30 / 43
僕のはなし
①
しおりを挟む右斜め前方の、ポツンと空いた空席。授業が始まって十分以上が経つのにいまだ埋まらないその席を見つめながら、康介は小さく首を傾げた。
水曜日の一限目のこの授業は学科の必修科目で、学生たちはみな学籍番号順に座らされる。康介の座る「し」のゾーンから見て涼の「た」のゾーンは右斜め前に位置していて、いつもなら彼の後ろ姿がよく見える。けれど今は、そこに涼の姿はない。一限目という朝早い時間の授業ではあるものの、必修なので毎回の出席率は悪くない。今日もほとんどの席が埋まっているから、ぽっかりと空いたその空席が嫌に目に付いてしまう。
どうしたのだろう。授業の話から脱線してペットの猫の話をしだした教授の話を聞き流しながら、康介は涼のいない椅子をじっと見つめる。涼が遅刻をしているところは見たことがないから、欠席なのかもしれない。風邪でもひいたのだろうか。梅雨明け間近とは言え、ここ数日はずっと肌寒い雨天が続いていたから、体調を崩してしまったとしてもおかしくない。ひとり部屋で寝込んでいる涼の姿を思い浮かべて、思わずシャーペンを握りしめる。
何度も腕時計を見やりながら遅々として進まない授業をなんとかやり過ごし、やっと迎えた休憩時間。康介はノートや筆箱をしまいもせずに、スマートフォンのチャットアプリに文字を打ち込む。相手はもちろん涼だ。
『一限休んでたけどどうしたー? 体調悪い?』
そんな文章とともに心配そうな表情のクマのスタンプを送ったそのとき、背後からポンと背中を叩かれた。振り返ると、相変わらず眠そうな目をした菅田がひらひらと手を振っていた。
「おはよー」
「おはよ」
「そういや今日高倉休みみたいだね」
涼の席の方を見ながら菅田が首を傾げる。
「うん。だから今、どうしたのってメッセージ送ったんだけど」
「風邪かなんかかなぁ」
呟いた菅田は、半分しか開いていない目を今度は窓の外に向けた。四階にあるこの講義室からは、灰色に染まった空がすごく近くに見える。
六月の、鍵探しを手伝ってもらった一件をきっかけに、菅田はよく涼と話すようになったらしい。前に一緒に晩ご飯を食べているとき、涼が言っていたのだ。最近菅田が、授業が被ったときや休み時間に偶然顔を合わせたときに何かと話しかけてくる、と。マイペースで飾ったところがなくて面白いやつだな、とも言っていた。
まあたしかに、授業に遅れそうなときでも飄々とした顔でのんびり歩くところはマイペースと言えなくもないし、ときどき辛辣な言葉や皮肉を言ってみせるところも飾らない性格の表れともとれるだろう。二人とも、実はなかなか相性が良いのかもしれない。実際、菅田はこうして涼のことを気にかけているようだし。
康介はちらりと菅田の顔を見た。大きなあくびをこぼす彼は相変わらず眠そうで、どこか飄々とした表情だ。
「……最近雨続きでちょっと寒いしな」
「今日も昼から降るらしいしねぇ」
手の中のスマホが小さく振動する。涼からの返信だろうか。慌ててチャットアプリを開いて涼とのトークルームを表示させる。
『うん、風邪かも』
『たいしたことないよ』
二つの小さな吹きだしに視線を落としたまま、「やっぱり風邪だって」と告げると、菅田は「あらまぁ」とおばさんのような反応をした。
「じゃあ三限と四限のレジュメ、高倉のぶんも取っておいてやろう」
「あれ、意外。お前そんなことするタイプだっけ?」
康介は目を丸くしながら菅田を見上げた。康介や嶋田といるときはむしろ二人のどちらかにレジュメを取りに行かせるような彼が、そんな殊勝なことを言うのが信じられない。
すると菅田は、わざとらしく腰に手を当てながら眉を吊り上げてみせた。
「失礼なやつだな、俺は案外気配り上手な男なんだよ。それに、高倉って律儀なところあるから恩売っときゃいろいろと都合良いかなって。ほら、テストも近いし」
「やっぱりお前はそんなやつだよ」
しゃあしゃあと言ってのける菅田に、康介はため息をひとつ零した。
「つーか、三限と四限のどっちも同じ授業取ってるんだっけ」
「うん。けっこー被ってる授業多いんだよね」
「ふうん」
「なに、羨ましい?」
思わずパッと顔を上げて菅田を見る。彼はにやにやと楽しそうに笑っていた。なんとなくきまり悪さと気恥ずかしさがこみ上げてきて、康介は小さく唇を尖らせた。
「べつに、そんなんじゃねぇよ」
目を逸らして眉を寄せながらもごもごと呟く。すると菅田は、今度はケタケタと声を出して笑った。
