握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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大事にしたい

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 家に帰ってからも、胸に広がるもやのような憂鬱が消えることはなかった。
 窓の外の景色はいつの間にか雨模様へと変わっている。ざあざあと大げさな音を立てて響く雨音を聞くともなしに聞きながら、康介は深いため息を吐き出した。縮こまるように、投げ出していた脚を両手でぎゅっと抱えこむ。
 結局あの後、走るように足早に大学を飛び出してしまったので、松雲の新刊だって買えていない。なんだか今日はツイてないな。沈みこむような気分で、康介は抱えた膝に頭を埋めた。
 ぼうっとしていると、ゆらりとけぶる水煙のように、井上の嘲るような軽薄な声が脳裏に蘇ってくる。
『どうせお前だってアイツのおこぼれに預かるつもりで仲良くしてんだろ?』
 思い出した途端、また頭の奥がグラグラと熱くなる。あの言葉だけは許せなかった。だってあれは、康介だけではなく涼も貶める言葉だったのだ。涼の性格や人となりなんて一切知らないまま、ただ容姿だけを見てそこにしか価値を見出していない者の言葉だった。到底、聞き流すことなどできなかった。
 やっぱり怒りに任せて休憩スペースを飛び出したりなんかせずに、はっきりと反論しておけばよかった。もっとちゃんと話をしておくべきだった。一滴垂らした墨滴が水の中でじわりと広がるように、後悔が胸の中を黒く染める。康介はもう一度重いため息を吐いた。
 と、そのとき、リュックのポケットに入れっぱなしだったスマートフォンが軽快な音で鳴り響いた。チャットアプリの受信を知らせるその音に、一度目を逸らしたもののやっぱり気になって康介はスマホをリュックから取り出す。
 メッセージは菅田からだった。開いて見ると、たった一文だけの簡素なメッセージがピコンと表示された。
『高倉から連絡きた?』
 急に何を言っているのだろう。アイツ、べつに涼と親しいわけでもないだろうに。頭の中を疑問符で満たしながら、『いや、きてないけど。どうかしたの』と返信する。するとすぐに、『そっか、ならいいや』とだけ返ってきた。ますます意味が分からなくて、康介は首をひねる。けれど、菅田が意味の分からないメッセージを送ってくるのは何も珍しいことではない。ついこの間だって、黒焦げになった料理とも呼べないような物体の写真に一言『前衛芸術』とだけ添えたメッセージを送ってきていた。結局そのときは『そうだな』とだけ返したが、なんと反応してやるのが正解だったのかは今でも謎のままだ。そういった訳の分からないことを平然とやってのける男なのだ、菅田は。今までの彼の言動を思い出すうちに、固く強張っていた体がふっと緩やかにほどけていく。
 よっこいしょ、と小さく呟きながら康介は腰を上げた。何はともあれ、晩ご飯を作らないといけない。料理というものは、気を紛らわせるのに打ってつけだ。手を動かしていれば目の前の作業だけに集中していられるし、それに自分のために食事を作るということは自分自身への肯定感を高めてくれる。そして何より一番に、楽しい。
 今日は少し張り切って炊き込みご飯にしよう。鶏肉も油揚げもいっぱい入れて豪華にして、メインには好物かつ得意料理である肉じゃがを作ろう。まずは炊き込みご飯用の具材を切って、それから味噌汁の用意に取り掛かって、その後は──。頭の中で献立を組み立てて行くうちに、いつしか気分はすっかり料理モードへと切り替わっていた。


 翌日も、相変わらず雨は降り続けていた。
 バケツをひっくり返したような、とまではいかないものの結構な強さの雨脚は弱まることなく、ひっきりなしに窓を叩いている。教壇の教授が板書するタイミングを見計らって、康介はちらりと窓へと視線を向けた。雫に濡れた窓の向こうにはどんよりと濁った灰色の空だけが広がっている。この調子だと少なくとも昼過ぎ頃まではやまないだろう。
 小さく伸びをして、講義室内へと視線を戻す。雨の日は出席率が低くなる、とは言うものの、この授業は必修科目だから空席はほとんど見当たらない。真面目に授業を聞くふりをしながら、そっと右斜め前方の後ろ姿へと目をやる。少し丸まったその背中は涼のものだ。板書を写しているのだろう、黒い頭がまるで息継ぎでもするように忙しなく上下している。ノートを押さえる左手の、白いシャツの袖口がかすかに濡れていて色が濃くなっているのが見てとれる。思わずふっと笑みがこぼれた。授業が終わったら声をかけに行こう。次のコマも授業があるからあまり長くは話せないけれど、それでも顔を見て声を聞きたい。シャーペンを握る手にぎゅっと力をこめて、康介は自分もノートを取るべく黒板へと向き直った。
 授業終了後、前の席に座っていた友人の「おつかれー」と言う声に「おつかれ」と手を振って、康介は席を立った。途端にガヤガヤと賑やかになった講義室を縦断して、まっすぐ涼の席へと向かう。
 けれど、その途中でピタリと足を止めた。涼は、菅田と話している最中だった。珍しい組み合わせだな、と思うと同時に、昨日の菅田からのメッセージが頭をよぎる。『高倉から連絡きた?』というあのメッセージと何か関係があるのかもしれない。康介は二人に向かって足を踏み出した。
「おはよ、何の話してんの?」
 右手を上げつつ声をかけると、二人がそれぞれ振り返った。
「おー、はよぉ」
 菅田がにやりと口の端を持ち上げながらいつもの通りのダラリとした声音を出す。
「ん、おはよ」
 一方涼は、ぽつりと呟きながら、かすかに身を引いた。まるで距離を取ろうとするようなその仕草を怪訝に思う間もなく、目も合わせないまま早口で告げられる。
「ごめん、次、授業あるから」
「え、ちょっと」
 引き止めようと伸ばした手をすり抜けて、くるりときびすを返した涼は逃げるように足早に去っていく。遠ざかっていくその後ろ姿。康介はぼう然と眺めることしかできなかった。どうしたんだろう。俺何かしたっけ。困惑と焦りがモザイクのように入り混じり、ぐるぐると脳内を渦巻く。下ろすのを忘れた右手が中途半端にぶらりと宙をさまよう。
「あー、そうなっちゃったかぁ」
 苦笑混じりに呟く菅田の声が、どこか遠くに聞こえた。

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