握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

文字の大きさ
24 / 43
大事にしたい

しおりを挟む

「うん、ちゃんと食べてるよ。つーか今ちょうど食べ終わったところ」
 テーブルに並んだままの食器たちを眺めつつ、康介はスマートフォンに向かって話しかける。電話の向こうでは松雲が『おや、それはグッドタイミングでしたね』と穏やかに笑っていた。
 暖かさが少しずつ暑さに変わりだした六月の初めの、夜の八時過ぎ。不定期にかかってくる松雲からの電話は、今夜もいつも通り、取り留めのない世間話に終始している。何か用があるわけでもなく、ただ「元気にやっていますか?」「勉強は頑張っていますか?」などと尋ねる声は、少し気恥ずかしいながらもやっぱり嬉しい。月明かりの綺麗な夜に似合いの穏やかな声で康介は言葉を重ねていく。
「松雲こそちゃんと毎日三食食べてる? 締切に追われてぐだぐだになったりしてない?」
「はい、毎日三食きちんと……、とは、言い切れませんね」
 気まずそうな松雲の声は尻すぼみになっている。康介は呆れたようにため息をついた。
「やっぱり。ちゃんと食べなきゃだめだろ?」
「いやでも努力はしてますよ、清水屋のお世話にもなってますし……って、これじゃどっちが保護者か分かりませんね」
「まったく、世話が焼けるよ」
 ぽりぽりと頭をかく松雲の姿が目に浮かぶようだ。康介はふんと鼻を鳴らしてみせた。
「そういえば、新刊が出るのってもうそろそろだったよな?」
「はい、ちょうど明日ですよ」
「わかった。買いに行く」
 康介が言うと、電話口の向こうで松雲がふふっと優しく笑った。
「良い読者を持って私は幸せですよ」


 

