握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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口実カレー

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 二人がかりの洗い物はすぐに終わった。
 連れ立って部屋に戻ったとき、涼がまた「あ」と声を上げた。
「もうこんな時間だ。随分長い時間おじゃましちゃったかな」
 テレビボードの上の時計を見やりながら呟かれた言葉につられるように、康介もそちらへ視線を向ける。二つの針は八時を少し過ぎたことを示していた。
「ゆっくりしてけばいいのに」
 せっかく隣の部屋なのだから。そんな思いから、引き止める声は思った以上に未練がましい響きを含んでいた。慌てて誤魔化すように咳払いをする。
 くす、と口元を緩めた涼は、「明日英語の授業で小テストがあるから、勉強しなきゃヤバイんだ」と肩をすくめてみせた。
 用事があると言われてしまうと無理に引き止めるわけにもいかない。康介は「そっか」すごすごと引き下がる。
「誘ってくれてありがとう。手料理食べたの久しぶりだったから新鮮だった」
 玄関先でくるりと振り返った涼が、微笑みながらもう一度お礼を言った。肩を落としていた康介は途端にパッと顔を輝かせる。
 少しぶっきらぼうだけれど、でもこうした人一倍律儀で気配りのできるところが垣間見えるたびに、どうしようもなく深く惹かれてしまう。ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたみたいな心地になるのだ。
「こちらこそ。急に誘っちゃったから迷惑だったかなって思ったけど、喜んでもらえたみたいで嬉しいよ」
「迷惑なんかじゃねぇよ。康介の作ったカレー、食べたかったから」
 さらりと告げた涼は、じゃあな、と言ってドアを開ける。
 その背中に康介は思わず「なあ」と声をかけていた。
 中途半端に開いたドアに細長く切り取られた夜空バックに、涼がきょとんと目を瞬かせる。室内のほの白い明かりが彼の端正な顔にくっきりと印影を映すのが、ひどく鮮明だった。
「これから毎週、水曜日は一緒に晩ご飯食べようよ。一人分作るのも二人分作るのも変わらないし、それに誰かに食べてもらった方が張り合いがあるし」
 まっすぐに涼の目を見ながら告げた康介は、それからにこっと笑った。
 とっさの提案の理由には、普段自炊をしないと言う彼のインスタントばかりの食生活が心配だから、というのもある。
 けれど一番の理由は、彼のためにご飯を作りたいと思ったから。
 本当は、「誰か」に食べてほしいわけじゃない。他でもない彼のために、『康介の作ったカレーが食べたかった』と言ってくれた涼のためにご飯を作りたいのだ。
 呆気にとられたように立ち尽くす涼に、康介は答えを促すように少し首を傾げてみせる。二秒間くらい三和土のあたりに視線をさまよわせた涼は、その後、ちらりと康介を見た。迷子になった子どもみたいな目だった。
「俺は、ありがたいけど……。康介はいいの?」
「よくなかったらわざわざこんな提案しないだろ」
 わずかに眉を下げる涼の掠れた声を、康介は軽い調子で笑い飛ばす。
 涼はまた少し下を向いた。開きっぱなしのドアから、アパートのすぐ側を通る自転車の車輪の音が響いてくる。
 きゅ、と一度唇をひき結んで、涼は口を開いた。
「……わかった」
 呟いた後、こくりと小さく、けれどたしかに頷いた。

 バタン、とドアが閉められたのを見届けて、康介は大きなため息を吐きだした。
 思わず突拍子もない約束を取り付けてしまった。やっぱり少し強引すぎたかもしれない。ずるずるとその場にしゃがみ込む。
 けれど、どうしてももっと涼に近づきたかった。
 迷いながらもこくりと頷いた彼の姿が脳裡によみがえる。頷いてくれてよかった。受け入れてくれて、よかった。顔を覆う手のすきまから、安堵の息が細くもれる。
 さて、来週の水曜日は何を振る舞おうか。
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