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大事にしたい
①
しおりを挟む「うん、ちゃんと食べてるよ。つーか今ちょうど食べ終わったところ」
テーブルに並んだままの食器たちを眺めつつ、康介はスマートフォンに向かって話しかける。電話の向こうでは松雲が『おや、それはグッドタイミングでしたね』と穏やかに笑っていた。
暖かさが少しずつ暑さに変わりだした六月の初めの、夜の八時過ぎ。不定期にかかってくる松雲からの電話は、今夜もいつも通り、取り留めのない世間話に終始している。何か用があるわけでもなく、ただ「元気にやっていますか?」「勉強は頑張っていますか?」などと尋ねる声は、少し気恥ずかしいながらもやっぱり嬉しい。月明かりの綺麗な夜に似合いの穏やかな声で康介は言葉を重ねていく。
「松雲こそちゃんと毎日三食食べてる? 締切に追われてぐだぐだになったりしてない?」
「はい、毎日三食きちんと……、とは、言い切れませんね」
気まずそうな松雲の声は尻すぼみになっている。康介は呆れたようにため息をついた。
「やっぱり。ちゃんと食べなきゃだめだろ?」
「いやでも努力はしてますよ、清水屋のお世話にもなってますし……って、これじゃどっちが保護者か分かりませんね」
「まったく、世話が焼けるよ」
ぽりぽりと頭をかく松雲の姿が目に浮かぶようだ。康介はふんと鼻を鳴らしてみせた。
「そういえば、新刊が出るのってもうそろそろだったよな?」
「はい、ちょうど明日ですよ」
「わかった。買いに行く」
康介が言うと、電話口の向こうで松雲がふふっと優しく笑った。
「良い読者を持って私は幸せですよ」
教壇上の先生が授業の終わりを告げる。と同時に、講義室内の空気がふわりと弛緩する。康介も腕を前に突き出して大きく伸びをした。
「わり、ちょっとノート見せてくれねぇ? 途中若干意識飛ばしてた」
隣に座っていた丸岡がつんつんと肩を突いてきた。この授業は嶋田とも菅田とも一緒じゃないので最初は一人で受けていたのだが、ある日同じような理由で一人で受けていた丸岡に声をかけられた。それから一緒に授業を受けるようになったのだ。居酒屋で遅くまでバイトをしているという彼は、ときどき今日のように居眠りをすることがある。その間のノートを見せてやるのがもっぱら康介の役目となっている。
「いいよ、ほら」
康介は苦笑しながらノートを差し出した。
「やった、いつもさんきゅ」
パッと顔を輝かせてそれを受け取った丸岡が、自分のノートにぽっかりと空いた空白を埋めていく。
「芝崎のノート分かりやすいし、本当助かるわ」
カリカリと軽快にシャーペンを走らせながら笑う丸岡に、康介も「そりゃよかった」と微笑んだ。
講義室を後にして丸岡と別れた後、康介は学生たちがわらわらと溢れる廊下を歩く。今日はこれで授業が終わりだから、帰る前に大学内の本屋に寄っていくつもりだ。お目当てはもちろん、今日発売の松雲の本だ。購買や生協の本屋などがまとめて設置された棟は、今いる文学部の校舎からは少し離れた場所にある。頭の中で最短ルートを計算しつつ歩いていると、不意に背後から肩を叩かれた。
「なあ、英語の授業一緒だよな?」
振り向くと、一人の男子学生が立っていた。たしか井上とかいう名前の彼は、例の吉村とよく連んでいたはずだ。いつも四、五人のグループでいる彼とはあまり話したことがないはずだが、一体何の用なのだろう。怪訝に思いながら頷く。
「うん、そうだけど」
「レジュメ貸してくんね? 先週のやつ」
井上はへらりと歯を見せて笑った。そう言えば、先週の英語の授業は吉村たちのグループは全員欠席していた気がする。グループ内の者は当てにできないから、それ以外の同じクラスの者に声をかけることにしたのだろう。そこで康介に白羽の矢が立った、というわけだ。
毎回授業の冒頭で行われる小テストへの対策や授業の予習をするためにはレジュメが必要だ。結構厳しい先生なので、小テストの結果や予習の有無も成績に含まれるのだ。幸い、康介は予習も対策も早めに済ませているのでそれを貸したところであまり支障はない。
「いいよ。ちょうど今持ってるから、渡すわ」
「おう」
二人は人混みから抜け出し、エントランス付近の休憩スペースへと移動する。
こじんまりとした休憩スペースはまばらに埋まっていた。康介はその端っこのテーブルにリュックを下ろし、中からレジュメの入ったクリアファイルを探る。
「なあ、お前って高倉と仲良いんだろ?」
突然、横で見ていた井上が口を開いた。康介はちらりと井上を見、わずかに頷く。
「……そうだけど」
「ならアイツに言っといてよ、自分の顔は有効活用した方がいいって」
ファイルを探っていた手が止まる。小さく眉を寄せつつ、康介は井上へと向き直った。
「どういう意味だ」
「そーいう意味。この前吉村に合コン誘われたろ? あれ、俺も行ってたんだわ」
へらへらとした軽薄そうな笑みを浮かべる顔を、鋭く見つめる。
「高倉が行かねーっつうから結局女のコたちにドタキャンれてさあ、かなしーよな」
「……それは涼のせいでも何でもねーだろ」
「そりゃそーだけどさぁ。でもちょっとくらいきょーりょくしてくれたっていいだろ」
駄々をこねる子どものように井上は軽く体を揺らす。ぺちゃんこのリュックが彼の背中で跳ねた。
「協力って言うのか、それ」
康介は目を細める。井上がくくっと喉を鳴らした。
「まあ何でもいいよ、俺らにメリットさえあれば。つーわけで今度の合コンは参加するよう言っといてくんね?」
「行きたくもない場所に行けなんて言うわけないだろ」
「あらら、お優しい。どうせお前だってアイツのおこぼれに預かるつもりで仲良くしてんだろ?」
井上が鼻で笑いながら吐き捨てる。
カッ、と頭の奥が熱くなる。手の中のクリアファイルがぐしゃりと音を立てて歪んだ。康介は眉を寄せ、嘲るように笑う目の前の男を睨みつける。
「レジュメ、他のやつに見せてもらって」
康介はファイルをリュックへと無造作に詰め込んだ。そして井上には一瞥もくれないままくるりときびすを返し、休憩スペースを飛び出した。
学生の波が引いた廊下はやけに静かだった。康介は井上にかけられた言葉を振り切るように大股で歩く、けれどあの軽薄な声音は嫌な響きを伴ったまま脳内にこびりついて離れない。頭の奥でふつふつと沸き立つマグマもいまだ熱いままだ。きつく奥歯を噛みしめる。
校舎の外に出ると、頭上には鉛色に淀んだ雲が垂れ込めていた。今にも泣き出しそうな空だ。湿気を孕んだ空気は冷たく、まとわりつくように重い。
無性に、涼の笑った顔が見たかった。
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