握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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僕のはなし

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 腕の中を空っぽにして、涼のもとへと戻る。涼は最後のひとくちを口に運んでいるところだった。プラスチックの小さなスプーンの先に乗ったオレンジ色のゼリーがつるりと吸い込まれていく。
「全部食べれたんだな、よかった」
 空になったカップを受け取ってテーブルに置き、代わりに買ってきていたお茶のペットボトルと風邪薬を手渡す。
「……錠剤ってなんか苦手なんだよな」
 手の中の小さな白い粒を見下ろしながら、涼が子どものようにぽつりと文句を言った。
「粉薬が苦手っていうのはよく聞くけど、錠剤が苦手っていうのは珍しいな」
 苦笑をもらしながら、「我慢してちゃんと飲んで」と促す。薬を飲む前から苦い顔をしながらも、涼はしぶしぶといった様子で薬を口に放り込んだ。熱があるせいだろうか、今日の彼は言動も表情もどこか幼さが滲んでいるようだ。
 こくん、と二回に分けて飲み下したのを確認して、今度は体温計を差し出す。涼は受け取ったそれを握りしめて、Tシャツの裾からもぞもぞと腕をさし入れた。白いシャツの裾からちらりと肌色が覗く。康介は思わずふいと目を逸らした。体温計を脇に挟みこむその動作をなんだか直視していられなくて、そんな自分が情けなくて。どぎまぎしてしまう内心を必死で鎮めながら、じっと床を見つめて体温計のアラームが鳴るのを待つ。
 二十秒後に鳴り響いた軽快なアラームになんだか救われたような心地になりながら、「何度だった?」と尋ねる。
「三十七度二分、だって」
 小さな液晶画面をこちらに見せながら涼が答える。本人は平熱だろうと言っていたけれど、やはりまだ熱はあるようだ。「最近の体温計ってすごいな、こんな早く測れるのか」と妙なところに感心している涼に苦笑しながら、「やっぱり熱あるから、まだ寝てた方がいいな」と布団に入るように促す。
 言われた通りにベッドに横になって布団をかぶった涼は、けれど、「……昼間ずっと寝てたから全然眠くない」とまた子どものような文句を垂れた。康介はベッドのそばにしゃがみ込み、彼の赤く染まった目元にかかる前髪をそっと払う。
「ごめんな、俺がお見舞いに来たから起こしちゃったな」
 眉を下げながらそっと小さく笑ってみせる。すると涼は反対にぎゅっと眉を寄せながらふるふると首を振った。枕に擦れる黒髪がぱさぱさと乾いた音を立てる。
「なんでそんなこと言うんだよ。俺、ほんとに嬉しいのに」
「そうなの?」
「うん」
 潤んだ瞳を瞬かせながら涼が頷く。ゆっくり動くまつげがほんのり赤い頬にかすかな影を落としていた。
「迷惑じゃない? 俺、結構図々しい自覚あるからさ」
 康介は首の後ろをぽりぽりとかいた。軽口を装った言葉には、水の中に垂らされた一滴の墨のように少しだけ本心が滲んでしまっていた。すぐ近くにある潤んだ瞳を見ていられなくて、思わず足元に視線を落とす。きゅ、と丸まったつま先がやけに情けなかった。
 涼がなにか言う前に、さっきの言葉を打ち消すように康介は慌てて口を開いた。
「なんてな。あっ、そうだ何かしてほしいこととかある? 俺なんでもするよ」
 おどけたように力こぶを作ってみせる。涼は一瞬何か言いたそうな顔をして康介を見上げたけれど、すぐに何事もなかったかのように微笑んだ。
「じゃあ、なんか話してよ。寝れるように」
 少しだけひそめられた声は、子犬が鼻を鳴らして甘えているみたいな響きだった。
「話か……、あっ、そういえば菅田が三限と四限の授業のレジュメ涼のぶんも取っとくって言ってたよ。一限のレジュメは俺が取っといたから、明日にでも渡すな」
「そっか。ありがとな」
「菅田も心配してたぞ」
「心配って、ちょっとした打算込みだろ」
 眉を寄せた彼はにやりと唇の端を上げた。どうやら菅田の小さな企みはすでに看破されているらしい。康介は声を上げて笑った。
「まあ、あいつのことだからなぁ」
「ありがたいことに変わりはないけどな。ちょっとくらいなら言うこと聞いてあげないと」
 仕方ないな、とでも言うように涼は目を閉じてため息をついた。
「……うん」
 その横顔に、なぜか少しだけ、胸の奥を針で突かれたような感覚になる。思わずきゅ、と唇をひき結ぶ。
 いつのまに降りだしていたのか、窓の外からかすかに雨音が聞こえることに気づく。どうやら空から落ちる雨粒は小さいらしく、さあさあと響く音はさざめきのように低くひそやかだ。物が少なくがらんとした部屋の中では、そんなかすかな音さえもはっきりと反響してしまう。
「……じゃなくて、康介の話が聞きたいんだけど」
 布団の端からにゅっと出てきた白い手にパーカーの袖をつい、と引っ張られる。
「俺の話?」
「ん」
「えぇー……」
 急に言われても、何を話せばいいのかまったく思い浮かばない。そもそも、涼の言う「康介の話」がどういうものなのかが分からない。康介は宙へと視線を投げながらぽりぽりと頬をかいた。
「うーん、どういう話をお望みなんですか涼さんは」
 握ったこぶしをマイクに見立てて涼の口元へと持っていく。「なんだそれ」とくすくす笑った彼は、少し考えるように目を伏せた。何か言葉を探すように、白いシーツの一点をじっと見つめている。
「えっと、この前菅田と話してたんだ、康介のこと。すごい人だよなって」
「えっ!?」
 唐突に告げられた思いがけない言葉に康介は目を見開いた。
「いやいや、突然どうしたの。ていうか、涼はともかく菅田がそんなこと言うなんて思えないんだけど」
 指先で首筋を触りながら苦笑してみせる。思わず饒舌になったしまったあたりに自分の動揺が透けて見えるようで、気恥ずかしさがこみ上げてじわじわと頬が熱くなる。
 涼がくすっと笑った。
「言ってたよ。芝崎はクソ正直でバカみたいに実直だからすげぇよなって」
「それ全然褒めてないよな」
 あいつめ、としかめっ面で唸ると、涼がふふっと声を上げた。
「でも俺も、康介のそういうまっすぐなところ、ずっとすげぇなって思ってたよ」
 それは、まるで言い聞かせるみたいな言い方だった。しとやかな雨音が響く少し冷たい部屋の中に、その静かな言葉がしみ入るように溶けていく。
「だから聞きたいんだ。もっと、康介のこと」
 ふわり、と照れたようにはにかむ涼は、けれどじっと目を逸らすことなく康介を見つめている。
「えっと」
 康介は小さく視線をさまよわせた。ぽりぽりと頭をかきながら、こくりと唾を飲みこんで言葉を探す。
「じゃあ、そうだな。あんまり面白くはないと思うけど、聞いてくれる?」
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