 教壇上の先生が授業の終わりを告げる。と同時に、講義室内の空気がふわりと弛緩する。康介も腕を前に突き出して大きく伸びをした。
「わり、ちょっとノート見せてくれねぇ? 途中若干意識飛ばしてた」
 隣に座っていた丸岡がつんつんと肩を突いてきた。この授業は嶋田とも菅田とも一緒じゃないので最初は一人で受けていたのだが、ある日同じような理由で一人で受けていた丸岡に声をかけられた。それから一緒に授業を受けるようになったのだ。居酒屋で遅くまでバイトをしているという彼は、ときどき今日のように居眠りをすることがある。その間のノートを見せてやるのがもっぱら康介の役目となっている。
「いいよ、ほら」
 康介は苦笑しながらノートを差し出した。
「やった、いつもさんきゅ」
 パッと顔を輝かせてそれを受け取った丸岡が、自分のノートにぽっかりと空いた空白を埋めていく。
「芝崎のノート分かりやすいし、本当助かるわ」
 カリカリと軽快にシャーペンを走らせながら笑う丸岡に、康介も「そりゃよかった」と微笑んだ。
 講義室を後にして丸岡と別れた後、康介は学生たちがわらわらと溢れる廊下を歩く。今日はこれで授業が終わりだから、帰る前に大学内の本屋に寄っていくつもりだ。お目当てはもちろん、今日発売の松雲の本だ。購買や生協の本屋などがまとめて設置された棟は、今いる文学部の校舎からは少し離れた場所にある。頭の中で最短ルートを計算しつつ歩いていると、不意に背後から肩を叩かれた。
「なあ、英語の授業一緒だよな?」
 振り向くと、一人の男子学生が立っていた。たしか井上とかいう名前の彼は、例の吉村とよく連んでいたはずだ。いつも四、五人のグループでいる彼とはあまり話したことがないはずだが、一体何の用なのだろう。怪訝に思いながら頷く。
「うん、そうだけど」
「レジュメ貸してくんね? 先週のやつ」
 井上はへらりと歯を見せて笑った。そう言えば、先週の英語の授業は吉村たちのグループは全員欠席していた気がする。グループ内の者は当てにできないから、それ以外の同じクラスの者に声をかけることにしたのだろう。そこで康介に白羽の矢が立った、というわけだ。
 毎回授業の冒頭で行われる小テストへの対策や授業の予習をするためにはレジュメが必要だ。結構厳しい先生なので、小テストの結果や予習の有無も成績に含まれるのだ。幸い、康介は予習も対策も早めに済ませているのでそれを貸したところであまり支障はない。
「いいよ。ちょうど今持ってるから、渡すわ」
「おう」
 二人は人混みから抜け出し、エントランス付近の休憩スペースへと移動する。
 こじんまりとした休憩スペースはまばらに埋まっていた。康介はその端っこのテーブルにリュックを下ろし、中からレジュメの入ったクリアファイルを探る。
「なあ、お前って高倉と仲良いんだろ?」
 突然、横で見ていた井上が口を開いた。康介はちらりと井上を見、わずかに頷く。
「……そうだけど」
「ならアイツに言っといてよ、自分の顔は有効活用した方がいいって」
 ファイルを探っていた手が止まる。小さく眉を寄せつつ、康介は井上へと向き直った。
「どういう意味だ」
「そーいう意味。この前吉村に合コン誘われたろ? あれ、俺も行ってたんだわ」
 へらへらとした軽薄そうな笑みを浮かべる顔を、鋭く見つめる。
「高倉が行かねーっつうから結局女のコたちにドタキャンれてさあ、かなしーよな」
「……それは涼のせいでも何でもねーだろ」
「そりゃそーだけどさぁ。でもちょっとくらいきょーりょくしてくれたっていいだろ」
 駄々をこねる子どものように井上は軽く体を揺らす。ぺちゃんこのリュックが彼の背中で跳ねた。
「協力って言うのか、それ」
 康介は目を細める。井上がくくっと喉を鳴らした。
「まあ何でもいいよ、俺らにメリットさえあれば。つーわけで今度の合コンは参加するよう言っといてくんね?」
「行きたくもない場所に行けなんて言うわけないだろ」
「あらら、お優しい。どうせお前だってアイツのおこぼれに預かるつもりで仲良くしてんだろ?」
 井上が鼻で笑いながら吐き捨てる。
 カッ、と頭の奥が熱くなる。手の中のクリアファイルがぐしゃりと音を立てて歪んだ。康介は眉を寄せ、嘲るように笑う目の前の男を睨みつける。
「レジュメ、他のやつに見せてもらって」
 康介はファイルをリュックへと無造作に詰め込んだ。そして井上には一瞥もくれないままくるりときびすを返し、休憩スペースを飛び出した。
 学生の波が引いた廊下はやけに静かだった。康介は井上にかけられた言葉を振り切るように大股で歩く、けれどあの軽薄な声音は嫌な響きを伴ったまま脳内にこびりついて離れない。頭の奥でふつふつと沸き立つマグマもいまだ熱いままだ。きつく奥歯を噛みしめる。
 校舎の外に出ると、頭上には鉛色に淀んだ雲が垂れ込めていた。今にも泣き出しそうな空だ。湿気を孕んだ空気は冷たく、まとわりつくように重い。
 無性に、涼の笑った顔が見たかった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

真空ベータの最強執事は辞職したい~フェロモン無効体質でアルファの王子様たちの精神安定剤になってしまった結果、執着溺愛されています~

水凪しおん
BL
フェロモンの影響を受けない「ベータ」の執事ルシアンは、前世の記憶を持つ転生者。 アルファ至上主義の荒れた王城で、彼はその特異な「無臭」体質ゆえに、フェロモン過多で情緒不安定な三人の王子たちにとって唯一の「精神安定剤」となってしまう。 氷の第一王子、野獣の第二王子、知略の第三王子――最強のアルファ兄弟から、匂いを嗅がれ、抱きつかれ、執着される日々。 「私はただの執事です。平穏に仕事をさせてください」 辞表を出せば即却下、他国へ逃げれば奪還作戦。 これは、無自覚に王子たちを癒やしてしまった最強執事が、国ぐるみで溺愛され、外堀を埋められていくお仕事&逆ハーレムBLファンタジー!

竹本義兄弟の両片思い

佐倉海斗
BL
 高校一年の春、母親が再婚をした。義父には2歳上の引きこもりがちな連れ子の義兄がいた。初対面ではつれない態度だった義兄だった。最初は苦手意識があったのに、先輩に目を付けられて暴行されている時に助けられてから、苦手意識が変わっていった。それにより、少しずつ、関係が変わっていく。

今日もBL営業カフェで働いています!?