「まあまあ拗ねんなって。芝崎はお見舞いにでも行ってあげればいいじゃん」
バシン、と背中を叩かれる。さっきまでの眠そうな顔はどこへやら、いたずらっ子のように目を光らせて妙に楽しそうな顔つきになっている。康介はじっとりした目で菅田を見やりながら「言われなくてもそのつもりだ」と返した。
「なに、何の話してんだ?」
前の席に座っていた嶋田がくるりと振り返って二人を見る。授業中、彼はこくりこくりと舟をこいでいたから、授業後の今になって慌てて板書を写していたようだ。
「なんでもない。ほら、次の授業始まるから早く片付けろって」
康介は嶋田に向かって手を振ってみせた。それから素早くチャットアプリに『授業終わったらお見舞い行くな』と打ち込んで送信すると、自分も荷物をリュックに詰め込み始めた。
四限の授業はいつもより十分ほど早く終わった。おつかれー、と手を振る友人たちに同じように「おつかれ」と返事をしながらも、頭は涼のことでいっぱいだった。
お見舞いに行くつもりだけれど、何を買っていけばいいだろう。食欲がなくても食べやすいゼリーやプリンと、さっぱりした果物と、水分補給のためのスポーツドリンクと、とりあえず冷却シートと類いも買って行ったほうがいいかもしれない。もし食欲があれば自分の部屋でお粥でも作って持っていこう。こういうとき、部屋が隣同士なのは便利である。康介は顎に手を当てて小さく頷いた。
校舎の外に出ると、空一面に鈍色の雲が広がっていた。重い雲は手が届きそうなほどに低く垂れこめていて、少し指で突けば途端にぼたぼたとたくさん雫が落ちてきそうだ。夏本番も近いというのに、背後から吹き抜ける風はひやりと冷たい。雨が降る前特有の湿ったかび臭いような匂いが鼻を掠める。降られないうちに、と康介は急ぎ足で家路を辿った。
帰り道の途中にあるスーパーで買い物を済ませ、一度自宅へと帰る。リュックを下ろして、とりあえず米を炊いてから、さっき買ったばかりの品々の入ったビニール袋を携えて部屋を出る。
よくよく考えたら、涼の部屋に入るのは初めてだ。引っ越してきた初日と、五月に二人で映画を見に出かけたとき部屋を訪れてはいるものの、どちらも玄関先までしか見えなかった。涼の暮らす部屋って、いったいどんな部屋なんだろう。
そわそわと落ち着かない心をなんとか鎮めながら、康介はドア横のインターホンを押した。
0
あなたにおすすめの小説
目線の先には。僕の好きな人は誰を見ている?【高瀬陸×一ノ瀬湊 編】
綾波絢斗
BL
東雲桜花大学附属第一高等学園の三年生の高瀬陸(たかせりく)と一ノ瀬湊(いちのせみなと)は幼稚舎の頃からの幼馴染。
湊は陸にひそかに想いを寄せているけれど、陸はいつも違う人を見ている。
そして、陸は相手が自分に好意を寄せると途端に興味を失う。
その性格を知っている僕は自分の想いを秘めたまま陸の傍にいようとするが、陸が恋している姿を見ていることに耐えられなく陸から離れる決意をした。
僕の恋人は、超イケメン!!
八乙女 忍
BL
僕は、普通の高校2年生。そんな僕にある日恋人ができた!それは超イケメンのモテモテ男子、あまりにもモテるため女の子に嫌気をさして、偽者の恋人同士になってほしいとお願いされる。最初は、嘘から始まった恋人ごっこがだんだん本気になっていく。お互いに本気になっていくが・・・二人とも、どうすれば良いのかわからない。この後、僕たちはどうなって行くのかな?
番を拒み続けるΩと、執着を隠しきれないαが同じ学園で再会したら逃げ場がなくなった話 ――優等生αの過保護な束縛は恋か支配か
雪兎
BL
第二性が存在する世界。
Ωであることを隠し、平穏な学園生活を送ろうと決めていた転校生・湊。
しかし入学初日、彼の前に現れたのは――
幼い頃に「番になろう」と言ってきた幼馴染のα・蓮だった。
成績優秀、容姿端麗、生徒から絶大な信頼を集める完璧なα。
だが湊だけが知っている。
彼が異常なほど執着深いことを。
「大丈夫、全部管理してあげる」
「君が困らないようにしてるだけだよ」
座席、時間割、交友関係、体調管理。
いつの間にか整えられていく環境。
逃げ場のない距離。
番を拒みたいΩと、手放す気のないα。
これは保護か、それとも束縛か。
閉じた学園の中で、二人の関係は静かに歪み始める――。
鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる