握るのはおにぎりだけじゃない

箱月 透

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【番外編】特別な時間

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 ほんの少しクリーム色がかった紙を指先でめくる。パラ、と乾いた音がかすかに響く。その一秒後、すぐ隣から同じ音が聞こえてきた。
 手の中の文庫本からちらりと視線を上げて隣を見やると、その視線に気づいたのか隣に座る涼も本から顔を上げた。康介を見て小さく首を傾げる彼に、何でもないと言うように首を振ってみせると、彼はまた読書に没頭し始めた。真剣な横顔につい口元が綻んでしまう。
 あの二人で話し合いをした雨の日から、もうすぐ一ヶ月が経とうとしている。あの日を機に、水曜日以外の日でも涼が部屋に来てくれるようになった。最初は康介が「新しい料理に挑戦したから食べて感想を聞かせてほしい」だの「作りすぎちゃったから食べるのを手伝ってほしい」だの何かと理由をつけて誘っていたのだが、つい先日、ついに涼のほうから切り出してきた。
「次の日曜日、康介の部屋に行ってもいいかな」
 膝の上で結んだ両手の指をすり合わせながらおずおずと尋ねた涼に、康介は大きく頷いてみせた。胸の中にあたたかいものがふわりと溢れて、鼓動が柔らかく弾む。そういう提案を彼の方から持ち掛けてきてくれるのは初めてだった。彼の方から部屋に来たいと言ってくれたことが、ひどく嬉しかった。
「もちろん。楽しみにしてる」
 口元を緩めながらそう答える。すると、涼は安心したようにほっと小さく息を吐いて、それから照れくさそうに眉を下げて笑った。幼い子どものように柔らかであどけないその笑みは、なぜか康介の胸に焼き付いて離れなかった。
 そうして今日、昼過ぎにやってきた涼に何がしたいか尋ねると、彼は少しためらった後、本棚とベッドのヘッドボードに積んである本を指さした。
「……康介の持ってる本、読んでいい?」
 ぽろりと零された言葉は意外なものだった。康介が一瞬きょとんとしたのを見て、涼が慌てたように手を振った。
「いや、嫌だったらべつに……」
「ううん全然嫌じゃない、ただちょっと驚いただけ。ほんとにそんなことでいいの?」
 康介が首を傾げると、涼はこくりと頷いた。
「うん」
「そっか。じゃあ一緒に読書タイムにしよっか」
 そう言って壁際に置いてある本棚ににじり寄ると、涼もその隣に並んだ。「どれでも好きなの読んでよ」と声をかけると、頷いた彼はじっくりと本棚を覗きこみはじめた。なんだか心の中を覗かれているみたいな妙な心地になる。気恥ずかしさを感じつつも、康介の目はずっとある一点を見つめていた。本棚の最下段の、右端に刺さった一冊の本。皺ひとつない真新しい背表紙のその本は、つい先日発売されたばかりの松雲の最新作である。あの話し合いの日の翌日に大学の書店で買ってきたそれを、涼は手に取るだろうか。以前、ただ姿を見かけただけで松雲の正体を当てたことを思い出しながら、康介はそっと唾を飲む。
 少しの間本棚を見回していた涼は、「じゃあ、これにする」と一冊の文庫本を抜き取った。それは、松雲の最新作ではないどころか松雲の作品ですらない、ミステリ小説だった。暗い色の表紙のその本に、康介はなぜかほっと胸をなでおろした。その後康介も読む本を決めて、二人で並んで座り読書タイムを始めたのだった。
 開け放ったカーテンの向こうから射しこむ陽光はどこまでも穏やかでキラキラとしている。日曜日の昼下がりが晴れている、というだけで、あるべきものがあるべき状態で収まっているような感覚になるのはなぜだろう。ピースがかっちりはまったパズルのような、ご飯と味噌汁とそれから主菜副菜がきちんと揃った食卓のような、それを当然と思えるような安心感がある気がする。康介は窓の外へと目をやった。梅雨の真っ只中ということもありここ数日はずっと雨の日が続いていたから、なおさら今日の穏やかな日差しに心が明るくなるのだ。ベランダでは、涼が部屋に来る前に干しておいた洗濯物がひらひらとはためいている。
 パラ、とまたかすかな音が響いた。室内への視線を戻すと、日光の残像で視界がほんのりと黒くなった。数秒目をつむってから、そっと隣の涼を盗み見る。金色の粒となって射しこむ陽の光が涼の横顔に穏やかな光を落としていて、まるで柔い金色のヴェールに包まれているかのようだ。なのに、文字を追って紙の上をはしる視線はひどく静謐で、伏せた長いまつげはどこか怜悧な印象を与えている。穏やかさと鋭さという相反するものを同時に抱えたその姿は、アンバランスさゆえにかえって神秘的にすら見えてしまう。思わずぼうっと見とれてしまっていた自分に気づいて、康介は内心で苦笑した。緩む頬をきゅっと引き締めて、本の世界へと集中しなおす。
