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僕のはなし
①
しおりを挟む右斜め前方の、ポツンと空いた空席。授業が始まって十分以上が経つのにいまだ埋まらないその席を見つめながら、康介は小さく首を傾げた。
水曜日の一限目のこの授業は学科の必修科目で、学生たちはみな学籍番号順に座らされる。康介の座る「し」のゾーンから見て涼の「た」のゾーンは右斜め前に位置していて、いつもなら彼の後ろ姿がよく見える。けれど今は、そこに涼の姿はない。一限目という朝早い時間の授業ではあるものの、必修なので毎回の出席率は悪くない。今日もほとんどの席が埋まっているから、ぽっかりと空いたその空席が嫌に目に付いてしまう。
どうしたのだろう。授業の話から脱線してペットの猫の話をしだした教授の話を聞き流しながら、康介は涼のいない椅子をじっと見つめる。涼が遅刻をしているところは見たことがないから、欠席なのかもしれない。風邪でもひいたのだろうか。梅雨明け間近とは言え、ここ数日はずっと肌寒い雨天が続いていたから、体調を崩してしまったとしてもおかしくない。ひとり部屋で寝込んでいる涼の姿を思い浮かべて、思わずシャーペンを握りしめる。
何度も腕時計を見やりながら遅々として進まない授業をなんとかやり過ごし、やっと迎えた休憩時間。康介はノートや筆箱をしまいもせずに、スマートフォンのチャットアプリに文字を打ち込む。相手はもちろん涼だ。
『一限休んでたけどどうしたー? 体調悪い?』
そんな文章とともに心配そうな表情のクマのスタンプを送ったそのとき、背後からポンと背中を叩かれた。振り返ると、相変わらず眠そうな目をした菅田がひらひらと手を振っていた。
「おはよー」
「おはよ」
「そういや今日高倉休みみたいだね」
涼の席の方を見ながら菅田が首を傾げる。
「うん。だから今、どうしたのってメッセージ送ったんだけど」
「風邪かなんかかなぁ」
呟いた菅田は、半分しか開いていない目を今度は窓の外に向けた。四階にあるこの講義室からは、灰色に染まった空がすごく近くに見える。
六月の、鍵探しを手伝ってもらった一件をきっかけに、菅田はよく涼と話すようになったらしい。前に一緒に晩ご飯を食べているとき、涼が言っていたのだ。最近菅田が、授業が被ったときや休み時間に偶然顔を合わせたときに何かと話しかけてくる、と。マイペースで飾ったところがなくて面白いやつだな、とも言っていた。
まあたしかに、授業に遅れそうなときでも飄々とした顔でのんびり歩くところはマイペースと言えなくもないし、ときどき辛辣な言葉や皮肉を言ってみせるところも飾らない性格の表れともとれるだろう。二人とも、実はなかなか相性が良いのかもしれない。実際、菅田はこうして涼のことを気にかけているようだし。
康介はちらりと菅田の顔を見た。大きなあくびをこぼす彼は相変わらず眠そうで、どこか飄々とした表情だ。
「……最近雨続きでちょっと寒いしな」
「今日も昼から降るらしいしねぇ」
手の中のスマホが小さく振動する。涼からの返信だろうか。慌ててチャットアプリを開いて涼とのトークルームを表示させる。
『うん、風邪かも』
『たいしたことないよ』
二つの小さな吹きだしに視線を落としたまま、「やっぱり風邪だって」と告げると、菅田は「あらまぁ」とおばさんのような反応をした。
「じゃあ三限と四限のレジュメ、高倉のぶんも取っておいてやろう」
「あれ、意外。お前そんなことするタイプだっけ?」
康介は目を丸くしながら菅田を見上げた。康介や嶋田といるときはむしろ二人のどちらかにレジュメを取りに行かせるような彼が、そんな殊勝なことを言うのが信じられない。
すると菅田は、わざとらしく腰に手を当てながら眉を吊り上げてみせた。
「失礼なやつだな、俺は案外気配り上手な男なんだよ。それに、高倉って律儀なところあるから恩売っときゃいろいろと都合良いかなって。ほら、テストも近いし」
「やっぱりお前はそんなやつだよ」
しゃあしゃあと言ってのける菅田に、康介はため息をひとつ零した。
「つーか、三限と四限のどっちも同じ授業取ってるんだっけ」
「うん。けっこー被ってる授業多いんだよね」
「ふうん」
「なに、羨ましい?」
思わずパッと顔を上げて菅田を見る。彼はにやにやと楽しそうに笑っていた。なんとなくきまり悪さと気恥ずかしさがこみ上げてきて、康介は小さく唇を尖らせた。
「べつに、そんなんじゃねぇよ」
目を逸らして眉を寄せながらもごもごと呟く。すると菅田は、今度はケタケタと声を出して笑った。
「まあまあ拗ねんなって。芝崎はお見舞いにでも行ってあげればいいじゃん」
バシン、と背中を叩かれる。さっきまでの眠そうな顔はどこへやら、いたずらっ子のように目を光らせて妙に楽しそうな顔つきになっている。康介はじっとりした目で菅田を見やりながら「言われなくてもそのつもりだ」と返した。
「なに、何の話してんだ?」
前の席に座っていた嶋田がくるりと振り返って二人を見る。授業中、彼はこくりこくりと舟をこいでいたから、授業後の今になって慌てて板書を写していたようだ。
「なんでもない。ほら、次の授業始まるから早く片付けろって」
康介は嶋田に向かって手を振ってみせた。それから素早くチャットアプリに『授業終わったらお見舞い行くな』と打ち込んで送信すると、自分も荷物をリュックに詰め込み始めた。
四限の授業はいつもより十分ほど早く終わった。おつかれー、と手を振る友人たちに同じように「おつかれ」と返事をしながらも、頭は涼のことでいっぱいだった。
お見舞いに行くつもりだけれど、何を買っていけばいいだろう。食欲がなくても食べやすいゼリーやプリンと、さっぱりした果物と、水分補給のためのスポーツドリンクと、とりあえず冷却シートと類いも買って行ったほうがいいかもしれない。もし食欲があれば自分の部屋でお粥でも作って持っていこう。こういうとき、部屋が隣同士なのは便利である。康介は顎に手を当てて小さく頷いた。
校舎の外に出ると、空一面に鈍色の雲が広がっていた。重い雲は手が届きそうなほどに低く垂れこめていて、少し指で突けば途端にぼたぼたとたくさん雫が落ちてきそうだ。夏本番も近いというのに、背後から吹き抜ける風はひやりと冷たい。雨が降る前特有の湿ったかび臭いような匂いが鼻を掠める。降られないうちに、と康介は急ぎ足で家路を辿った。
帰り道の途中にあるスーパーで買い物を済ませ、一度自宅へと帰る。リュックを下ろして、とりあえず米を炊いてから、さっき買ったばかりの品々の入ったビニール袋を携えて部屋を出る。
よくよく考えたら、涼の部屋に入るのは初めてだ。引っ越してきた初日と、五月に二人で映画を見に出かけたとき部屋を訪れてはいるものの、どちらも玄関先までしか見えなかった。涼の暮らす部屋って、いったいどんな部屋なんだろう。
そわそわと落ち着かない心をなんとか鎮めながら、康介はドア横のインターホンを押した。
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