卵丸
BL
ブラック企業の会社に嫌気がさして、退職した沢良宜 篤は給料が高い、男だけのカフェに面接を受けるが「腐男子ですか?」と聞かれて「腐男子ではない」と答えてしまい。改めて、説明文の「BLカフェ」と見てなかったので不採用と思っていたが次の日に採用通知が届き疑心暗鬼で初日バイトに向かうと、店長とBL営業をして腐女子のお客様を喜ばせて!?ノンケBL初心者のバイトと同性愛者の店長のノンケから始まるBLコメディ ※ 不定期更新です。

俺の推し♂が路頭に迷っていたので

木野 章
BL
️アフターストーリーは中途半端ですが、本編は完結しております(何処かでまた書き直すつもりです) どこにでも居る冴えない男 左江内 巨輝(さえない おおき)は 地下アイドルグループ『wedge stone』のメンバーである琥珀の熱烈なファンであった。 しかしある日、グループのメンバー数人が大炎上してしまい、その流れで解散となってしまった… 推しを失ってしまった左江内は抜け殻のように日々を過ごしていたのだが…???

経理部の美人チーフは、イケメン新人営業に口説かれています――「凛さん、俺だけに甘くないですか?」年下の猛攻にツンデレ先輩が陥落寸前!

中岡 始
BL
社内一の“整いすぎた男”、阿波座凛(あわざりん)は経理部のチーフ。 無表情・無駄のない所作・隙のない資料―― 完璧主義で知られる凛に、誰もが一歩距離を置いている。 けれど、新卒営業の谷町光だけは違った。 イケメン・人懐こい・書類はギリギリ不備、でも笑顔は無敵。 毎日のように経費精算の修正を理由に現れる彼は、 凛にだけ距離感がおかしい――そしてやたら甘い。 「また会えて嬉しいです。…書類ミスった甲斐ありました」 戸惑う凛をよそに、光の“攻略”は着実に進行中。 けれど凛は、自分だけに見せる光の視線に、 どこか“計算”を感じ始めていて……? 狙って懐くイケメン新人営業×こじらせツンデレ美人経理チーフ 業務上のやりとりから始まる、じわじわ甘くてときどき切ない“再計算不能”なオフィスラブ!

恋文より、先にレポートが届いた~監視対象と監視官、感情に名前をつけるまで

中岡 始
BL
政府による極秘監視プロジェクト──その対象は、元・天才ハッカーで現在は無職&生活能力ゼロの和泉義人(32歳・超絶美形)。 かつて国の防衛システムに“うっかり”侵入してしまった過去を持つ彼は、現在、監視付きの同居生活を送ることに。 監視官として派遣されたのは、真面目で融通のきかないエリート捜査官・大宮陸斗(28歳)。 だが任務初日から、冷蔵庫にタマゴはない、洗濯は丸一週間回されない、寝ながらコードを落書き…と、和泉のダメ人間っぷりが炸裂。 「この部屋の秩序、いつ崩壊したんですか」 「うまく立ち上げられんかっただけや、たぶん」 生活を“管理”するはずが、いつの間にか“世話”してるし… しかもレポートは、だんだん恋文っぽくなっていくし…? 冷静な大宮の表情が、気づけば少しずつ揺らぎはじめる。 そして和泉もまた、自分のために用意された朝ごはんや、一緒に過ごすことが当たり前になった日常…心の中のコードが、少しずつ書き換えられていく。 ──これは「監視」から始まった、ふたりの“生活の記録”。 堅物世話焼き×ツンデレ変人、心がじわじわ溶けていく、静かで可笑しな同居BL。

【完結】君の穿ったインソムニア

古都まとい
BL
建設会社の事務として働く佐野純平(さの じゅんぺい)は、上司のパワハラによって眠れない日々を過ごしていた。後輩の勧めで病院を受診した純平は不眠症の診断を受け、処方された薬を受け取りに薬局を訪れる。 純平が訪れた薬局には担当薬剤師制度があり、純平の担当薬剤師となったのは水瀬隼人(みなせ はやと)という茶髪の明るい青年だった。 「佐野さんの全部、俺が支えてあげますよ?」 陽キャ薬剤師×不眠症会社員の社会人BL。

サラリーマン二人、酔いどれ同伴

BL
久しぶりの飲み会! 楽しむ佐万里(さまり)は後輩の迅蛇(じんだ)と翌朝ベッドの上で出会う。 「……え、やった?」 「やりましたね」 「あれ、俺は受け?攻め?」 「受けでしたね」 絶望する佐万里! しかし今週末も仕事終わりには飲み会だ! こうして佐万里は同じ過ちを繰り返すのだった……。

処理中です...