 久しぶりに開いたその本は、そういえばこんなストーリーだったという懐かしさと初めて見つけたかのように思える文章の新鮮さの両方が感じられて、なかなか楽しい読書体験だった。物語の余韻に浸りつつパタンと本を閉じてそっと隣の涼を窺うと、彼はまだ手の中の文字を追っていた。読み終えた本を横に置いて、窓際に座る彼をじっと見つめる。左手の親指が押さえているページは残りわずかだから、彼もそろそろ読み終えるだろう。紙の上を素早くはしる視線は相変わらず真剣な光を帯びている。本を読んでいる姿がこんなにも綺麗な人間ってほかにいるのだろうか。そんなことをつらつらと考えていると、本から顔を上げないままの涼からちらりと流し目が寄越された。ドキ、とする間もなく、苦笑混じりに「見すぎ」と呟かれる。少し目を細めてくすくすと笑う顔が、さっきまでの読書中の真剣な表情とあまりに違っていて可愛くて、じわじわと頬が熱くなってくる。思わず目を逸らしながら、ほんの少し上擦った声で「えっと、ごめん……」とだけ返した。
 それから十分もしないうちに涼も手の中の文庫本をそっと閉じた。きゅっと肩を上げて猫のように伸びをしている涼に「面白かった?」と尋ねると、彼は満足そうに深く息を吐き出しながら「うん、面白かった」と笑った。
「どんでん返しがすごくて。これが伏線だろうな、とは気づくんだけど、それがどう結びついてどんな結末になるのか予想できなくてドキドキしながら読んでた」
「分かる、その本結末が予想できないよね。俺、伏線すらまともに拾えなかった気がする」
「ちょっと難しいけど、でも文章は平易でリズムがよくて読みやすいな。ストーリーも面白いし、好きだな」
「だよな。俺もお気に入りなんだ、その本」
 手に持った本の表紙に視線を落として小さく唇を綻ばせる涼につられるように、康介も頷きながら微笑む。同じ本を好き、というただそれだけなのに小さな泡のような喜びがふわりと胸に浮かんでくる。
 ベランダでは雀たちが楽しそうにさえずっている。窓から射しこむ明るい日差しに誘われるようにふと顔を上げると、涼もつられるように窓の外へと目を向けた。干した白いタオルの向こうに、水彩画のような澄んだ青空が広がっている。時間の流れが遅くなったかのような錯覚を覚えるほど、のどかな光景だ。
「なんか、贅沢だよな」
 思わずぽつりと呟くと、涼が「なにが?」と不思議そうに振り返った。
「こんな晴れてる日の午後に、誰かと一緒に並んで本を読んでるってことが」
 そう言うと、彼はもう一度窓の外に目をやりながらこくりと頷いた。
「たしかに。誰かと本を読むって状況自体珍しいしな」
「うん。読書って、大抵の場合自分のために自分だけでするものだから、誰かと一緒にそれをするってことがなんか特別に思えるっていうか」
 言ってしまってから、なんだか妙に恥ずかしいことを口にしたような気がしてくる。康介はぽりぽりと頬をかきながら、手元に置いた文庫本の表紙の題字へと視線を逸らした。ふふ、と小さく涼が笑う。
「なんか、一緒にご飯食べるのと似てるな」
「え?」
 思わぬ言葉に、康介はパッと顔を上げて涼を見た。すぐ隣に並んでいる黒い瞳と目が合う。目を見開いた康介の表情に訝しげに首を傾げた涼は、その一瞬後に自分が零した言葉の意味に気づいたのだろう、かあっと頬を赤く染める。
 涼も、ここで並んで晩ご飯を食べるあの時間を特別だと感じてくれていた。それがあまりに嬉しくて、胸の内側がくすぐったい。じわじわとあたたかいもので心が満たされて、口元の力が抜けてしまう。
 康介は立ち上がると、口元に手を当ててそっぽを向いている涼に向かって告げた。
「じゃあさ、一緒に晩ご飯の材料買いに行かない?」
 言外に、今日も一緒に晩ご飯を食べよう、という誘いを滲ませながら尋ねる。涼が振り向き、こちらを見上げる。ぱちぱちと瞬きをする彼の、黒髪から覗く小さな耳はいまだ赤みを残していた。
「うん、行きたい」
 こくり、と涼は大きく頷いた。康介はへへっと歯を見せて笑う。
 本棚の上に置いてあった財布と鍵をポケットに突っ込んで、冷蔵庫の横に引っ掛けてあったエコバッグを手に取る。後ろをついてきていた涼が感心したように小さな声をもらす。
「エコバッグ使うの初めてだ」
「まじか、じゃあ今日はエコバッグ記念日だな」
 軽口を叩きながら、スニーカーを引っ掛けてドアを開ける。夕方特有の柔らかなオレンジ色の光がドアから部屋の中へと射しこんで、たちまち体を包む。賑やかな子どもたちの声が、アパートの前の道路から聞こえてきた。
「晩ご飯、何がいい?」
「んー……、一緒に作りたいから、俺でも手伝える簡単なやつがいい」
「じゃあ、暑くなってきたし冷しゃぶにしようかな。冷蔵庫にレタスの残りがあったはずだし」
 二人は並んで、穏やかな夕焼けの景色へと足を踏み出した。
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