さんに挨拶をしに行かなくては。あまり時間が遅くなってはいけないし。
 そう考えて、康介は部屋の隅に置いていた、手土産の入った紙袋を手に取る。中身はベタに洗剤だ。ずしりとした重さを指に引っ掛けながら、さっき閉めたばかりのドアをガチャリと開ける。そしてたった数歩の距離にある隣の部屋のドアの前に立った。
 康介は人見知りではないし、初対面の人と話すのもそんなに抵抗はない方だ。図太い、と言われる神経は人間関係においても発揮されている。
 なんの迷いもなく康介はポチッとインターホンを押した。気の抜けたような音が響く。
 しばらくして、ドアの向こうから人が歩いてくる音がした。足音がすぐ近くになって、ガチャリとドアが開かれる。
「……はい」
 ぶっきらぼうな声とともに、男がのそりと顔を覗かせた。
 その顔を見て、康介はハッと息を飲む。
 そこにいたのは、入試のときに一目惚れしたあの綺麗な黒髪の彼だった。 
 思わず「あっ」と声を上げる。びっくりして、頭がフリーズしてしまう。まさか、こんなところで再会するなんて。言葉が出ずに、康介は口を開けたまま立ち尽くした。
 すると彼は怪訝そうに形の良い眉をひそめた。そのまま半歩後退りする彼に、康介は慌てて声を発した。
「あっ、えっと、隣に越してきた芝崎です。これ、粗品ですけどよかったら貰ってください」
「どうも」
 ろくに目も合わさずに告げられる。
 あまりに素っ気ない対応。でも、きっと当然だろう。入試のときにたった一回会っただけで、言葉だって満足に交わしていない人間なんて覚えているはずがない。落胆しつつも、それを表に出さないように慎重に表情を繕う。
 おずおずと差し出した紙袋を、彼の長い指が受け取る──寸前で、ドサリと紙袋が落下した。
「あっ、すんません!」
 指先が震えていたせいで上手く受け渡しができなかった。康介は慌てて身をかがめて、二人の真ん中に落ちた紙袋を拾い上げようとする。
「いや、大丈夫です」
 けれど、サッと手を伸ばした彼が康介よりも先ににそれを掴み取った。
 そのとき、かがんだ彼の丸い背中がぴくりと揺れた。顔を上げた彼は、その涼しげな瞳を見開いていた。
 どうしたのだろう。康介は小さく顎を引く。
 すると、桜色の唇をニヤリとゆがめて彼が笑った。
「落としてばっかりなのに、大学は受かって良かったじゃん」
「えっ!」
 告げられたのは、思いもよらない言葉だった。

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