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僕のはなし
②
しおりを挟む数秒後、ガチャリとドアが開いて涼が顔を覗かせた。色が白いぶんうっすらと染まった頬の赤みがひどく鮮やかで、いつもは涼しげな目元もわずかにとろんと蕩けたようになっている。黒い髪には寝ぐせがついているから、おそらくついさっきまで寝ていたのだろう。
「いらっしゃい、わざわざありがとうな」
ドアを押さえたまま体を引いた彼に、康介はふるふると首を振った。
「いや、むしろ大変なときにお邪魔しちゃってごめんな」
「ううん。嬉しい」
そう言って小さくはにかんだ彼に、「入って」と促される。「お邪魔します」と告げながら康介はそっと敷居を跨いだ。
「こんなカッコで悪いな」
寝巻なのだろう、白い半袖のTシャツに黒のハーフパンツという自分の姿を見下ろしながら苦笑してみせる涼に「そんなの気にしないでよ」と返しながら、康介は初めて立ち入った部屋の中をぐるりと見回す。
殺風景な部屋だった。
家具はベッドと小さなローテーブルとキャビネットと、横倒しにされた三段ボックスの上のテレビくらい。どこかのモデルルームだと言われても納得してしまうほどに、整然としていて生活感が感じられない。植物も置物もない、住んでいる人の好みも嗜好も全く透けて見えないような、ひどく素っ気ない部屋。
ただ、ベッドのそばに置かれた本棚だけは違った。ぎっしりと本の詰まったそれだけが涼という人を、涼が暮らしているのだということを表しているようだ。
康介はそっと腕をさすった。手に提げていたビニール袋ががさりと乾いた音を立てる。
「……何もないだろ」
振り返った涼がふっと唇を曲げて笑った。心を読まれたようで内心ぎくりとしながらも、康介は動揺を悟られないように注意しながら「シンプルでいいじゃん、掃除楽そうだし」と笑ってみせる。
「体調はどんな感じ?」
「ずっと寝てたから朝よりはましになってるかな」
「そっか。熱はあるの?」
「朝より下がってると思うから、たぶんもうないと思う」
なんだか変な答え方だ。怪訝に思いながら、「朝は何度あったの」と尋ねる。
「わからない。微熱くらいだと思うけど」
「測ってないのか」
驚いて涼の顔を見つめると、彼は小さく首を振った。
「うち、体温計ない」
「えっ、まじで?」
康介は思わず大きな声を上げた。まさかそんな家が存在するとは思わなかった。ならば彼は正確な体温を分かっていないというわけで、つまり本当に微熱だったのかも今は熱が下がったのかも分からないということだ。
「ちょっとごめん」
断りを入れてから、康介は隣に立つ涼の額に触れた。やはり熱い。とても平熱とは思えない。
「薬は飲んだの? お昼ご飯は食べた?」
「……飲んでない。あんまり食欲ないからご飯もまだだけど……でも、平気だよ」
慌てて尋ねると、涼はわずかに肩をすくめて小首を傾げた。こちらを窺うようにおずおずと上目遣いで見上げてくる彼に、「いやそれ平気って言わないよ」と小さく眉尻を下げる。
「とりあえずまだ寝といたほうがいい。これ、冷却シート買ってきたからおでこに貼って」
ビニール袋から冷却シートの箱を取り出し、中身の包装を剥いで手渡す。
「あとウチから風邪薬持ってくるから、それ飲む前に何か食べて。ゼリーなら食べられる? プリンとヨーグルトとリンゴもあるけど、どれがいい?」
袋の中の食料たちを一つひとつテーブルの上に並べていく。言われるがまま素直にベッドに座っていた涼は、少し首を傾げて考えたあと「そんなにいっぱい買ってきてくれたの」と呟いた。なんだかやけに純朴な、子どものような声音だ。
「何なら食べられるか分かんなかったから。いらないヤツは俺がもらうから気にしなくていいよ。で、何がいい?」
「……じゃあ、ゼリーもらっていい?」
「うん。無理しないで、食べられるぶんだけ食べればいいから」
「うん」
ミカン味のゼリーを手に取り、蓋をはがしてスプーンを添えて渡す。「ありがとう」と受け取った涼の額に貼られた冷却シートがくちゃくちゃになっているのを見て、康介は「ごめん、食べる前にちょっと上向いて」と告げた。ゼリーとスプーンを持ったまま不思議そうに見上げてくる彼の正前に立ち、長めの前髪を持ち上げてシートをはがす。いつもは前髪に隠れて見えない、しみ一つない陶器のような額にそっと冷たいそれを貼りなおす。冷たさに驚いたのか、ピク、と涼がかすかに肩をすくめた。
「……ん、もういいよ。部屋から体温計と薬持ってくるから、それ食べてて」
涼が小さく頷くのを見届けて、康介は涼の部屋を後にした。
すぐ隣の、歩いて二秒の自宅のドアを開けて玄関に滑り込む。ドアを閉めると同時にズルズルとその場に座り込み、深く息を吐き出した。シュウシュウと音を立てる炊飯器から立ちのぼるご飯のいい匂いがふわりと鼻を掠める。
指先に残る、さっき触れた前髪のさらさらした感触と額に滲むたしかな熱。康介はのろのろと自分の両手を見つめた。ふと脳裏に、うっすらと頬と目元を赤く染めながらじっとこちらを見上げる姿が蘇る。そういう、生きている涼の姿があまりにも鮮烈だからこそ、あの殺風景な部屋がひどく寒々しくて寂しく感じてしまう。色の乏しい部屋の中で、涼の頬の赤色だけが浮いているように感じるのだ。
康介は両手をぎゅっと握りしめた。なにかを振り切るように勢いよく立ち上がってずかずかと部屋の中へと上がりこみ、サイドボードの引き出しを開けて体温計と薬を引っ掴むと、くるりときびすを返す。
涼の部屋に戻ると、彼はもそもそとゼリーを口に運んでいるところだった。カップの中のオレンジ色はまだ半分くらい残っている。
「全部食べられる?」
尋ねると、彼は「たぶん」と頷いた。
「よかった。じゃあ食べ終わったら薬飲もうな。プリンとか片付けておきたいんだけど、冷蔵庫開けていい?」
「うん。ごめん、いろいろ手間かけさせて」
「手間じゃないよ看病だよ。お見舞いに来たんだから当然だろ」
テーブルの上に並べてあったプリンやらリンゴやらを抱えながら、康介はにかっと笑ってみせた。
キッチンに向かい、冷蔵庫の扉を開ける。あまり自炊はしないと言っていた彼らしく、キッチンに備え付けになっている正方形の小さなものだけを使っているようだ。モーター音ばかりがいやに仰々しいそれの中は、想像していたよりも物が多かった。麦茶は作り置きしているようで茶葉のパックが浮かんだボトルがポケットに突っ込まれているし、その後ろには六個入りの卵のパックが鎮座している。中身は四つに減っているから、何かしら自分で作ったのだろう。他にも、レトルトのパウチに紛れてもやしの袋やウィンナーなどが転がっている。涼のおおよその食生活が想像できるようだ。
部屋自体よりも、むしろこの小さな冷蔵庫のほうが生活感がある。康介は小さな冷蔵庫の中のわずかな隙間に、腕に抱えていた品々を詰め込んだ。
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