握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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本当のこと

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 五時を少しだけ過ぎた頃、インターホンの音が静かな部屋の空気を震わせた。康介はごくりと唾を飲み込む。一度、大きく深呼吸をしてからのろのろと玄関へと向かう。
 ゆっくりとドアを開ける。細く切り取られた夕暮れ色の薄暗い空を背に、涼が所在なさげに佇んでいた。
「……いらっしゃい」
「……ん、お邪魔します」
 声をかけると、涼は口の端だけで少し笑ってみせた。けれど、その顔が微かに強張っていることはすぐに分かった。
 敷居をまたいで部屋に入ってくる姿もスニーカーを脱ぐ動きも、どこかぎこちない。彼は、今から何を話すつもりなのだろう。康介は涼の横顔を眺めながら、胸のあたりが鉛でも飲み込んだみたいにずしりと重くなるのを感じた。
 カーペットの上に座ると涼も隣に腰を下ろした。けれどその距離は心なしかいつもより離れている、ような気がする。ご飯の匂いが全くしない部屋に涼がいるこの状況が慣れなくて、自分の部屋のはずなのに妙に居心地が悪い。康介はもぞもぞと体を動かして尻の座りを直した。
 横目でさりげなく涼の様子を窺ってみる。伏せられたまつげの向こうの黒い瞳は、膝の上でぎゅっと握りしめているこぶしを見つめている。唇は堅く引き結ばれていて、容易に開かれそうにはない。
 康介はぽりぽりと頭をかいた。少し視線をさまよわせた後、口を開く。
「あー……えっと、さっきはごめん」
 そう口にした途端、涼がパッと勢いよく顔を上げた。その見開かれた目を見つめていられなくて、康介は思わず視線を逸らす。そのまま、呟くように告げる。
「涼の事情も分からないのに、キツい態度とったりして悪かった」
「ちがう、康介は悪くない」
 突然、きっぱりとした声が空気を震わせた。
 康介は涼へと振り向く。涼の黒い瞳がまっすぐに康介を見つめていた。彼はほんの少し震えている唇で、それでも強い声を紡ぐ。
「康介は悪くない、俺の、……俺が、悪かったんだ」
 言いながら、くしゃりと涼の顔が歪む。柳眉を下げてアーモンド型の目を細めて、唇を曲げて白い歯を食いしばって。
 それは、叱られる子どものような表情だった。
「ちょ、涼、どうしたんだよ」
 思わず康介は涼の背中に腕を回した。わずかに丸められた背中を撫でながら、慌てて声をかける。
「俺、べつにそんな怒ってないよ」
 いつもどこか飄々としていてあまり感情を表に出さない涼だから、今のように表情を崩しているところなんて見たことがない。いつもより幼い表情はひどく苦しげで、まるで泣くのを堪えているみたいに見えてしまう。
 そんな顔をさせたいわけではないのに。動揺と焦りが綯い交ぜになってじりじりと胸を焼く。
 康介は一度大きく息を吐いた。なんとか心を落ち着かせて、涼のきつく結ばれたこぶしにそっと触れる。
「無理しなくていいよ。言いたくないことなんだったら、無理して言わなくてもいい」
「ううん」
 涼はふるふると首を横に振った。
「ちゃんと、言うから」
「……分かった」
 康介は涼から手を離して、姿勢を正す。
「……なんで、俺に飲み会行っていいって言ったの?」
 責めるような口調にならないよう細心の注意を払いながら、ゆっくりと、穏やかに問う。ごくり、と唾を飲み込んだ涼が、そっと目を伏せた。
「康介は、友達も多いし」
 訥々と語る声はほんの少し掠れている。康介は口を挟むことなく、静かに聞き続ける。
「俺なんかとの約束に、なんて言うか、……縛りつけちゃいけないと思った」
 言いながら、涼は微かに口の端を持ち上げて笑みの形をつくる。自嘲じみたその微笑みに、心臓を直に握られたみたいにぎゅっと胸が痛む。
「……なんで、そう思ったの?」
 たぶん、その理由こそが涼の本音なのだろう。
 核心に──涼のなかの本当のことに触れたくて、康介は静かに尋ねる。膝の上の、涼の固く握られたこぶしがぴくりと動いた。
 黒い瞳が、水の中を泳ぐ金魚のようにゆらりと揺れる。ためらうように、きゅっと真一文字に引き結ばれた口が、やがておずおずと開かれた。

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