握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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口実カレー

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「小説家の清水松雲だよな」
「えっ、涼、気づいてたの!?」
 思わず康介は目を見開く。
 『清水松雲』というのは松雲のペンネームだ。
 松雲は著者近影を撮られるのを嫌がるのであまり写真が出回っておらず、ごく初期に出版された本にしか写真が載っていない。それにこう言ってはなんだが、誰もが知る有名作家というよりはまだ若手の中堅作家なので、そこそこ本を読む層以外にはまず名前すら知られていないだろう。
 それを、たった二回見かけただけの涼が気づくなんて。
「いや、気づいてたというか、たった今気づいた。この部屋清水松雲の本がたくさんあるんだなあって思って、そしたら彼の顔と着物の人の顔がダブって」
「そっかあ」
 たしかに康介の部屋にはこれまで出版された松雲の本が全部揃っている。本棚にも、床に積まれた山の中にも、彼のペンネームが書かれた本がたくさんある。
 それにしても、よく『清水松雲』の顔を覚えていたものだ。
「涼って読書家なんだな」
「そんな大げさなほどじゃねぇよ。それに、俺たちの学科じゃ珍しくもないだろ」
 涼はひらひらと手を振りながら苦笑した。たしかに康介と涼が所属している学科は文学科であるけれど、その学生がみんな文学に興味があるかと言えば、そんなことはない。中には本なんか滅多に読まない、なんて話す学生もいて、康介は驚いてしまったくらいだ。
 それに、今まで康介の周りで松雲の正体が小説家の『清水松雲』であることに自力で気づいた人はいない。やっぱり、ある程度本を読む人でなければ気づかないのだろう。
 もしかしたら、涼は『清水松雲』のファンなのかもしれない。
「なあ、涼ってもしかして──」
 尋ねようとしたとき、ちょうど涼が「あ」と声を上げた。
「どんぶり、早く洗わなきゃヤバイんじゃない?」
「え? あっ、たしかに!」
 カレーのルーは一度こびり付いてしまうとなかなか取れなくなってしまう。テーブルの上に放置されたどんぶりを見れば、すでに茶色く固まり始めてしまっていた。康介は慌ててどんぶり二つをキッチンへと運ぶ。
 どんぶりを水に浸していると、涼が残りの食器たちを持ってきてくれた。
「おっ、ありがとう」
 食器を受け取り、流しに置く。
 康介は料理は得意なのだが、洗い物は掃除と同じく苦手な分野である。いつもは面倒くさがって数時間放置しがちなのだが、涼の前でそんな姿は見せられない。康介はスポンジを手にしてテキパキと洗い物を始めた。
 その康介の手元を、涼がひょいと覗き込む。
「ごちそうになってるんだからこれくらいはしないと。ていうか、俺が洗い物しようか?」
「いやいやお客さんにそんなことさせられないよ! っていうか誘ったの俺だし!」
 康介は洗剤を握ったまま勢いよく固辞する。けれど、涼は「じゃあ俺は拭く係。ふきんってこれだよな?」とどこ吹く風でふきんを手にしている。
「いいよそんなのしなくても」
「いや俺、こういうの結構得意なんだよ」
 ふきんを広げて早く早くと催促する涼に、康介は観念して洗ったばかりのスプーンを手渡した。すぐさま拭き始める涼は、たしかに手際がいい。瞬く間に綺麗に拭き上げて、再びふきんを広げてスタンバイしているので、康介はしぶしぶ二つめのスプーンを手渡した。鼻歌でも歌いそうな勢いで次々と拭き上げていく涼に、康介は思わず尋ねる。
「自炊はそんなにしないんじゃなかったの?」
「んー、掃除とかはよくやってたから。それにカレーはときどき作ることもあるし」
「そうなんだ」
「まあ、ほんのときどきだけど」
 だからカレーの汚れの手強さを知っていたのか。合点がいって、康介はふんふんと頷いた。

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